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AA-07  作者: 雨宮吾子
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05

 それからしばらくの間は京子と会うこともなかった。理由は二つある。一つは僕が買ったばかりのカメラにのめり込んだからで、もう一つは梅雨がやって来たからだ。

 一つ目の理由を説明するのは、もう一つに比べると簡単だと思う。僕が最初に撮った風景は自室の窓から見える外の様子だった。安アパートの二階からの景色はお世辞にも壮観とは言えなかったが、それは僕が大学に進学するためにこの街にやって来てからの一年間、事あるごとに眺め続けてきた馴染みのある景色だった。見慣れた景色であっても、ファインダー越しに見ることで全く違う世界のように思えたし、印刷してみることでこれまた違った世界が広がっているように見えた。ファインダー越しの人生というものがあり得るとすれば、それはきっと素晴らしいものになるだろうと、僕はそんな夢想をするのだった。僕は窓の傍に椅子を置くと、一日中そこに座って外の景色を眺めた。それに飽きれば膝の上の本を広げ、それに疲れれば外の景色を眺めた。そして、まるで誰かに課された義務であるかのように一時間ごとに写真を撮り、印刷して床に並べて細部までよく見比べた。それはとても楽しい作業だったと思う。

 僕は一日の中で夕暮れ時が一番好きになった。彼方の山に沈んでいく太陽が死に際に喘ぐとき、その手足は彼方の高層ビルにかかる。無機質な高層ビルが橙色に染められる様は、生と死とが手を取り合って世界を溶かそうとしているかのようだった。しかし、その試みも虚しく、太陽はやがて輝きを失って地の底に引きずり込まれていく。一つの死が訪れることで世界はようやく夜を迎えるわけだが、人々はたった今死んだばかりの光を人造し、太陽の再生をひたすら待つのだ。太陽の死が一つの儀式であるとするなら、人々の営みもまた一つの儀式といえた。……

 そこまで考えたところで、僕は思考を止めた。この世界に起きている現象を純粋な意味で言語化する能力は、僕には備わっていないのだ。僕は表現者になりたい。そのための武器として言葉を使うには、僕はあまりにも不器用過ぎた。こうして一台のカメラを手にした以上、僕は写真という武器で戦う覚悟ができていたし、そうするしかないと思い込むことにした。

 そして、第二の理由。僕は雨の日に出かけることができない。より正確に言えば、したくない。その表面的な理由は分かっている。小学生の頃、雨の日に友達が死んだのだ。僕は訳も分からないまま、葬儀会場に連れられて行き、そこで別れの挨拶を述べさせられた。僕は死というものを知っていたけど、死というものが分からなかった。そこに横たわっている死の有り様を直視しながら、僕はやはり死というものが分からなかった。その場で色々なものを見、色々なことを聞いた。今でも雨の日になると、頭の上の方で大人たちのひそひそとした話し声が聞こえてくるようだった。

 僕は高校生のときに付き合った女の子のことを思い出した。その子は頭が良く、それに比例して好奇心が強かった。僕が雨の日は苦手だと言うと執拗にその理由を知りたがった。僕が友達の死について語ったのは、それが初めてだった。彼女は表面的な理由を聞いただけで納得したようだった。しかし、それは違うのだ。雨の日に友達が死んだのは何も僕だけではなく、クラスメイトだけを見積もってもざっと三十人はいた。たしかに最初の頃は彼らも雨の日になると憂鬱な気分になると言っていたが、それが一ヶ月、三ヶ月、半年と経るうちに、彼らは彼のことを記憶の片隅に追いやってしまった。それは僕も同じことで、次第に彼のことは忘れていった。それなのに、雨の日を嫌う感情だけが、僕の中に残った。どうして僕にだけその感情が深く根を張ったのか、それがどうしても分からないのだ。その答えが出せないまま、その彼女とはすぐに別れることにした。

 話が随分と冗長になってしまった。いずれにしても、僕が表現者になるためには何かが足りなかった。僕は直感的に共犯者の必要なことに気付いた。それは彼女、あの小春という女性でなければならなかった。

 何故か。

 僕は、小春のことが好きなのだ。






 僕が小春と出会ったのは、いや、正確には出会ってすらいないので、彼女のことを知ったのは約一年前のことだった。

 去年の春、僕は新入生として、今よりもずっと他人の中に紛れ込めていた。今のように孤立した生活を送ってはいなかったし、表現者になろうと誓う前ではあったが目覚めの兆候はあった。その証拠に僕は暇があれば図書館に入り浸り、色々な本を読んだ。心の中に蟠る何かをすっきりとさせたいという欲望があり、それまでは手にしなかったようなお堅い本を背伸びして読んだりもした。だが、文学も哲学も政治も歴史も役には立たなかった。たしかにそれらは興味深かったし、何度も読み込むだけの価値はあったが、僕の欲望を満足させてくれるものはなかった。

