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私の進むべき道は決まった。次の段階に進むべきだ。
けれども、ここで一呼吸置くべきだという気がした。それは直感だ。次の段階に足を踏み入れてしまうと、きっともう元の日常には戻れなくなってしまうだろう。だから私は、今ここにある日常を大切にしたいと思った。
私の日常。朝起きてまずするのはシャワーを浴びることだ。いつからか習慣になってしまったその作業は、一つの儀式のようなものになって、それなくしては一日が始まらない。とは言っても、私は特別綺麗好きというわけでもない。それにいくら皮膚の上を擦ったところで、その身の内に潜む穢れは取り除けない、そのことは分かっている。そのことが分かっているのと分かっていないのとではまるで違うのではないかと思う。
シャワーを浴びた後は食事をとる。和食のときもあれば洋食のときもある。気分次第だ。それから荷物を点検して外出用にめかし込んで家を出る。
朝はとにかく早く起きる。シャワーを浴びたり食事をしっかりとるからというのもあるが、混み合う時間帯に電車に乗るのを避けるためというのが一番重要だ。電車の中では本を読んだり音楽を聴いたりネットを見たりする。どうやって過ごすかはやはり気分次第だ。
それから大学の授業に出て、バイトに向かうまでの時間を大学の中で過ごす。ご飯を食べたり図書館で調べ物をしたり、友達と他愛のないことを話したり。バイトのない日は友達と出かけたりすることもある。友達は多くはないけれど、決して少なくもない。それでもまあ、深い付き合いというのはなかなかない。そういう友達と出会えるのは高校までだと思う。
バイト先までは電車で向かう。変わったことは特にない。バイトは今の大学に入った直後に始めたもので、オーナーは優しいしとても忙しいというわけではないから、とても働きやすい。野崎くんを紹介したことで時給も上がって、余裕が出てきたと思う。お給料の使い道は色々あるけれど、学費や貯金に回しているものもあって、自由に使える額は多くない。だから野崎くんに食事を奢ってもらっていたときはとても助かった。
バイトを終えたら自由時間だ。外食をして帰るときもあるし、どこかでお弁当を買うこともあるし、自分で作ることもある。一人暮らしの自炊というのはあまり効率が良くないし、毎日料理をするのは疲れるから、大抵はお弁当やレトルト食品などで済ませる。料理を作る相手がいれば、また事情も変わってくるのだけれど。
バイトの後は自由時間と言ったけれども、それからどこかへ出かけることは外食を除いてほとんどない。また電車に乗って、駅から自宅までの途中にあるコンビニに寄って、そのまま帰る。ご飯を食べてお風呂に入って、何かしらのことをして時間がきたら寝る。それだけだ。
周りの友達に比べれば、とても模範的な生活をしていると思う。だから他人は私のことを強い人間だと言う。でもそれは違う。私は弱い人間だから、規則的な生活をすることで何とか真っ当に生きていられるのだ。そうしなければ、私という存在は粉々に砕けてしまうだろう。
私という存在に光を与えてくれるのは、希望や予感といったものだ。私はきっと野崎くんと結ばれる。彼が表現者になれると信じている病的な確信、それと全く同質の予感が私の中にはある。
きっかけは些細なことだった。
去年の年末にある飲み会があった。主催者は数人のグループで、学内ギネス記録を目指すだの何だのと言って、とにかく学内の暇な人間を集めて大規模な会にしたいらしかった。野崎くんはそういう集まりが好きな方ではないから、どういう経緯でその場に顔を出したのかは分からないけれど、私たちはそこで顔を合わせた。私たちはその前に何度か話したことがあったので、自然と二人きりになった。その頃は私も彼に特別な感情を抱いていなかったから、度々他の友人に呼ばれて席を外したりしたのだけれど、彼はその間も一人でビールを飲んだりしていた。この人は孤独なんだ、と何となくそう思った。とにかくこのときは色々なことが起こって、例えばある男の子に告白されたりしたから、彼のことを深く考える余裕がなかった。
二次会に行こうという声が出始める時間になって、私はようやく様々なしがらみから解放された。私が野崎くんのところへ戻ったとき、彼はテーブルに突っ伏して眠っていた。必然的に彼の介抱をすることになった私は、悪いとは思ったけれど、私は彼の頰を思いっきりつねって彼を起こした。目を覚ました彼は、寝ぼけ眼で私の顔を見つめてきた。
「どうしたの?」
彼は私の問いには答えず、
「僕は表現者になりたいんだ」
とだけ言った。周りの喧騒が一時的に止んだかのように、その声は私の耳によく響いた。そのときの彼は目の輝きがまるで違って見えた。ああ、この人はきっと何かを成し遂げるんだろうなと、納得させられるような光を感じた。けれど、表現者というのは曖昧な言葉だったから、結局彼が何をしたいのか分からなかった。
その直後、全てを押し流す水の奔流のように一次会の終了が告げられた。私は野崎くんにしがみつく余裕もないままに流されて、二次会へと運ばれていった。彼がその後どのようにして帰ったのか、私は知らない。私はといえば、告白してくれた男の子の猛攻撃に耐え切れず、二人で朝を迎えることになり、そのまま恋人同士になった。
結局、私も快楽に溺れるくだらない存在なのかもしれない。だから野崎くんの瞳の純粋な輝きに惹かれたのだろう。でも、それはあくまでも予感の範囲を超えず、私は新しい恋人との時間に没頭することにした。最初はそんなつもりでいたけれど、次第に新しい彼に本気になり、野崎くんとも新しい年度を迎えるまで顔を合わさなかった。純粋な恋心というものは幻想だ。私は自己擁護の意味を込めてそう言える。
では、今の私を突き動かしているものは何だろう? 私は、その黒々とした感情の塊を解剖するのが怖い。きっとそこには生まれたての雛のような、弱々しく若い何かがあるに違いないから。浅い感情だけがそこにあるだろうから。
それでも私は進んで行くだろう。何故なら、私は野崎くんのことが好きだから。