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AA-07  作者: 雨宮吾子
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06

 僕は一年前に初めて挫折の味を知った。それまで失敗することはあっても、挫折したことは一度としてなかったが、その挫折のおかげで僕は地道に足場を固めていくことの重要性を知ることができたのだから、挫折というものは早いうちに味わっておくものだなと思った。

 まず、僕は外に出る必要があった。誤解がないように言っておかなければならないのだが、梅雨の間中、ずっと家にこもっていたわけではない。晴れ間が見える日には買い物に出かけて食材を溜め込んだし、バイトにもしっかりと出かけた。ただ、大学には全く行かなかっただけだ。とにかく、その年の梅雨明けは早かったので、僕は早い時期に行動を開始することができた。

 外に出て最初にすることは、世界に身体を慣れさせることだ。これは別に観念的な意味ではなく、人混みの中に身体を沈めることで僕と他人との境界を、僕と世界との境界をしっかりと線引きしなければならない。……まあ、多少は観念的な意味合いもあるかもしれない。日常を過ごすだけならそんな作業は必要ないかもしれない。でも、僕は表現者を目指して活動をするのだから、そのような作業をする必要があった。僕が境界を線引きするにあたって、カメラが僕の手足となって働いてくれた。高架下、坂道、並木通り、交差点、階段、電柱。そんな当たり前の光景が、ファインダーを通すことで新鮮な色を帯びるのを面白く感じながら、僕は写真を撮り続けた。

 ときには通行人を呼び止めて写真のモデルになってくれないかと声をかけることがあった。このご時世にそんな申し出を快諾してくれるような奇特な人はなかなかいない。あからさまに迷惑な表情を浮かべる人もいれば、無表情で無視する人もいた。同じ場所で声をかけ続けて警察を呼ばれたこともあったが、僕は粘り強く交渉を続けた。何とも泥臭い、地味な時間が過ぎていった。僕の頭の中にあったのは古い格言、全ての道はローマに通ず、だ。進歩というものは一足飛びにできるものではないから、このような地道な作業も必要なのであり、必ずやこの道も表現者の高みへと繋がっているのだと、僕は自分自身に言い聞かせた。それは心が折れそうになっていることの裏返しでもあった。

 結局、ある陽気なご婦人が最初のモデルになってくれた。僕は彼女くらいの年齢の人を見るとおばさんと呼ぶのだが、彼女だけは特別にご婦人と呼ぶことにする。最初の肖像写真は何の変哲もない、ただの肖像写真だった。ご婦人の内面を引き出そうとか、写真を通して何かを表現しようとか、そういう意図を持つ余裕がなく、僕はただありきたりな写真を撮った。

 このことを通じて分かったのは、通行人を呼び止めてモデルになってもらうことには大して意味がないということだ。一人の人間と継続的に向き合いながら写真に収めることでしか、僕の技術は上達しないのだ。尤も、それは全く新しい知見ではなくて、僕も薄々気付いていたことではあった。このことは一つの確認作業に過ぎない。迂遠な方法ではあるが、僕にはある程度の実績が必要なのだ。僕はそれから合計で十人分の肖像写真を撮り、次の段階に移ることにした。

 次の段階でまずやらなければならないのは、その反省を活かして継続的なモデルになってくれる人物を探すことだった。そのために役立つのが、最初の段階で撮り溜めた肖像写真だった。こういったものを撮りましたよと、実績を示してはっきりとした意志表示をしなければ、相手にさえされないだろう。問題は、これはとても大きな問題なのだが、僕には人脈がなかった。もちろん知り合いがいないわけではない。ただ、彼らは単なる知り合いであって、僕に協力してくれるような存在ではないし、僕は残念ながら変わり者の部類に入っているので、大学内でのモデル探しは難航しそうだった。僕だって雨が降る度に引きこもるような人間とは付き合いたくはない。

 ただ、どこかにモデルになっても良いという人間は存在している。しかも、昔に比べればそういう人物との出会いの場は、ネットという世界に広がっている。けれども残念なことに、僕はネットを通して他人と知り合うノウハウがなかった。それにやはり、本当に信頼できる出会いは現実の人間関係を基盤にしているものだと思う。

 僕が京子に連絡をしたのは、そういった事情があってのことだった。






 京子が電話を取った瞬間、僕らの間には張り詰めた空気のようなものが現出した。僕は京子に対してどのような言葉を口にしたのか覚えていない。それくらいに僕はその空気というものを強く強く意識していた。だから学内の待ち合わせ場所に京子がやって来たとき、僕は言いようのない安堵を覚えた。


「どこで食べる?」


 京子の第一声がそれだった。僕は一度スタート地点に戻る必要があると思ったので、春に京子と再会したあの食堂に行こうと告げた。

 食堂に向かうまでの間、僕らは色々なことを話した。思わず雄弁になってしまう話題もあれば、付いていけずに沈黙してしまう話題もあった。それらの話は束の間の空白を埋めるためという感じはなかったので、必然的に空白期間を無視するような形になった。京子と最後に会って以降の僕の生活は笑い話にできるような楽しいものではなかったし、京子も特別スリリングな生活を送っているというわけではないようだった。

 二人がけのテーブルに向い合って座り、日替わり定食を注文する。ここまでは並んで歩いてきたせいもあって、僕は今日初めて京子の顔をまじまじと見た。気後れするわけではないが、話をどう切り出すか迷った。僕は撮り溜めた写真たちを無言でテーブルに置き、仕草で京子に示した。京子は気だるい手つきで写真を受け取り、やはり気だるい手つきで僕に返した。僕がこれまでの経緯を語り始めてからも、京子はあまり気乗りのしないような感じで聞いていた。


