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AA-07  作者: 雨宮吾子
9/15

09

 それから僕らの共犯関係は始まった。

 暇を見つけては街へ出かけ、色々な写真を撮った。ちょうど大学が夏休みに入る時期だったので時間はたっぷりあったが、その夏は雨が多かったので予定が流れてしまうことも少なくはなかった。それでも小春は不平不満を言わなかったので、僕は大いに助かった。

 僕らから共犯関係を取り払ってしまうと、そこには非常に曖昧なものしか残らなかった。彼女が何度か僕のバイト先に冷やかしに来たときも、僕らの関係をオーナーにどう説明すれば良いか迷った。ただ、今はそれでも充分だった。

 京子とも何度か顔を合わせることがあった。彼女は僕らのことについて知りたがっているようだったが、それは僕らの関係というよりも僕らの表現するものに重点を置いた興味だったので、包み隠さず全てのことを話した。もしかして彼女は僕のことが好きなのかもしれないと、寝ぼけた頭で考えることもあった。しかし、それは僕の自惚れに過ぎないのだ。






 夏休みも終わりに近づいたある日のこと、僕らはやはり街へ出かけて写真を撮ることにしていた。その前日も夕方から夜にかけて写真を撮ったから、二日続けてということになる。それは珍しいことではなかったが、そう頻繁にあることでもなかった。少しばかり気が緩んでいたのかもしれない。

 僕らはいつも駅前で集合する。駅前といっても同じ駅ではなく、その日その日によって出かける地域が違うから、それぞれの駅前の目立つ場所で待つことになっている。まあ、今はどこからどこへでも連絡ができるような便利な世の中だから、待ち合わせ場所が少し変わったところで問題はない。

 その日も僕らは駅前の目立つ場所で合流し、駅の周辺をぶらつくことにした。駅前の通りから商店街を目指して歩く。商店街の外れにある喫茶店の前に置かれているスタンド式の看板が目に入った。小春がそこに手をかけて気怠い表情をしてみせると、僕はすぐさま写真に収めた。いつも大体そのようにして写真を撮る。僕が細かい指示を出すこともあったが、基本的には言葉を交わしてどうこうということはない。彼女がポーズをとるか、僕がカメラを構えるか、そのどちらかが合図だ。

 二枚、三枚と、彼女が表情の色を変えるごとに写真に収めていく。彼女が駆け寄ってくるのと、僕らがカメラを下ろすのとは、同じタイミングだった。一日の撮り始めはいつもお互いに緊張しているので、まず撮った写真を確認して、自分自身と相手の調子を確認する。今日は彼女の方の調子が良くないらしく、写真を確認した彼女の表情は明るくはなかった。

 ふと、カメラの液晶画面に見慣れぬマークが表示された。


「あっ、しまった」


 彼女が不思議な表情をしたので、僕は半ばまごつきながら説明した。


「充電し忘れたんだ」


 バッテリー式のカメラの宿命だった。予備のバッテリーは持ってないし、乾電池で代用もできないから、その日の撮影はそこで打ち止めにするしかなかった。僕が平身低頭して謝ると、彼女は困惑した表情を浮かべながらも、


「怒っても仕方ないから怒らない」


 というような意味のことを言った。緊張が緩んだような、どこかほっとした表情のようにも思えた。

 僕らはそれからどうしようかと相談したが、店の前で写真を撮らせてもらったこともあり、そのまま喫茶店に入ることにした。


「喉が渇いたわ。冷たいコーヒーでも飲みたい」


 僕がアイスコーヒーを注文すると、彼女はアイスティーを注文した。


「コーヒーが飲みたかったんじゃないの?」

「カメラマンとモデルが全く同じ感覚を共有してはならない。これが私の信条よ」

「詳しい説明が欲しいな」

「特に理由はないの。同じ空間、同じ時間を共有するのは良いことだけど、同じ意識を持っているのは良くないと思えるだけ。だって、同じ意識でいるなら二人に分かれている必要はないでしょ」

