03
初めての給料日は僕が休みの日だった。だから大学の授業を終えると、途中で寄り道をしながらのんびりとバイト先に向かった。どうせ開店中に顔を出しても邪魔になるだけだ。
給料日という言葉の響き、その軽やかさ。どんな人間であったとしても給料日と聞けば心が潤うに違いない。今の僕は給料を心待ちにする凡庸な学生なのだ。
しかし、いくら気持ちが和らぐといっても、財布の紐が緩んではならなかった。お目当ての物は僕にはなかなか手が出ない。仕送りや春休みのバイトで貯めたお金を動員すれば、充分にお釣りの出る金額ではある。だけどもそういったやり方は僕の好みではなかったし、何となく重みが足りないような気がした。神格化する必要があると僕には思えるのだ。例えば成功者が人生の岐路に立ったときのことを語る。それは凡庸な話であってはならない。何か霊的な力が働いて、あたかも運命というものが存在するかのようにそうなったと語られなければならない。要は物事を大きくして、過去の自分を一度殺してしまわなければならないのだ。
今の僕にできる演出は初めての給料、それだけだ。けれどもそれを買ってしまえば全てが変わる。僕が変わり、世界が変わってしまう。きっとそうなるだろうという不思議な自信があるのだ。
……そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にかカフェの前に着いていた。ちょうど男子高校生のグループが出てきたところだった。最近は女子ばかりではなく、男子も店にやって来るようになっていた。オーナーが言うには、男の店員がいるのといないのとでは全く違うのだという話だったが、もしそれが真実であるとすれば、僕も何かしら他人の役に立っているのだと思えて嬉しくなった。店のドアを開けてレジの真後ろに掛けてある時計を見ると、午後六時五十分を過ぎたところだった。ちょうど良いタイミングだ。厨房の方から足音がして、京子が姿を現した。
「いらっしゃい。給料でしょ」
「うん」
「座って待ってて。それとも洗い物、手伝ってくれる?」
「手伝うよ。その前に水を一杯くれないかな」
僕がテーブルの食器を流しに運び、それを京子が受け取って洗う。京子が洗い物をしている間に僕は店内を軽く掃除し、十五分もしないうちに全ては片付いた。オーナーは奥で売上の計算をしているので、僕らは全ての作業を終えるとオーナーが出てくるのを待った。別にオーナーを待つ必要はなく、一言声をかけて給料を貰って帰ることもできたが、京子が厨房に一つだけのパイプ椅子に座ったので何となくそういう流れになった。
「今月はどれくらい貰えるかなあ。ねえ、野崎くんのことだから自分で計算したんでしょ」
「してないよ。でも、ざっと予想はできてる」
「さすがね。私も毎月の額と同じくらいだろうけど、時給を上げてくれたから少しは期待できるわ」
売上の計算はなかなか終わらなかった。いつも清掃しながら過ぎていく時間だから短く感じたが、こうして意識して待つとひどく長く感じられた。
僕は何となく居心地が悪かった。きっと京子が気にしていることを、質問されたくなかったからだ。
「給料、何に使う?」
僕の気持ちを知ってか知らずか、京子は僕の嫌がる質問をしてきた。彼女はさっきまでの会話と同じように軽い笑みを浮かべていたので、そこに意地悪な感情がないように思えたが、そうではないようにも思えた。
「さあ、ね」
「……」
僕ははぐらかそうとしたが、京子は俯いてだんまりを決め込んだ。それは意図をくじかれた様子にも思えたし、ごまかしは効かないぞと主張しているようにも思えた。
追撃されれば逃れようはなかっただろうが、追いかけてきたのは沈黙だった。僕にとってその沈黙はあまりにも痛々しかった。
「カメラでも買おうかと思ってる」
僕は遂に白状してしまった。京子はまたしても曖昧な態度をとったので、その心の底から絞り出した答えを聞いているのかいないのか分からなかった。
「カメラ、か。そうだったね……」
何に対してのそうだったねなのか、僕にはピンとこなかった。ただ、僕が深淵に隠し持っていたものを掬い取られたような気がして、落ち着かない気持ちになった。
そこへ売上計算を終えたオーナーが出てきたので、僕らが無言のうちに作り上げてしまった雰囲気をばたんと崩壊させてしまった。
僕らは給料を受け取り、戸締まりを終えた店の前でオーナーと別れた。僕らは駅に向かう夜道を並んで歩いた。ふと、オーナーが以前話していたことを思い出した。
「京子ちゃん、いつも彼氏に迎えに来てもらってるのよ。いいわねえ、青春よねえ。野崎くんは彼女作らないの?」
彼女というのは作るものなのだろうかと、そのとき考えたことまで覚えている。どう答えたのかは覚えていないが、僕はきっと苦笑しながらもごもごと喋ったのだろう。
僕の中で膨らんでいく不幸な想像が、どんどん無視できない大きさになっていき、最後に破裂した。
「今日は彼氏はどうしたの」
「別れたわ」
彼女はあっさりとそう言った。ああ、そうか、と僕は思った。
「街へ出よう」
「どうして?」
「何か奢るよ」
僕は、予想よりも多かった給料のことを思い出しながらそう言った。
そうして、夜のモラトリアムは始まった。