「それで、モデルが欲しいわけね?」


 僕はこくりと頷いた。京子は考え込む態度を示したが、ちょうど僕らの食事が運ばれてきたのでその流れは一度途絶えた。

 食事を終えて各々の支払いを済ませると、僕らは再び並んで大学までの道を戻った。京子はさっきの話を追いかけることをせず、さして重要でもないような話題を持ち出してきた。僕は京子が何を考えているのか分からず、少しばかり苛々とさせられたが、大学に戻って別れる段になって、京子が


「さっきの話、少しだけ時間をちょうだい」


 と言ったので、僕は安心して全てを委ねることができた。






 その三日後、携帯電話に知らない番号から電話がかかってきたので、面倒なことに巻き込まれそうな予感がしながら僕は電話に出た。相手が若い女性だったので僕は勧誘の類ではないなと気付いたが、それが京子の紹介してくれた子とは思わなかった。定期試験を前にして憂鬱な気分が頭をもたげていたのが、一度に吹き飛んでしまった。僕は勉強するのを止めて、すぐに大学で待ち合わせることにした。こんなに早く、しかも女性を紹介してくれるとは思わなかったので、僕は京子にお礼の電話をかけたが繋がらなかった。

 大学には色々な人間がいたので驚くようなことでもなかったが、待ち合わせ場所にいたのは僕が初めて見る女性で、彼女も僕のことを知らないということだった。自販機コーナーで二人分のコーラを買うと、僕らは近くにあった椅子に座って、他愛のないことを話した。京子が彼女にどんなことを話したのか分からないが、僕は女友達の欲しい凡庸な男子大学生ということになっていた。僕がカメラのことを口に出すと、趣味でやっているんですよね、と彼女は言った。全体的に情報が歪曲しているようにも思えたが、何はともあれ写真のモデルになってくれる相手ができたことは嬉しかった。

 話はよく盛り上がって、その日の夜にでもどこかで食事をしようということになった。僕は手持ちのお金に余裕がなかったので、後でどこかで合流しようと言ったが、彼女が渋るので仕方なしに一緒に自宅に帰ることになった。

 彼女は残念ながら背丈が低くモデルとするには物足りない気もしたが、可憐な雰囲気があってよく笑う子で、魅力的ではあった。僕が一人暮らしであることを知ると実家から大学に通っている彼女は羨ましいと言ったので、隣の部屋が空いていると教えてあげると、二人で一緒に住まないかと言ってきた。僕はどきりとしたが、知り合って二時間もしないうちの冗談は奇妙な重みがあるなと、そう思っただけだった。

 僕はアパートの前で待っているようにと言ったが、彼女はそれを無視して僕の後に付いて階段を上ってきた。トイレを貸してくれと言うので僕は仕方なく彼女を家に上げて、財布にお金を補充した。質素な生活を送っていることが幸いして、僕は荷物で散らかった部屋に他人を上げる愚行を避けることができた。トイレから出てきた彼女がカメラを見てみたいと言うので、僕は少しばかり押し付けがましく感じながらも、早くも手垢に塗れたカメラを見せた。触れようとするのを寸前のところで押しとどめ、手と手が触れた。すると彼女は指を絡めてきて、その手が二の腕の方へ上ってきて、気付いたときには僕の顔を掴んでいた。ごく自然な流れを装って、彼女は僕に口づけをした。僕はすぐに彼女の身を引き離すと、ここから出て行ってくれと強い口調で言った。ビンタの一発でもお見舞いしてやりたいところだったが、僕はさすがに女性に手を上げるようなことはできず、玄関先に身体を押しやるのが精一杯だった。

 彼女を追いやった後に残ったのは、ざわざわとした奇妙な気持ちだった。久しぶりに女性と口づけしたことで気持ちに火がついてしまったことが腹立たしかった。それにしても、それにしても! 京子はどうしてあんな女を僕に紹介したのだろう? 行き場のない怒りを抱えたまま、僕はしばらく部屋の中で立ち尽くした。






「野崎くんの覚悟を試したの」


 翌日、学内の静かな場所で僕と京子は待ち合わせた。

 僕の追求に真正面から立ち向かう京子の眼光は、責め立てているはずの僕がどぎまぎとさせられるほどに鋭かった。


「覚悟を試すって、そんなことをして何になる?」

「さあね。でも野崎くんって本当に、本物になりたいのね」


 それは僕があの子を追い返したことを言っているらしかった。もしもあの場で何かが起これば、京子はどんな反応を示しただろう? 彼女はそれを期待していたのだろうか?


「今回のことは謝るわ、ごめんなさい。だから今度はちゃんとしたモデルを紹介するわ」

「君自身がモデルになるって言うんじゃないだろうね」

「まさか。でも、良い考えかもしれないわね。今度紹介する子の名前、知りたい?」

「まあね」

「小春っていうの」


 瞬間、京子の言葉が僕の胸を貫いた。聞き間違えか? いや、そうではないらしかった。


「こ、小春……?」

「そう。今日のバイトが終わる時間にカフェに来る予定になってるから、そのつもりでいて」

「京子、君は……」


 京子が妖艶ともいえる笑みを浮かべた。

 その笑みには、どこか底がないような気がして恐ろしかった。

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