04
小心者の僕は自分から街へ出ることを提案しながら、その日貰った給料を持ち歩くのが何となく怖かった。どこかで落とすのではないか、どこかで盗まれるのではないかと。でも、一番怖かったのは、この絶好の機会が失われてしまうことだった。
それで僕は街に向かって走る電車の中で、まず家電量販店に向かいたいと京子に告げた。僕がいち早くカメラを手にしたいことを肌で感じたのだろう、京子はそれを了承した。そして自分も少し行きたいところがあるからと言って、別行動を提案してきた。僕はそれを京子の親切心と受け止めて、どこか分かりやすい場所で合流することにした。驚いたことに僕らはお互いの連絡先を知らなかったので、そこで初めて交換した。
地域随一の家電量販店はだだっ広いフロアがいくつもあって、お目当てのコーナーにたどり着くのに時間がかかった。店員が近づいて来れば場所を訊こうと思ったのだけれど、誰も彼もが疲れきった顔色をしていて、すれ違ったときの挨拶もどこか元気がなかった。閉店時間が近づいていて客の数も多くなかったために、店内放送の明るい調子とは対照的な淀んだ空気が店の中を占めていた。
ようやくカメラコーナーを探し当てたとき、僕の視線はあるデジタル一眼レフカメラに引き寄せられた。店内の薄暗い雰囲気の中で、そのカメラが輝きを放っているのが分かり、直感的に、これだっ、と思った。お目当ての商品が他になかったわけでもないし、特別に安くもなく高くもなかったのだが、もうそれ以外のカメラを買うという選択肢は存在しなかった。展示品を手に構えると、見た目の骨太な感に反してすっぽりと手に収まった。ファインダーを覗くと、ちょうど販促用に置かれたパネルに焦点が合った。そのパネル上で笑顔を浮かべる女優と目が合い、次の瞬間にはもうその顔のことは忘却の彼方にあった。僕はあの小春という美しい女性の顔を想起していたのだ。空想の中で彼女が微笑んでいた。やはりもうこのカメラしかない! 僕の心は急激に高まり、いつか彼女を写真に収める日が来るに違いない、とその確信を強めるのだった。
一体どれくらい店の中にいたのかは分からない。僕が京子と合流したのは、午後九時になろうとしているところだった。僕がカメラの入った紙袋を持って待ち合わせ場所に現れたとき、京子はすっかり待ちくたびれていたのだろうが、どこか安堵したような表情を浮かべた。
「良いのがあったみたいね」
彼女はそれだけ言うと、僕の先に立って歩き始めた。もう食事する店を決めてあるのだろう、そう思って僕は黙って従った。
都会の光は夜が深まるにつれて輝きを増していくように思えた。僕はその輝きの退廃的な臭いがあまり好きではなかった。人が初めに光を手にして暗闇を切り裂いたのは、いつのことだっただろう。そう遠くはない過去のはずだ。人の生活様式はもう後戻りできないところまで変わってしまったのかもしれないが、僕にとって、それはあまりにも不自然な生活だと思えた。朝日が昇るのと同時に目覚め、夕日の沈むのと同時に眠る。それこそが清浄な生活のあり方だと思えた。けれども、今の僕にはその過ちを断罪する資格がなかった。取り替えのできる大多数のうちの一人でしかない。
僕は自分の無力を、自分の潔癖を恨んだ。僕が表現者として存在できるとすれば、それは人と寄り添ってでしかあり得ない。僕は孤独に歩むにはあまりにも無力だった。
いずれにしても、夜のモラトリアムはまだ始まったばかりだ。僕が現実に引き戻されたのは、京子が足を止めたその瞬間だった。
「ここにしましょう」
そこは過度な装飾の中にあって、どこか質素な感じのする洋食店だった。これは安くはないぞと思いながらも、京子の選択にどこか安心した。
僕らは通りに面した席に案内された。僕がキノコの入ったクリームパスタを注文すると、京子は魚介類がたっぷり入ったパスタを注文した。僕らはいつかのときと同じように全く同一のタイミングで水を飲み、そして笑った。僕らがバイト先の厨房で醸造してしまった嫌な沈黙はどこかへ消え去ってしまい、お互いに快活な調子で話をすることができた。最初はありきたりな世間話だったけれど、すぐに関心は買ったばかりのカメラに向かった。バッテリーがないので写真を撮ることはできなかったが、ファインダー越しに店の外を見つめた。道路に目をやれば、三台おきにタクシーが通った。歩道に視線を移すと酔っ払ったサラリーマンの一群や、こちらがドキリとさせられるくらい足を露出した女性が通った。
「野崎くんに似合ってるわ」
京子は静かな口調でそう言った。まごころのこもった言葉に聞こえたので、僕はカメラを構えたまま京子を見つめて礼を言った。
それにしても、僕はどこかで表現者になりたいと京子に告げたことがあっただろうか? 僕には以前にカメラを買いたいと言った記憶さえない。それでも彼女は僕の夢を知っているかのような口ぶりだった。
記憶を掘り返していくと、僕が京子と知り合い親しくなったきっかけに関して全く覚えていないことに気付いた。僕らはどうして、こんなところでこんな雰囲気で、同じ時間を共有しているのだろう。その不思議が僕の心を強く揺さぶった。
思考を中断させたのは、僕らのパスタを運んできた店員だった。僕らは黙々とパスタを食べ、食後に一度だけ美味しかったねと言葉を交わし、支払いを済ませて店を出た。予想に反して支払いが少なかったことに気付いたのは、店を出てしばらくのことだった。
「ご馳走さま、ありがとう」
それは京子からの食事に関する初めての感謝だった。僕はその言葉を聞いて、もうとっくに食事を奢る義務から解放されていたことに気付いた。
それから僕らは自宅方面の電車に乗った。方向は一緒だったけれども、僕が先に降りることになっていた。ただ、時刻を見れば既に午後十一時前の遅い時間だったので、僕は京子の家まで送っていくよと言った。京子はしばらく考え込んだ後で、こくりと頷いた。
駅からの道を並んで歩き、彼女のアパートの自宅に招かれた段階になって、僕はようやく事の重大さを理解した。ティーバッグの紅茶を二つのマグカップに注いできたとき、僕はこれからどうなってしまうのだろうと他人事のように考えていた。どこか冷静でいられたのは、僕が京子に対しての恋愛感情を持っていなかったためだと思う。たしかに京子は可愛らしく好ましかったが、その好ましさは恋愛的な意味ではなかった。決して恋人同士になることはないだろうという気軽な感情で僕は京子と接していた。このときまで京子もまたそうだったのだと思っていたが、次第に疑問符を意識せずにはいられなくなった。
結局、僕と京子の関係が新しい展開をみせることはなかった。紅茶を飲み終えた僕が玄関に向かうと、京子は黙ってついて来て、握手を求めた。僕らは穏やかな握手を交わして別れた。