13
大学の食堂に入り、ある一角を占拠している集団に近付いた。十数個の瞳が一斉に私を見た。どれもこれも嫌な視線で、その中で最も鈍くいやらしいものが黒田くんの瞳だった。
「黒田くん、ちょっと話があるの」
「クロダくぅん、ちょっとハナシがあるのぉ」
彼の取り巻きの一人がふざけた口調で私の言葉を真似してみせると、下劣な笑いが起こった。それでも私は挫けずに言葉を続けた。
「小春のことよ」
さっと笑いが引いて、彼が強張った表情を浮かべた。彼らの間では、野崎くんに奪われてしまった彼女のことはタブーなのだろう。
「おい、どういうつもりだ」
彼が低い声で恫喝するようにして言った。いつの間にか私たちを取り巻く雰囲気は緊張していて、私たちのやり取りを物珍しそうに眺めている視線を感じた。きっと彼と二人きりではできないようなことをできるはずだし、人目がある以上は彼も乱暴なことはしないだろう。
「実は私と貴方は共通点があるの」
「何のことだ」
「お互いに好きな相手を奪われた、それだけよ」
「お前の乗り心地が悪かったんだろ?」
彼の取り巻きの一人が茶化すように言った。
「黙ってろ!」
黒田くんがすぐにそれを制した。そのとき、私は緊張の最中にありながらも勝利を確信した。
「私たち、協力できると思わない?」
「……」
彼にしては珍しい黙考の後、彼は首を横に振った。
「消えろ。お前に用はねえよ」
「……分かったわ。もし気が変わったら、いつでも声をかけて」
私の目論見はそうして不首尾に終わったけれども、いつか風向きが変わることを確信した。そうでなければ、私は一人で戦わなければならないのだから、きっとそうであってほしいと願った。
そもそも黒田くんというのはどんな人物なのだろう。
学内で共有されている一般的なイメージとしては、粗暴で利己的で女好きで、つまり性格の悪さで知られている。私もそれ以上のことはほとんど知らないし、知りたいと思ったこともない。そんな彼なのにと言うべきか、そんな彼だからと言うべきか、彼はあの小春と付き合っていた。小春は目の覚めるような美人だったから、この二人の仲はたちまち有名になった。少なくとも彼らの仲は良好だったはずだ。
そんな彼らの関係が唐突に終わってしまったのは、小春が野崎くんという存在に惹かれてしまったからだったが、そのときに私は少しばかり意外な思いをした。私の知る限りでは、黒田くんが突然の事態に対して何らかの行動を起こすことはなかったのだ。彼が大人しく引き下がった、私にはそのように見えたのだ。単純に考えれば、実は黒田くんと小春との関係が冷え込み始めていたからだと言えるのかもしれない。だから私が黒田くんに接触したのは、一つの大きな賭けだった。もしこれが上手くいかなければ、私もあっさりと引き下がらざるを得なかった。
その黒田くんと再会したのはきっかり三日後、私が授業を終えて学内を歩いているときだった。私は彼の低く威圧的な声が好きではなかったけれども、このときばかりは声をかけられて初めて嬉しいと思えた。
「ちょっと話がある」
返事をするよりも先に彼はずんずんと歩き始めてしまったので、私はその後を付いて行く形になった。
彼が話し合いの場に選んだのは喫煙スペースだった。小春と同じく喫煙者の彼が選ぶには妥当な場所といえたけれど、私には野崎くんとの思い出がある場所だったから、少し複雑な思いがした。そういえば、あのときに私たちを卑猥な言葉でからかってきたのは、他でもない黒田くんのグループだった。そう考えれば、さらに複雑さは増すのだった。
「小春のことよね」
「それ以外に用事はないからな」
憎たらしくも思えたけれど、意外にも素直に呼びかけに応じてくれそうだったから、私はほっとした。もちろん、まだ事が済んだわけではないから、私は表情を緩めずに話を続けた。
「小春のこと、好きなのね」
「あれは俺の女だからな」
それは間違っても野崎くんからは飛び出さない言葉、しかも傲慢な言葉だった。ただ、あるいはその傲慢さこそが彼の魅力なのかもしれなかった。男であっても女であっても、分かりやすい人間というのは好かれやすい。
「取り戻したい?」
「取り戻すも何も……いや、強がっても無駄だな。そう、取り戻したいんだ」
そうでなければ話は進まないから、少しばかり肩の荷が下りた心地になった。と同時に、ある根本的な疑問をぶつけてみたい衝動に駆られた。
「悪く思わないでね。小春のどこがそんなに良いの?」
「見た目……が良いのは言わなくても分かるよな。あいつは頭も良いし、どう言えば良いのか分からんが、才能がある」
「感性が優れているってこと?」
「そう、それだ」
野崎くんから聞いていた話によれば、小春には文芸の才能があるらしい。そのことを黒田くんも知っているのはおかしくないけれど、その価値を理解しているということが何となく不思議に思えた。彼は粗暴で下劣なだけの人間ではないのだ。
「今まで何も行動を起こさなかったのは何故?」
「諦めるつもりでいた、それだけだ」
諦めるつもりでいた。そうであるとしたなら、私のこの行動は黒田くんの運命さえ変えてしまうかもしれない。それはいかにも大げさな表現だけれど、このときの私はそう感じた。
「お前もあの男の才能に惚れてるんだろ?」
「違うわ」
私は咄嗟にそう言ってしまったけれど、そこには複雑な意味があった。一つには野崎くんが才能だけの人間ではないということがあって、彼から才能を取り払っても私は彼を愛することができた。そしてもっと大事なことは、私は彼の才能を理解できていないのだ。
私はそんな複雑な心境をどう説明しようか悩んでいたが、彼はそれを察したかのように、
「事情があるんだな」
と言ってくれた。
こうして向かい合って話していると、黒田くんにも良い側面があることがよく分かった。小春を悪い意味で大学の有名人にした原因の一つが彼の存在だったから、良い「側面」と呼ぶ以上のことはしたくなかったけれども。
「ああそうだ、小春の魅力の大事なことを忘れてた」
「何?」
彼は少年のような笑顔を浮かべてこう言った。
「セックスが上手いんだ」
私は暗澹たる気分を抱えながら黒田くんと話し合った。彼をパートナーとするのには相当な精神力が必要だったから。価値観の違う相手と同じ時間を過ごすことの辛さは他に例えようがない。それを置くとしても、私たちにはある問題が存在していた。
どうやって意中の相手を取り戻すか、ということだ。
もしこれが中世の物語だとしたら、決闘でも何でもして奪い取ってしまえば良い。しかし、私たちは物語の中の登場人物ではないし、今の時代は決闘することさえ法律で禁じられている。それではどのようにして相手を土俵に上げるか、もし土俵に上げることができたとして私たちはどのような手段で戦えば良いのか、それが私には思いつかなかったのだ。
「考えてもダメなら、やってみるしかないだろ」
それはいかにも黒田くんらしい直線的な考え方で、それだけに私の心に強く響いた。
「そうね、そうしましょう」
私もまた、直線的な思考を経てそう言った。