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彩衣と沙織を引き連れ、美穂たちが自分のセクションにつき各々のデスクにつく。
しかし、部下たち全員が美穂の方へ視線を向けながらひそひそと小声で話しているのが、手に取るようにわかる。
『全く、仕事が全然進んでいないわ!』美穂はデスクから離れ、皆の前で立ち止まる。
「はい、皆さんは何をひそひそしているのかしら?何か言いたいことがるのなら、今すぐ言って下さい」と皆に宣言する。
シーン、と静まり返る部下たち。すると沙織がすっと立ち上がり、「はい、ダイレクターが今朝、副頭取とランチのアポを取っていたことが噂になっています」
「あー、あれね。何かこの前の会議のことで色々と話したいんじゃないかしら?私も実のところ、聞きたいこともあったし」と適当に理由をつける。
すると、もう一人の部下が、手を挙げる。受付嬢たちと仲の良い千夏さんだ。「あのー、ダイレクターがすごい車で会社に乗り込んで、ドライバーにドアを開けてもらっているのを見かけたと聞いたのですが」
『これはもう日常のことになるから、すぐにばれるし』と思いながら「これから私の通勤は暫くああなるので、あまり気にしないように」
「いや、4千万円以上の高級車で送り迎えされているのは、気になるんですが」と一人の男性部下が指摘する。
『直樹さん、どうしてそんな車で!!』美穂が心の中で叫ぶが、もう手遅れ。質問に何か裏があるのかと思い彼の感情を探るが、彼から感じ取れるものは単に好奇心だけだ。ため息をつく美穂。「まあ、私の知り合いで、ちょっとした事情で今は送り迎えをお世話になっているの。その事情はプライベートですので、ご理解を。ほかに何か質問は?」
誰もが無言だったので、少しの間をおいてからパンパンと手をたたき、「はい、それでは仕事に戻ってください。噂の種は無くなったので」と言いながら、部下たちを仕事に戻す。
半信半疑という感じで、部下たちが仕事に戻るが、美穂の説明が部下たちの好奇心を一応満たしたのか、何とか日常的な流れに戻った。
しかし、ランチタイムにまた頭を痛める問題が起こった。
美穂がデスクで部下たちとミーティングを行っているとき、副頭取が美穂のセクションに足を運んできた。美穂が部下と会議室にいるのを見て、部屋のすぐ外で待っているようだ。美穂も部下たちも、一瞬開いた口が塞がらない。
「えっと。みんな、今日はこれまでね。持ち場に戻って仕事を続けて」と会議を解散させ、室外で待っている副頭取に挨拶をする。
「副頭取、秘書からのアポ待ちだったのですが」美穂が彼に確認すると「いや、私が直接来た方が、早いと思ってな」と言いながら「ランチのことだが、寿司でいいかね?」と美穂に聞いてくる。
『え?私か選ぶの?』と困惑しながらも「ええ、勿論よろしいですわ」と返事する。
「それはよかった。頭取も寿司好きなのでな」と笑顔で返してくる。
後ろの方から、がたっと音がしたと同時に「いて!」と誰かが口走る。
「もう下に車を待たせてあるから、行こうか」
「あの、すみませんが、今、頭取と言われました?」こわごわと確認する美穂。
「ああ、私が君をランチに誘ったと言ったら、頭取も君と話したいというのでな」と部下たち全員の前で言い放つ。
『今まで部下たちを落ち着かせるための私の苦労は何だったのかしら』と内心がっくりとする美穂。
「そうなのですか。それでは、行きましょうか」美穂はこれ以上部下たちにとんでもないことを聞かれるのを防ぐため、副頭取とともに部屋から出ていく。
数秒もたたないうちに、後ろから「頭取とランチ?」「頭取が会いたがっていた?」「やっと坂無ダイレクターのセクションに入ったのに?!」「いやだー!ダイレクター、昇進しちゃダメー!」など部下たちの声が響いてきた。