「理由がなくても信条にはできる?」

「もちろん」


 彼女と話していると胸がざわつくことがある。きっと僕の中にはないものを吹き込んでくれるからだろう。僕はそのために自分自身が揺れ動いているのがよく分かった。

 そういえば、京子がこんなことを言っていた。


「野崎くん、随分変わってしまったのね」


 つい二、三日前に会ったときに言われた言葉だ。僕は気付かないうちに小春に感化されてしまったのかもしれない。

 実際のところ、小春は思っていた以上に変人で、どうしようもない人間で、愛おしかった。彼女は上流の巌だった。それに比べれば僕は下流の小石のようなもので、川の中を流れ流されるうちに丸くなってしまったようだ。僕はまだ、表現者にはなれないだろう。でも、僕が見込んでいた通り、彼女こそが僕を表現者に押し上げてくれる存在に違いない。

 ところで僕の彼女に対する恋愛感情はどうなってしまったのだろう? ふとした瞬間に彼女をこの腕に抱きしめたくなるときがある。その欲望は、大抵はすぐに解消されたが、たまにどうしても拭い去れないときがあった。そんなときには家の近所のコンビニまで小走りで買い物に行く。ジュースを買い、お菓子を買い、甘いものを買い、とにかく欲しくなったものを衝動買いをする。そして、やはり小走りで家まで帰り、それらを満足できるまで貪る。そうすれば腹に流し込んだものの彼方に欲望を追いやることができた。

 彼女が欲しいな、とふと思うこともあった。彼女、というのは小春のことを指しているのではなく、交際相手としての彼女だ。それを説明しなければならないほど、僕は混乱しているのかもしれない。僕は小春のことが好きだから。


「大丈夫?」


 目の前に小春がいる。

 僕は、どのくらい潜っていたのだろう。思考を深めるのは良いことだが、可憐な女性を前にして黙考するのは良くないことだ。


「ちょっと考え事」


 僕はそう言って頭を下げた。小春が笑った。許してくれたのだ。


「一つだけ訊きたいことがあるの、今更になって訊くのも変だけど……」

「何?」

「どうして街にこだわるの?」


 どうしてわざわざ好き好んで街中で写真を撮るのか、他の場所でも構わないのではないか、たまには自然のあるところへ行ってみたい……、それら諸々の意味が込められた問いであると彼女は言った。


「僕はね、表現者になりたいんだ。表現者っていうのは何だと思う?」

「私に分かるのは、私たちと同じように生きているってことだけ」


 彼女は少し笑いながら言った。


「そう、そうなんだよ。表現者っていうのは、まず人間なんだ。だから、表現者は人間という枠の中でしか表現し得ない」

「犬や猫ではないという意味で?」

「動物を語り手にすることはできる。でもそれは、擬人化でしかない。僕らは人間である以上、人間を相手に表現しなければならないし、人間を表現しなければならない。人間を最も克明に表現できるのは、人間が暮らしている街中なんだと僕は思ってる」

「それはたとえば、地方の田舎町では無理だってこと? それに厳しい自然環境の中に置かれた人たちも、人間性を如実に示しているように思えるんだけど」


 僕は目の前の彼女をつい抱きしめたくなった。こうでなくては共犯者は務まらない。


「もしかするとこの先ずっとその範囲は変わらないかもしれないけど、今の僕の手の及ぶ場所は街中なんだ。今は、そう、余裕がない」

「お金もないし、大学を辞めるわけにもいかないってことね」

「まあね」

「そう、教えてくれてありがとう。私たちって悲しいくらいに人間なのね」


 彼女の、悲しいくらいに人間なのね、という言葉には様々な意味が込められているように思えた。僕はその言葉を、飴玉のようにしばらく口に含んでおこうと思った。






 喫茶店でしばらくのんびりとした後、僕らはその辺りをぶらつくことにした。いつもと違うのはカメラを構えていないことだけ。そのはずなのに、僕はひどく新鮮な気分を味わっていた。きっとそれは小春も同じことで、いつもとは違う、どこかくだけた表情を僕に見せてくれた。ただ、それ以上に肉眼で彼女のことを捉えるのが久しぶりだったせいもあるかもしれない。見えているのに見えないもの、というのは当たり前に存在するらしい。

