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AA-07  作者: 雨宮吾子
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08

 小春は僕を案外あっさりと受け入れると、すぐにミルクを温めてくれた。彼女の部屋は広くて、どこか持て余しているような感じもしたが、リビングの床に座っている僕には部屋の全貌は分からなかった。あの部屋の扉を開ければ、男から貰ったブランド物のバッグや靴や化粧品なんかが山のように出てくるかもしれない。あるいはその扉の奥では男が寝ているかもしれない。

 そんなことは単なる妄想だが、もしも現実であったとしてもおかしくはない。それくらいに僕は彼女のことを神秘的に感じていたのだ。


「はい、ミルクお待たせ」


 だから彼女が持ってきた白い液体のことを、牛乳ではなくミルクと言うことにちょっとした喜びを感じた。牛乳という単語は、あまりにも日常的過ぎたから。

 僕らは最初、黙ってミルクを飲んだ。僕はこの部屋に入ったときからずっと心がもやもやしていて、それは僕がどうして前言を撤回してここへ来たのか、それを説明したい衝動に駆られていたからだ。それはもちろん、僕のことを理解してほしいという衝動でもあった。僕はぽつりぽつりと、自分のことを彼女に語った。


「単なる口実にしては話が出来過ぎてるね。いいわ、信用する」


 彼女は笑ってそう言ってくれた。でも、僕はまだ話し足りなかった。


「僕のこの性格というか、性癖とでも呼ぶべきものをどう思う?」

「変わってる。傘をさせば解決するようなものじゃないのね?」

「うん。僕がどうしてそうなってしまったのか、それを解明するまでは一生かかっても無理かもしれない」

「どうにかする必要はないのかもしれないわ。もしかして百万人に一人の選ばれた人間かもしれないじゃない。日照りの国で一生働き続けられる貴重な人材よ」


 それが彼女なりのユーモアらしかった。僕はにっこりと笑ったが、彼女は真剣な表情をしていた。


「この国で生まれたからといって、この国で生きていく義務はないわけでしょ。そんなの学校で習った覚え、ないでしょう」

「まあ、そうかもしれない」

「政府というものは国民のために成立してるわけだけど、貴方個人のために存在しているわけじゃないから、自分の幸福を願うなら月の裏側でだって生きていく覚悟が必要なのよ」

「……」


 彼女があまりにも真剣に僕のためを思って言ってくれているので、僕は思わず沈黙してしまった。ここでは彼女のどんな言葉も重みを持つし、僕のどんな言葉も羽のように軽くなってしまうように思えたから。


「ごめんなさい、これ、私の癖なの。この部屋の中であれこれ考えているから、お客さんが来たってお構いなしであれこれ考えちゃうの。でも、せっかく生まれた言葉なんだから、どうぞ貴方の心の中で育ててあげて」

「うん、そうするよ。それにしても俄然、君の書いたものが見たくなってきたな」

「良いわ。ちょっと待ってて」


 そう言うと、彼女はパソコンの設置してあるデスクの下に潜り込んだ。そこに創作類のノートを、子供が持っている宝箱のようなものにまとめて入れているのだと言った。彼女が取り出したのはピンク色の、けれどもごく平凡なノートだった。表紙には何か分類番号か記号のようなものが書いてあったが、すぐに彼女がページをめくったので読み取れなかった。創作ノートに「創作ノート」と大きな文字で書くほど、彼女は単純ではないのだろう。


「ほとんど動物的に排泄したような言葉ばかりだけど、これはその中でも出来が良いと思うから」


 そうやって彼女が示したものは、散文で書かれた詩のようなものだった。


「身を投げる哲学者たち

 彼らは何を思う?

 いつかデイヴが歌ったあの歌のように

 束の間の英雄になることを望んだのだろうか

 もしも君が英雄になることを望むのならば

 その先に行ってはいけない

 飛び降りた先には忘却のダストボックスしかないのだから」


 率直に言って、僕は少しばかり幻滅した。それは僕の死生観、ひいては彼女に抱いている一種の憧れとは異なるものだったからだ。

 彼女はきっと毒薬を口の中に秘めて、何でもないような、そっと風が吹いたような、そんなときにその毒薬を噛み締めなければならないと勝手に思っていたからだ。この詩はそれとは違って死を肯定するようなものではなかった。

 僕がそんな意味のことを言うと、彼女は少し考え込んでから反論した。


「作者と作品とは等しいものではないし、紡がれる言葉は必ずしも作者の意志を反映したものではないと思うの。私、リストカットなんて怖くてしたことはないけれど、オーバードーズくらいならしたことはあるような人間よ」

「オーバー……?」

「薬なんかを一度に大量に飲むこと」

「睡眠薬でも飲んだの?」

「ソイソース」


 彼女は笑った。どこからどこまでが本気で、どこからどこまでが作り話なのか分からなかった。僕が苛立ちを覚えるよりも早く、彼女は言葉を継いだ。


「貴方はまだ表現者になりきれていないから分からないかもしれないけれど、カメラマンが人間であるとするなら被写体もまた人間よ。何もかもが自分の思い通りにはならないってこと、覚えておいて」


 それはたしかに含蓄のある言葉だった。僕は一時の感情で自分の理想を押し付けそうになったが、しかし、真の理想的な形は、僕の独断で作られるものではなかった。

 彼女とよく話し合って、よく理解を深める。そうすることが本当の理想だったはずだ。だから、僕は素直に感謝した。


「私もいつか心がぶれてしまうかもしれない。そのときは、貴方がしっかりと元のレールに戻して」


 僕と彼女は、ようやく一つの運命共同体になれたようだった。






 彼は朝方になって帰って行った。雨が止んで電車も動き出したから帰ると言って。私は一緒に大学に行きましょうと引き止めたけれど、今日は大学に行かないつもりだからと言って。

 何だか、私は引き止めてばかりのような気がする。特別彼のことが好きなわけでもないのに。彼はどこか、神経質な香りがした。きっと自分の家の自分の部屋の自分のベッドの中でしか眠れないような性格なのだろう。

 ここ最近は夜更かしばかりしていたけれど、夜明け頃に目を覚ましているのは久しぶりのことだった。太陽が昇ってくる、人々がベッドから起き上がる、一日が始まる……。いつかどこかで、誰かが言っていた。辛いこともいつかは慣れるものだよ、と。

 今になってみれば、それは嘘ではないけれど本当のことでもないと分かる。辛いことはいつまで経っても辛いのだ。何が悲しくて何が虚しいのか分からない、そんなことにどうやって慣れるというのだろう。

 ああ、今日もあの人は来るのだろう。そしていつものようにだらしないセックスをして、快楽に溺れるのだ。そして、その同じ身体のまま、何食わぬ顔をして人前に出るのだ。私が少女だった頃、それはとても不思議なことだったけれど、実際にそうなってみれば不思議でも何でもないものだ。

 あの人が来るまでに煙草を一本吸い終えられるだろうか。そういえば、禁煙をするつもりでいたのを忘れていた。


「この機会にやってみようかな、禁煙……」


 誰にともなく呟いて、ベランダに立つ。煙草を吸いながら、いつかこのまま飛び降りてやろうと思うことがある。その先に待っているものが本当に忘却のダストボックスなのだとしたら、私は喜んで飛び降りることだろう。もしも生まれたことさえ忘れてくれるのなら、死後にどんな苦しみが待っていたって耐えられるとさえ思う。

 私は、とても苦しいのだ。

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