朝
次の朝、また彼は同じ場所にいた。
昨日の失敗を心底悔いていた絵麻は、「今度こそ」と話しかけてみる。
「お、おはよう!」
昨日と同じように絵を描いていた成瀬は、一瞬ビクッとなって振り返った。
「あ、おはよう…」
驚かせてしまった、また失敗した、と絵麻は思った。
でも、せっかくあの絵のことを聞けるチャンスだし、ここで諦めるわけにはいかない。
「あの、美術室の前に飾ってある教室の絵、あれって成瀬くんが描いたの?」
「そうだけど・・・よくわかったね」
「うん!だって、今描いてるのも、同じ教室の絵だよね?」
絵麻は成瀬の持っているスケッチブックを指しながら言った。
「それにさ、去年の秋頃だったかな、美術館に、もしかして展示されてなかった?朝の教室の絵」
成瀬は少し驚いたような顔をしていた。
「あ、うん、そうだね。でもよく『朝の』教室の絵ってわかったね」
「うん!だって私も、大好きだから。小学校の頃はいつも早く行ってて、あ、今は全然できてないんだけど、美術館であの絵を見た時、これだ!凄い!って思ったの。衝撃だった。私が好きな景色と、同じものが好きな人がいるんだって思ったら、嬉しくって嬉しくって・・・」
成瀬が面食らっていることに気付き、絵麻は喋りかけの表情のまま固まった。
「・・・」
「・・・ご、ごめん、喋りすぎちゃったね」
「あ、いや、ちょっとびっくりしただけ・・・そろそろ俺、自分の席に戻るね」
そう言って成瀬は自席に戻り、スケッチブックを鞄の中へしまった。
本日二度目。通算三度目。
また失敗した、と絵麻は半泣きになった。
(やってしまった・・・いきなりマシンガントークとか・・・てか訳わかんないこと喋っちゃってないかな。何にせよ、ドン引きだよね、うぅ・・・)
次の日、絵麻は少し緊張しながらまた同じ時間に登校した。
(昨日逃げられちゃったし…ウザい奴が来るのが嫌って思われて、いなかったらどうしよう)
ドキドキしながら教室を覗くと、彼はまた同じように座っていた。
ほっ、と息を吐いたのが、聞こえてしまうんじゃないかと思うくらい、身体の力が抜けた。
「成瀬くん、おはよう!あの、昨日は、ごめんね」
「おはよう。何がごめん、なの?」
「え、いや私、なんかテンション上がって変に喋りすぎちゃったなって」
「ふふっ。大丈夫だよ、朝霞さんって、面白いね」
あ、初めて笑ってくれた。
その時、ふと心が温かくなるような、緩むような感覚を憶えた。
それから次の日も次の日も、彼は同じ時間、同じ場所にいた。
だんだん、絵麻とも普通に話してくれるようになったと思う。絵麻もいつのまにか、朝は自然と早く起きられるようになっていた。
成瀬は基本的に自分からは話さず絵を描いているが、絵麻から話しかけることを拒むことはなかった。絵麻は、美術室の絵と去年の作品展の絵が繋がったこと、どうしても描いた人を知りたくて朝早くに学校に来てみたこと、ようやく会えて嬉しい、ということなど包み隠さずに話した。
「どうしてそんなに、絵の作者に会いたかったの?」
珍しく成瀬の方から質問を投げかけられた。
「えっとね、『朝の教室』が好きだって言ったよね。それまで、その空間って自分だけのものってどこかで思ってたんだ。それが好きってことも、特に誰にも言ったりしてなかった。だけど、同じものが好きな人がいるってわかって、なんか、凄く嬉しくて。中学に入ってから部活も忙しかったり、早起きできなかったりで正直なところすっかり忘れちゃってたんだけど、絵を見てまたそのことを思い出して…描いた人が同じ中学にいるのかもって思ったら、居ても立っても居られなくて」
絵麻はまたしても一気に話してしまった。成瀬は固まってしまって反応がない。またやってしまったか、と思いつつ、空気を変えるべく、別の話題を振ってみることにした。
「あの、成瀬くんって、下の名前、『秋』に『輝く』って書いて『あき』って読む…んだよね?」
「あ、うん」
「凄くいい名前だね、ぴったり」
「え、そう・・・?大体一発では読んで貰えないし、ちょっと不便だけど…ぴったりって何で?」
自分の名前の話になり、少しばかりはほぐれたようだ。
「去年、作品展が秋にやってたでしょ。美術館で見た時、あの絵だけ本当にキラキラ輝いてて。
あの絵を描いた人なんだから、ぴったりだなって」
「そ、そうかな」
「そうだよ!あ、あのさ、成瀬くんのこと、秋輝って呼んでもいい?」
「えっ・・・あ、まぁ・・・」
「ありがとー秋輝!・・・あ、そろそろ誰か登校してきそうな時間だし、私、席に戻るね!」
絵麻は自分から名前で呼ぶことを提案したものの、口にしてみたら何だか照れくさくて、そそくさと会話を切り上げた。
これまでの朝の時間でわかったことだが、秋輝は教室に誰かが登校してくる前には自席に戻り、スケッチブックは鞄の中にしまってしまう。絵を描いていることは、クラスの仲の良い友達にも、特に教えていないようだった。
また、朝のその時間以外は、特に示し合わせたとかはなく、絵麻と秋輝は話したりはしない。絵麻は絵麻の友達と、秋輝は秋輝の友達と、それぞれ過ごしている。絵麻は遅刻ギリギリではなくなったが、そんなに早朝に来ているとも紗季や久保には知られてはいない。
それがまた、ふたりだけの秘密の時間のような気がして、嬉しかった。
ある時、絵麻は秋輝に、周りの人間に朝に絵を描いていることを教えない理由を聞いてみた。
――朝の教室の何が好きかって、自分だけしか今ここにいない、この良さを独り占めしている、そんな空気感が好きなんだ――
だから、誰にも言っていない、と秋輝は続けた。
その答えを聞いた時、絵麻は胸がチクリと痛むのを感じた。
そしてそのことに、戸惑いを憶えた。
(なんだろう、この感じ。そうだよね、私だって、その感覚が好きだったわけだし…)
また同時に、私なんかが毎朝来てしまって、悪いことをしてしまったのではないか、そう思った。
だが、それを口に出してしまったらもうここに来れなくなってしまう気がして、言えなかった。