『ドブ川飲衛門(ドブガワインエモン)、またの名を佐道隆作(サドウリュウサク)』
『ドブ川飲衛門、またの名を佐道隆作』
⑴
ある所に、佐道隆作という男がいた。まだ若干26歳の男だが、この男はたいそう田舎者であった。いや、人によっては、ド田舎の男だというかもしれない。本人は、他者に、対して、気軽に会話のできる、いわゆる人馴れした男であったが、田舎者であることをバレルことに絶えず怯えていた。言葉の作法、食事の作法、働き方の作法、何一つ知らず、ド田舎から一人出てきた人間であった。それでも、達者な話術で、いつもその窮地を乗り越えてきた。
⑵
或る団子屋へやって来た彼は、お腹を空かしていた。茶屋の椅子へと腰かけると、店員の人がやって来た。
「いらっしゃいませ。こんにちは。本日、なに団子になされますか?」
隆作は焦りだす。(ちょっとまてよ、団子屋になに団子があるかなんて知らないぞ。なんていえばいいんだ。そうだ、桜だ。桜餅だ。)
「それでは、えっと、桜餅を頂こうかな」
すると店員はこう言う。
「申し訳ありません。本日、もう桜餅は売り切れになりました。三色団子でしたら、桜味が一つ入っておりますが」
隆作は、しめた!とばかりにその話に乗っかった。
「そう、それいいね。三色団子。三色団子下さい」(ふーう、セーフセーフ)
こんな感じで、隆作の毎日は続いていた。
⑶
或る日、隆作は按摩屋へと繰り出していた。とにかく、体中の骨と筋肉がおかしくなっていた。
馴染みの店なのである。ささっとのれんを潜り、よっ、大将、と声を掛ける。
「今回もまた、いつも通りに、按摩、してください」
「あいよっ」大将はご機嫌に隆作の身体をほぐしていく。しかし、いつも隆作には不安が付きまとっていた。それは、按摩自身のことではない、隆作自身の言葉、のことなのである。
「ここ凝ってるね、強めにやっときますね」
「はい」隆作はまずほっとする。というのも、まいかい「ほい」と言ってしまいそうになるのである。これでは田舎者丸出しだし、格好悪いのなんのって、とにかく「はい」を繰り返し返ずるのである。
そして心の中で、(ああ、今日も「ほい」の一文字も出なかった。ああよかった。やればできるじゃん。)と思いながら、按摩屋を後にするのである。田舎者という真実だけは、ここでも避けねばならないことなのだ。
⑷
そうした、表では都会人、裏では田舎者、を演じ切る生活にも疲れ切った、人生の中で、40歳を迎えた頃のこと。
隆作は大そう体中が、また、顔中が、夏の暑さでおかしくなっていた。もう死ぬかもしれないというくらい、どうにもおかしいのである。もうじき死ぬんだろうか、いや死にたくない。どこかで水を浴びたい。
そんなおり、街と街を繋ぐ橋の下に、川が流れている所を発見したのだ。隆作は居ても立っても居られない。近くまで行き、両手いっぱいに水を汲んで、顔を洗った。これがまた、少し変な匂いで、変な味がし、色が濁っているのである。そう、それはドブ川だった。しかしもういい、我慢の限界だ、ドブ川の水でも何でもいい。隆作は、人生を掛けて、自暴自棄にもなっていた。
すると、橋の上からその様子を見ていた子供たちが、「ドブ川で顔洗ってる、やばいやばい。汚ねええの。バーカバーカ」そう言っている。隆作は気にも留めない、それどころか、意地になっていた。(どうせ俺なんか、田舎者の世間知らずのバカ者だ。)
子供たちがはやし立てる。「ドブ川飲んでもいやがる。飲衛門だ。ドブ川飲衛門だ。」隆作は少し泣いている。また、少し悔しくもあり泣いている。ドブの水か自分の汗か、本当は涙か、それもわからない。しかし、嗚咽がする。確かに泣いている。隆作は泣いている。ドブ川飲衛門は泣いている。「バーカバーカ」子供たちに、大人まで混じって、叫んでいる「汚ったねえの。バーカ」飲衛門は泣いている。しかしこれは、この涙だけは、田舎者の自分が、本当の田舎者で居られる時の、純粋な涙だ、と確信している。誰にだって譲りはしない、田舎者の、純粋無垢だと知っている。飲衛門は泣いている。ただ、泣いている。滝のように泣いている。発狂したかのように泣いている。
この話は瞬く間に街に知れ渡って、『ドブ川飲衛門』という話として、後世に伝わった。その一件の当日、隆作は街から姿を消した。自殺したのか、田舎へと帰ったのか、それとも、ドブ川に飲まれてどこかへ流されていったのか。
しかし、この話は、軽蔑の対象というよりも、純粋な田舎者の話として、美談として後世に伝わったことは、当のドブ川飲衛門、またの名を佐道隆作も知らないであろうとのことだった。