 お世辞にも栄えているとはいえない商店街だったが、僕らにとっては充分な遊び場だった。アイスクリームを食べ、バッグや財布を物色し、雑貨などを見たりした。気付いた頃には太陽が真上を超えてたので、僕らは洋食店に入って食事をとった。そこではまた色々なことを小春と話したが、まあ、他愛のない話題ばかりだった。


「ねえ、貴方って随分と残酷な人なのね」


 椅子にもたれかかっていた僕の身体が、突然、彼女の言葉で引き上げられた。


「何の話?」

「さあ、ちょっと言ってみたかっただけ」


 彼女はそんなことを言ったけれど、さっきの言葉には何とも言えない重みがあった。でまかせに言ったわけではないだろうと僕は思った。彼女の言葉を掘り下げていくのは怖い気がした。でも、僕はそうするしかなかった。


「何か言いたいことがあるのなら、はっきりと言ってほしい。僕らはそういう関係のはずだよ」

「うん、そうね、そういう関係かもね。でも、カメラを構えずに私の話を聞く覚悟がある?」


 ある、と僕は答えた。やはりそうするしかなかったのだ。


「京子はね、貴方のことが好きなのよ」


 文字通り、僕は絶句した。

 どうして彼女は、そんなことを言い始めたのだろう?


「いつか言おうと思ってたの。貴方、表現者を目指すと言うわりには鈍感なところがあるから」

「……それがもし真実だとして、どうしてそれを君が知ってるんだ?」

「疑ってるのね。私も別に京子から相談されたとか、そういうことじゃないの。でも、分かるの」

「どうして」

「分かるの」


 まさに直感だと言わんばかりの口調だった。そんな曖昧なもので物事を推し量るのは彼女らしくないように思えた。


「そう思わないか?」

「貴方こそらしくないわ。表現者にとって最も大事なもの、それは知識や技術じゃなく、直感じゃないかしら」

「僕には素質が欠けているとでも?」

「そう思うわ」


 僕はいよいよ苛立ってきた。彼女の言いがかりに付き合っているのが馬鹿らしく思えてきた。


「帰るよ」

「さようなら、また会いましょう」


 彼女があっさりとそう言ったので、僕も引っ込みがつかなくなった。自分が注文した分のお金をテーブルに置くと、そのまま店を出た。






 彼が帰ってから、私は少しだけ自分の行いを反省した。でも、本当に少しだけだった。これで私たちが決裂したわけではないし、私が嘘を言ったわけでもないのだから。彼が本当に表現者になりたいのなら、きっと私のところへ戻ってくるだろうから。

 私のところへ戻ってくる? どういうことだろう。

 彼がおそらくそうしているように、私もまた男としての彼への気持ちと共犯者としての彼への気持ちを、混同してしまっているのだろうか?

 もしそうだとすれば、私の行いは自己防衛本能が働いた結果なのだろう。見知らぬ相手と親しくなっていくことへの恐れ、自分が幸福になることへの恐れ。私は不幸な結末を望んでいるのだろうか。誰かが言っていたように幸福を恐れているのだろうか。だとすれば、彼は幸福の使者なのだろうか。

 ふう、とため息をつく。彼があっさりと帰ってくれて良かった。もし今も彼が目の前にいたなら、私はきっと彼のことを愛するようになっていたと思う。

 私にはあの人がいるのだ。愛を誓った人がいながら、他の誰かに恋焦がれることは駄目なことだ。それは私にも分かっている。だから、今は彼が目の前にいなくて良かった。

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