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AA-07  作者: 雨宮吾子
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07

 その日の僕は動揺してしまって、お釣りを間違って渡したりコーヒーをこぼしてしまったり、散々な有り様だった。オーナーに体調でも悪いのかと訊かれたので、この後女の子と会うことになっているのだと素直に告白すると、青春ねえ、とだけ言って許してくれた。

 いつものように清掃を済ませると、それを見計らったかのように店の前に女性の姿が見えた。そこに立っているだけなのだが、小春のまとっている雰囲気というものが店のガラス越しによく分かった。何というか、僕が出てくるのを待っているのだろうが、それでいて僕とは関係なしに存在しているようでもあり、自信のようなものが透けて見えた。彼女は自分の美しさをよく知っているのだ。

 全ての仕事を終えて僕が店から出ると、彼女はちょうど煙草を吸っているところだった。


「ちょっと待ってて」


 彼女はそれだけ言うと、僕への関心というものがまるでないような振る舞いをした。手持ち無沙汰な僕は、思い切って彼女の顔を見つめることにした。そんなことをしては嫌がられるかとも思ったが、彼女はやはり僕には関心がないというような態度を示して、夜空に向かって煙をくゆらせていた。僕は今までに煙草を吸う女の子と親しくなったことはなかったし、自分でも吸ってみたことはなかったから、彼女にとってこの時間がどれだけ大切なものなのか、その実際は僕には分からなかった。ただ単に絵になりそうだと、そう思うに留まった。

 いよいよ煙草が短くなってくると、僕はそちらの方に興味が向くようになってきた。携帯灰皿に捨てるとしたら好ましく思えただろうし、その辺に捨てたとしてもそういう性格だからと許せそうな気がした。果たして、彼女は側溝に煙草を落とした。それが店の前に煙草を捨てないように配慮したのか、単なる彼女の癖なのか、僕には分からなかった。


「それで、どこへ行くの?」

「お腹が空いてるなら何か食べよう。そうじゃなければ、少し一緒に歩きたいんだけど」


 それが、僕らが初めて交わした言葉だった。

 彼女は食事をする気分じゃないからと言って、僕と一緒に歩くことを了承してくれた。行くあてのない旅になるだろうと僕は言ったが、彼女は別に構わないと言った。

 僕と一緒に歩くとき、彼女は寄り添うでもなく離れるでもなく、絶妙な距離を置いた。そうやって並んで歩き出したところで、僕はようやく彼女と歩いていることの不思議を実感した。彼女が実際に現れるかという不安もあったし、京子が彼女と知り合いであることが不思議でもあった。いずれにしても、京子の考えていることは僕にはよく分からなかった。


「京子に特別に頼まれたの。あの子、とても親しいってわけじゃないけど、嫌な感じはしないし、私もこういうことをするのが面白そうだと思って」


 意外にも彼女が先に口を開いた。僕は彼女の言葉を一字一句漏らさないように強く集中した。


「先に言っておくけど、僕は趣味でやりたいんじゃないんだ。本物になりたいと思ってる」

「その本物っていうのは、プロだとかアマチュアだとか、そういう次元の話?」

「……いや、そういうふうに考えたことはなかったな。それを生業にするかどうかは別として、表現者になりたいと思ってる。これは、京子には話したことはないはずだけどね」

「そう、素晴らしいわね」


 彼女の言葉には感情がないわけではなかったけれど、その真意がどこにあるのか、少し掴みにくい感じがした。彼女はその美貌もあって学内では有名だったが、同時に妬みの対象にもなっていて、彼女のそういった喋り方が人々には冷たい印象を与えたのだ。


「やっぱり引き受けて正解だった。今、強く確信できたわ。実は私もね、表現者になりたいの」

「それは、僕と同じような意味で?」

「そう」


 それがあまりにもあっさりと出てきた言葉だったので、僕はやはり彼女の真意が掴めなかった。しかも彼女は無駄に話すような性格ではないから、僕の方から情報を引き出していかなければならなかった。


「表現するのにも色んな手段があるよね。写真だとか音楽だとか文章だとか、あるいはファッション」

「詩や小説を書いたりするわ」

「どんなものを?」

「今度、見せてあげるわ。今はまとまった形になっていないけれど、悪い出来ではないはずだから」


 想像していたよりも彼女は話しやすいし、物事がよく分かっているようだった。僕にはそれが自分のことのようにとても嬉しかった。

 しばらく歩いたところで彼女は僕の撮った写真が見たいと言い出した。写真データの一部は携帯電話に保存しておいたので、それを彼女に示した。彼女はしばらくそれを眺めて、ぼそりと呟いた。


