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AA-07  作者: 雨宮吾子
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02

 新しく始めたバイトはなかなか楽しかった。

 そこはカフェと呼ぶにはけばけばし過ぎる感じがしたけれど、僕は基本的にカフェや喫茶店と呼ばれる類の店が嫌いではなかった。もっと細かく言えば、コーヒーの香りが好きだったのかもしれない。僕が京子の提案を了承したとき、意外そうな顔をした彼女に対しても同じような説明をした。そのときの彼女の表情は、僕がその奥に隠そうとした本質を見抜いているように見えた。

 そう、今の僕には何よりもお金が必要だった。この慌ただしい一年の間に埋もれてしまったあの日の夢を、僕は意図せぬままに探し当ててしまった。僕がその夢を実現するためには色々な障害物があって、それを乗り越える前の、いわば前提条件としてお金が必要だったのだ。

 僕は女子高生の集団を相手に接客をし、慣れないことをするのでくたびれながらも休憩時間には図書館で借りてきた本を読んだ。僕が自慢できる数少ないことに集中力の高さを挙げることができるが、バイトの休憩時間は短く、下手に読書に集中してしまうと時間を超過してしまうので、専ら家で読んだ箇所を読み返すことに努めた。それもまた、夢の実現に近づくための第一歩だった。

 バイトの内容は今までやった中では最も易しい部類に入った。それでも、女子高生を相手に接客するのはどうも得意ではなかった。あえて明言しておけば、僕は女性の肢体に触れたことがないわけではないが、それは女性に慣れていることを意味するものではない。女子大学生が相手なら、一人であろうと集団であろうと物怖じすることはないはずだ。だから、僕は女子高生という見えない肩書に、あるいは彼女たちが着ている――もしくは着せられている――学生服に怯えているのかもしれない。このことが示すように、僕はあまり精神の強い人間ではなく、規矩にはまった人間だといえる。

 店は午後七時には閉店する。基本的には後片付けをすれば業務は終了なのだが、僕は大学の授業の関係で特別に一時間遅く出勤させてもらっていたから、その代わりに店内の清掃までやることになっていた。それはオーナーに対する親切心でもあったし、少しでも多くの時間を稼ごうという僕の目的に適ったものでもあった。オーナーは四十代後半から五十代前半くらいの女性で、店の土地は彼女の親類が所有しているもので、数年前にこの店を始めたのだと京子が教えてくれた。まあ、そんなことは僕にとっては大したことではなかった。女性は会話を通して細かなことまで情報を得るのだなと、何となくそんなことを考えるだけだった。それでもそういう些細なことを話の種にすることがあって、そのおかげもあってか、僕とオーナーとの関係は良好だといえた。

 バイトの人間はその日毎に一人いれば良いから、京子と店で会うことはない。ただ、最初の頃は休みの日でも京子が様子を見に来てくれたり、用事があって近くまで来たときには店に顔を出したりしていた。だから、僕らは駅までの道を並んで歩くことがたまにあった。これは嬉しくもあり、負担でもあった。ふとしたきっかけから予想していた以上に親密な仲になり、女性と一緒に歩けることは純粋に嬉しかった。しかし、京子が提示した一ヶ月の間は僕が食事を奢ることになっていて、それは昼食に限ったことではなかったのだ。それでも京子は意地悪な性格をしていないから、ファミレスで軽食をとったりファストフードで済ませたり、僕に対する最低限の配慮はしてくれているようだった。

 彼女は配慮をしつつも奢られることに遠慮はしておらず、僕は憎らしく感じたり好ましく感じたりした。どうして好ましく感じるかというと、そのからりとしたところが気に入ったのだろう。それに他人に食事を奢るという行為が、不思議と僕を大人というものに成熟させてくれるような気がしたからだ。

 その日の僕は清掃を終えると一目散に帰路に就いた。京子がいないときはいつもそうする。汗を流して清潔な下着に着替えるときが幸福な気分を呼び寄せてくれるのだ。この日も僕は人為的に幸福を引き寄せると、二つの付箋を貼った本を取り出した。どうして二つも付箋を貼っているのかというと、さっきも言ったように外で読書するときは家で読んだところを読み返すからだ。一つの付箋は家で読み終えたところまで、もう一つの付箋は再読したところまで。本当は借りてきた本に付箋を貼るのは申し訳ないのだが、栞を二つも挟むのは不格好だし邪魔になる。この短い期間に身につけた一つのテクニックだった。

 このときに読んでいたのは写真集だった。と言っても、思春期の少年にありがちなグラビアアイドルの写真集などではなく、異国の地の街並みを写した写真集だ。手にしたのはトルコの写真集で、同じアジアの国なのにここまで街並みが違うのかと漠然と考え、いやいや文化圏が違うから当たり前のことだなどと考えたりした。しかし、厳密には考えているという言葉は相応しくなく、「考える」と「思う」の中間、あえて定義すれば「感じる」という言葉が相応しかった。

 僕は写真集を眺めながら、あることを夢想していた。自分なりの言語を持つという野望を、その達成を。僕はきっとそうしてみせるし、そうすることができる。内から湧いてくる活力は、その証明だった。

 僕は、表現者になりたいのだ。






 野崎くんの返事を聞いたとき、私は意外に思った。それは私の提案を彼が承諾したことに対してではなく、何となくそうなることが分かっていた自分自身に対する感情だ。彼は目先の利益ももちろん考えていたと思うのだけれど、どこか遠くを見据えながら私に語りかけていたような気がする。ああ、この人はそういう人だったなと、私は思い出した。

 野崎くんがどう思っていたかは分からないけど、私たちの関係に恋愛の要素が入り込む余地はなかった。だから、年末にある男の子に告白されて付き合うようになってからも、別に野崎くんとの関係を解消する必要も彼氏に遠慮する必要もなかった。それがどうして三ヶ月も顔を合わせないことになったのか、私には分からない。多分、春になってから偶然再会したのと同じように、一時的な別れも偶然が重なり合った結果だったのだと思う。

 楽しいといえば楽しい、つまらないといえばつまらない、そんな三ヶ月間だった。彼氏は高校までサッカーをやっていた人で、大学に入ってからは止めてしまったようだけれど、体力があって爽やかな感じのする人だった。勉強もそれなりにできる人で、俺は推薦入試ではなく一般入試でこの大学に入ったんだと、どこか誇らしげに語ってくれたことがある。それが一日中買い物に付き合わせたときのことなのか、同じベッドで朝を迎えたときのことなのか、そこまではよく覚えていない。

 彼氏のことが好きなのかそうでないのかと訊かれれば、もちろん好きだと即答できる。でも、次第に熱が冷めていくのが自分でもよく分かった。元々、そこまで期待もしていなかった。彼氏の腕に抱かれながら、ふと野崎くんのことを思い出し、無意識に彼氏と比較したことがある。野崎くんの身体はここまで頑丈じゃないなとか、ここまで女性との接し方に慣れていないだろうなとか。そういうことを考えた初めてのとき、私の身体はよく燃え上がった。その理由はそのときに分かった。でも、それを認めてしまうのが怖いような気がして、二度三度と同じことを繰り返した。そしてやはり、野崎くんのことを考えるときは快感が増すのだった。

 ああ、私は野崎くんのことが好きなんだ。

 ようやくそのことを認められた次の日、三ヶ月ぶりに野崎くんと再会した。

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