 それからしばらくして僕の興味は創作に移った。読むのではなく書くことによって蟠りを解消できるのではないかと、百八十度方向転換したのだ。ちょうど梅雨入りした時期のことだったので、そういう意味でもちょうど良い方策だと思えた。しかし、これも失敗に終わった。小説や詩やエッセイやあるいは書き殴り、そういったものを書いてはみたのだが、それらは手法としてはあまりにも静的過ぎた。読書なら何時間でも続けられる男が、創作となると黙って座っていることさえできなかったのだ。そして致命的なことに、僕には文才がないことが分かった。

 陰鬱な梅雨の雨音に隠れていて、気付いたときには夏が来ていた。僕は久しぶりにまとまった時間を家の外で過ごした。梅雨の間中休んでいた大学に休まず通い、夏休み期間中に働ける短期のバイトを探したりした。歩き、歩き、歩いた。僕が突然に天啓を得たのも、街中を歩いているときだった。

 そうだ、僕にはこの目があるじゃないか、と。

 僕は実家に古いデジタルカメラがあったことを思い出し、すぐに催促のメールを送った。三日もしないうちにダンボール一杯の野菜と一緒にカメラが届いた。

 大学の定期試験を前にして、僕はおもちゃを手にした子供のようにはしゃぎ回った。我慢して勉強をしていても、すぐにカメラに手が伸びて、勉強に使っている机や一人用の小さな冷蔵庫などを写真に撮った。大学へ行っても常に写真のことが頭から離れず、図書館の棚を片っ端から写真に収めて職員に怒られたこともあった。僕はカメラを手にしているとき、自分がもっと大きな存在に昇華しているような気がした。外から世界を眺めているような存在に。

 そんな僕を重力の底に留めさせたのが小春だった。その頃は半ば発狂でもしていたのだろうか、とにかく写真を撮り続けていたので、後から写真を眺めてもどこでどのようにして撮ったのか分からないことがよくあった。僕はもうとっくにあるべきバランスを崩していたのだ。ある日、夏休みを間近に控えた僕は、いつものようにその日撮影した写真を見返していた。薄暗い自室でパソコンに向かって一人でにたにたと笑っているのを咎めるようにして、蝉が盛んに鳴いていたのを覚えている。すべての事象を自分自身に結びつけて考えていたので、そのように記憶しているのだ。

 ある写真の中に偶然写った美しい女性の姿を認めたとき、僕は見ず知らずの彼女との合一を果たしたような気分になった。僕はほとんど発狂していた!

 観念の世界で僕と彼女が合一を果たしたとき、彼女の存在が僕の中に流れ込んできた。僕と彼女は現実に合一しなければならないと確信した。その瞬間、世界は暗転した!

 ……何の事はない、電気料金を滞納していたので電気が止められたのだ。僕はしばらく暗闇の中で自意識に浸った後、ようやく我に返って重い身体を引きずってコンビニに向かった。しばらくして電気が復旧したとき、パソコンに保存していた写真データは消えてしまっていた。その三日後にデジタルカメラも壊れ、経済的余裕のない僕は表現者としての道を一度断念した。






 その後の僕は嘘みたいに真っ当な人間に戻った。よく働き、よく笑い、よく歩いた。夏休みにバイトを詰め込み過ぎて実家に帰る時間が取れなくなったことについても、心の底から申し訳なく思った。後から思えば、それまでの僕は表現者としての道を進んでいたのではなく、狂える観念者の道を進んでいたのだ。僕を引き戻した存在が偶然であったのか必然であったのかは、今から考えても分からない。それは最期の瞬間になって初めて分かるものだと思う。

 偶像になりかねなかった写真、つまりあの美しい女性の写った写真が消失してしまったことで、僕は夏休みが明けるとすぐさま彼女のことを探し始めた。彼女の正体はすぐに分かった。彼女はその美しさゆえか、学内でも有名な人物だったのだ。しかし、彼女の名前が分かったものの、その性格やあるいは交友関係を知る者はいなかった。彼女、つまり小春は僕よりもずっと、孤独な道を歩んでいる人なのだ。

 夏休み中のバイト代が入ったおかげで僕は再び経済的余裕を取り戻した。新しいカメラを買うという考えがなかったわけではない。ただ、僕の理性がその危険を囁いた。

 結局、僕は凡庸な学生の一人という枠の中に自らを当てはめていった。僕は表現者という野望を棄てた、そのつもりでいた。しかし、気付かぬところで火は燻ぶっていたのだ。

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