「あまり上手くはないのね」


 それが僕に言ったのか単に呟いただけか分からなかったので、僕はそれにどう反応すれば良いのか困った。身を引き裂かれるような思いと天にも昇るような思いとが、僕の中で渦巻いていたせいでもある。

 たしかに今の僕の写真は上手くないかもしれない。だから、それを指摘してもらえることは嬉しかったけれども、同時に自分自身を否定されるようでもあって苦しかった。


「でも、上手いだけの写真なんていくらでもあるから」


 僕に気遣ってその言葉を付け足しのか、またしてもそれは分からなかったけれども、僕は都合良く解釈することにした。


「今日はカメラを持って来てないの?」

「君がモデルを引き受けてくれるって話、昼間に聞いたばかりだからカメラを持ってくる余裕がなかったんだ。普段は大学にカメラを持って行かないから」

「私、明日の午前中は空いているから、時間はたっぷりあるの。せっかくだからカメラを持って、どこか街の方へ出かけましょう」


 思わぬ展開になったなと僕は驚かずにはいられなかった。いつかのように夜の街を歩くこと、それも意中の相手と一緒に歩くことは、とてもスリリングな行為のように思えた。






 僕らはカメラを持って夜の街へ繰り出した。

 あの日、今度のバイトで初めての給料を貰ってカメラを買ったあの日、僕は京子と一緒にいた。今日はそのカメラを手にして、憧れていた小春と並んで歩いている。僕はファインダーを通して、そして彼女を通して、世界の核心に触れることができるように思えた。そもそも世界とは何だ? 自分とは何だ? 正直に言うと何も分からない。やはりそれは、明確に言語化できるようなものではなくて、もっと根源的な感覚を通してしか感知できないもののように思われた。

 そんな難しいことは抜きにしても、僕は意中の相手と同じ時間を共有できることだけで、もうとても嬉しかった。彼女が僕のことをどう思っているのか、あるいは何とも思ってないのか、それもまた分からない。その分からないことがまた喜びをもたらすのだった。新事態の出来、それだけで僕はご飯三杯はおかわりできそうな気がした。新しい事態に直面することで僕は今という時間を感知できる。世界と向き合うことができるのだ。

 ……またしても話がずれてしまった。要は興奮しているのだ、僕は。彼女はクールというか無愛想というか、夜の街に出ていくのにもわくわくしたような様子を見せなかったので、あるいは彼女は遊び慣れているのかもしれないと思った。恥ずかしいことに僕は彼女のことをほとんど知らない。最も大事なこと、恋人の有無でさえも。恋人といえば、僕は彼女とどのくらいの距離で接すれば良いのかまだ分からない。純粋にモデルとして接するべきなのか、それとももっと踏み込んでいくべきなのか、僕には心の準備ができていない。でもそれは、彼女と話し合いながら関係を深めていきながら、徐々に模索していくべきものだとも思えた。それは僕の目指す理想の形だった。


「カラオケに行きたいな」


 彼女がぽつりと呟いたので、僕らはカラオケに行くことになってしまった。というのも、僕にはカラオケに行く習慣がなく歌える曲もなかったので、どうしようかと迷った。しかもカラオケボックスというのは考えようによっては異常な空間だ。薄暗く狭い部屋に閉じこもって大声で各々の自己満足を行う場、それが僕のカラオケに対する印象だ。僕はさすがにそんなことは口にしなかったけれども、彼女は僕が気乗りしないのに気付いたらしかった。それでいて、予定を変える気はさらさらないようだった。

 カラオケボックスに着くと、彼女がコースやカラオケの機種などをあれこれと決め、部屋に入ってからもフライドポテトやジュースなどを内線で注文した。


「慣れてるんだね」

「貴方は慣れてないわね。まあ、こんなことに慣れてるくらいで偉い顔してちゃ馬鹿みたいだけど」

「一つ、言っていいかな?」

「どうぞ」

「僕、歌える曲がないんだ」


 彼女はそんなことは問題外だというような顔をした。


「私だってそんなにレパートリーはないし、カラオケなんてハミングしてるだけでもいいんだから。これも表現の一種だと思えば、やる気も湧くんじゃない?」


 見ててご覧というふうに、彼女は何曲かまとめて選曲した。最初に流れてきたのはどこかで聞いたことのあるような洋楽だった。彼女は拙い英語で、途中でハミングを挟みながらも歌いきった。音程の一定した透き通るような声だった。間近で歌う姿を見て、僕はまた彼女のことが好きになった。