「ダイレクターは、慕われているな」後ろからの騒ぎが聞こえたのか、副頭取がそう美穂に話しかける
「ええ、恐れ入ります。にぎやかですが皆あれで、優秀な部下たちなので」
「分かっている。君のセクションは、毎四半期に、常に会社のセクション五位以内に入っているからな」
「それもみな、部下たちのおかげです」これもまあ、事実だ。
「上司が優秀でないと、部下も優秀な者達は集まらないと思うがね」
「恐れ入ります」
美穂もこの間に副頭取を読んでいるが、特に何もない。というか、いたって穏やかだ。
『うーん、これはこれで、不気味だわ。まあ、目的は直樹さんのことだろうけど』美穂も笑顔を顔に張り付けたまま、会社のロビーから表へ出ると、車から頭取が出てきた。
「やあ、すまんな、急に藤本とのランチに割り込んでしまって」
柏木頭取はこの10年間、会社のトップを維持した人物だ。頭も切れる。話すきっかけを作るということは十中八九、直樹さんのことだろうと思う美穂。
「いえ、お二人とランチなんて、恐縮です」
車で移動中は、他愛もない話で時間を埋める。柏木頭取も別に緊張感も何もなく、ただ副頭取と美穂を連れて三人で食事という感じだ。
10分ほどで、すし屋に着く。美穂がよく見ると、これって料亭だ。『またどうして料亭なんて』
一応名前を憶えておき、二人の後を追い中に入る。
女将さんに挨拶され、すぐに奥の個室へと通される。
皆が座り落ち着いたところで、「坂無君、まあこれからの話は他言無用でお願いできるかな?」頭取がきりだしてきた。
「はい。もちろん直樹さんのことでしょうね」と美穂が答える
「なるほど、彼とは下の名で呼びあえるほど親しいようだね」表情には出ていないが、美穂には頭取がどこまで話そうか困っているのが分かる。
「神海さんは現在、私と同じマンションに引っ越してきたので、そこで知り合ったのです」と、一応無難な情報を差し出しておく。
「なるほど、それで親しくなったと」
「はあ、まあ、そうですわね」まあ、情報はほかにも色々とあるが、そこまでは提供しない。
「それで今日、受付嬢たちから聞いたのだが、今朝は豪華な外国車で送ってもらっていたと聞いたのだが」
「私は車に疎いので詳しいことはわからないのですが、確かマイバッハだったと思います」
「いや、あれは私も驚いたよ。物件並みの値段の車だからね、あれは」と副頭取が会話に入ってくる。
「そうなのですか、確かに素晴らしい乗り心地でしたわ」確かに乗り心地は、最高だった。
「神海さんのドライバー付きかね?」
「ええ、送り迎えの点では直樹さんにしばらくの間お世話になりますわ」
頭取が急に真剣になり、話を戻す「ところで、神海さんは、今のところどうしているのかね?」
「今のところは、ほとんどマンションから出ていないようですが、何かに没頭されているようですね」嘘は言っていない。彼はほとんど外出しない。護衛さんたちが食事を持ってくるか、美穂たちと食べるかのどちらかだった。「もし何か知りたいことがあるのなら、今度一緒の時に直樹さんに尋ねることもできると思いますが」頭取がこのチャンスをどう利用するかで、美穂も直樹さんがなぜこの会社にとってそんなにも重要な人物かがわかる。
「いや、彼の会社がIPOを行うと、莫大な儲けにつながるのでな」
「革命的なコンピューティングシステムのことでしょうか?詳しいことはお聞きしておりませんが、直樹さんがそう仰っていたので」
美穂の言葉を聞き次第、急に頭取の決心が固まったような感じが美穂に伝わる。
「そうだ。実のこと、彼は量子コンピュータシステムから雑音を消し、NISQコンピュータを進化させ、実用化に成功したのだよ」