「ね、どう?」

「歌ってみる」


 それから僕らは色々な曲を歌った。最新の洋楽から昭和歌謡まで。二人とも最初の方は真面目に歌っていたけれど、途中から面倒くさくなってきてハミングばかりするようになった。それは何故だか、夏の暑さに辟易しながら肌着を脱ぐような、そんな感覚を思い出させた。二時間歌い続けて、歌った曲の履歴のちぐはぐさに二人で笑った。後から見た人がどんな反応をするかを想像して、もう一度笑った。

 バイト終わりに出会って、しばらく歩き回って、僕の家にカメラを取りに行って、電車に乗って街に出て、二時間歌った。色々なことをしたものだからもう終電が近づいていたけれど、彼女はまだ物足りない様子だった。そこで僕は初めてカメラを取り出した。二人とも酒なんて飲んでないのに気分が酔っていたのだと思う。彼女はガードレールに座っておどけたポーズを取り、僕は僕でわざとカメラを揺らしながら撮った。そうするとふざけた写真が仕上がって、僕らはますます愉快な気分になった。


「ねえ、もっと歩きましょう」


 だから彼女が自宅まで歩いて帰ろうと言ったとき、僕にそれを断るという選択肢はなかった。

 この前に京子と夜の街に出たときもどこかモラトリアム的な気分を感じていたが、今夜のそれはこの前とは段違いに強かった。僕は単純に彼女と一緒にいたいという気持ちがあったのだが、彼女がどんな気持ちでいるのかはよく分からなかった。とにかく一人で帰路に就くようなことはしたくなかったのだ。けれども、彼女と一夜の関係を結ぶような短絡的な結末も望んでいなかった。この時間がいつまでも続けばという、子供じみた思いだけがあった。

 僕らは帰り道の色々な場所で写真を撮った。電柱にしがみついた彼女を撮ったり、踏切を渡る彼女を線路の上から撮ったり、川を眺める彼女の横顔を撮ったり。そのときに僕が考えていたのはいかに彼女の魅力を引き出すかということで、魅力を引き立てるためには写真の腕前ももちろん大事だけれど、それと同じかそれ以上に雰囲気を作ることが大事だというのが分かった。また、僕のやりたいことと彼女のやりたいことを一致させる必要があり、無言のコミュニケーションを僕らは交わした。

 そうこうするうちに、僕らはあっという間に彼女の自宅に帰り着いた。そこはオートロック付きのマンションで、親が勝手にここにしたのだと彼女は不満を漏らした。それは当たり前のことなのに、僕には彼女に両親のいることが不思議に思えた。彼女の両親を想像することは、赤ん坊の姿から今の彼女のことを類推するのと同じように困難なことだった。それはつまり、彼女がもうすっかり大人の女性として自立していることを意味しているのだろう。


「せっかくだから上がっていきなさいよ。私の書いたものを見せてあげるから」


 彼女はそう言ったが、僕は出会ったばかりの女性の家に上がることはモラルというかマナーというか、そんなものに反するのではないかと思えたので断った。彼女も無理強いはしてこなかったので、僕らはマンションの前で別れることにした。


「さようなら」

「さようなら。また、連絡するわ」


 僕はさっき交換したばかりの彼女の電話番号を思い出しながら、こくりと頷いた。

 結局、僕は一人で家路に就くことになった。思い立ってカメラのデータを見ると、今夜だけでも二百枚以上の写真を撮っていた。最初のでたらめな写真、途中のでたらめな写真、最後のでたらめな写真。どこまで見てもでたらめな写真だったが、美しい女性がモデルということもあって写真が輝いて見えた。

 と、カメラの液晶画面に水滴が落ちてきた。その直後にごろごろとした雷の音が聞こえてきた。咄嗟に振り返ると、彼女のマンションはまだそう遠くない位置に見えた。

 こうして僕は、彼女の部屋に上がり込むことになった。

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