01
約三ヶ月ぶりに京子と再会したのは、大学の近くにある食堂でのことだった。そこは日替わりランチのある店で、その日はとんかつ定食が出されていた。僕が大皿のとんかつを半分食べ終えたところで店に入ってきたのが京子だった。京子は僕の隣のカウンター席に座ると、しばらくメニューと睨み合いをしていた。隣に座ったのが彼女であることに僕は気付かず、おそらく京子も僕のことに気付いていなかったのだが、僕がとんかつに添えられているキャベツのおかわりを注文すると、それを聞きに来た店員を呼び止めて彼女もまた注文した。
同じタイミングでよく見かけるタイプの透明なコップの水を飲み、ふとお互いに相手の顔を見て、僕らはお互いの存在に気付いた。僕らが交わした挨拶はどこかぎこちなかったが、僕は何となく気持ちが良かった。三ヶ月ぶりに再会したためによそよそしさもあったけれど、それ以上にそれまでの親密な関係を思い出して懐かしくなった。これは人付き合いの苦手な僕にとっては珍しいことだった。
「春休みは何をしてたの」
僕らはこの春に二年目の大学生活を迎えたばかりで、僕らは同じ大学の学生だった。僕がバイト三昧の日々であったことを告げると、彼女は特に興味もなさそうな返事をして、また水を飲んだ。そのせいで同じ質問をしようとしていた僕は出鼻をくじかれ、仕方なく店内の高い位置にある小さな液晶テレビに視線を向けた。さっきまで海外の紛争や国内で起きた事故のニュースを深刻な顔で読み上げていたのが、今度はどこかの水族館の話題を笑顔で紹介していた。まあ、そんなものだろうなと僕は思った。それ以上の意味はない。僕自身も深刻なニュースを見たかったわけではなく、これから一週間の天気予報を見たかっただけなのだ。
そこへ僕が頼んだキャベツのおかわりが運ばれてきたので、いよいよ京子の存在は希薄になった。僕は黙々と食事を平らげると、最後にゆっくりと水を飲み干した。京子の食事はまだ運ばれてこない。
「いつもここで食べるの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
僕はとりあえずそう答えておいて、どう説明したものかと頭の中で組み立てを始めた。この時期、学内の食堂は新入生でごった返す。しかも当然のことだけれど、右も左も分からない新入生たちだから、列に並んでいてもスムーズに進まない。ようやく食事を受け取っても席を確保するのが一苦労だ。僕は基本的に一人で行動するようにできているから、友達に席を確保してもらって交代で食事を選びに行く、なんて選択肢はあり得ない。そんな内容を伝えようとして、結局、
「安いし美味しいから」
と簡単に説明した。
実際のところ、この食堂は安いし美味しいし大学からも近いから、僕のような学生にはありがたいのだ。でも、次第に学食の混雑は解消されていくだろうから、そのうちにここに通うこともなくなるかもしれない。
「たしかにね。でもどうして、混雑が解消されていくって分かるの?」
さっきから質問ばかりだね、と言いたくなるのを我慢して、僕はまた思案を始めた。
最初は勝手の分からない新入生たちも慣れてくれば列の流れが良くなるし、何らかの理由で大学自体に来なくなる学生も出てくるから、そうなるんだよと教えた。尤も、これは空疎な交友関係のうちで例外的に親しかった先輩の受け売りなのだが、それは言わずにおいた。
「そう、なかなか考えてるのね、野崎くんって」
「それって褒めてるの?」
「もちろん」
彼女は少しばかり大げさに頷いた。
そこへ店員が食事を運んできたので、僕は自然に席を立つことができた。また会えるか、と彼女は訊いてきた。だから僕は、
「しばらくの間はここに来るだろうし、いずれ学食で会うことがあるかもしれない」
僕はそれだけ言って会計を済ませ、店を出た。
暖簾をくぐったときにふとむずがゆい思いがして、その理由も分からないまま、午後の授業がある教室へ向かうことにした。
次に京子と会ったのは学食だった。ゴールデンウィークを過ぎた頃で、前回からひと月は経過していたと思う。僕の予想通りに学食の混雑はいくらか解消されて、少し歩き回ったけれども席を確保できた。
自分で言うのは変かもしれないが、僕は気弱そうな外見をしている。だから下手に見られるのかもしれないけれど、よく道を訊かれたり記念写真の撮影を頼まれたりする。まあ、それは悪いことではないのだ。ただ、この日は少し事情が違った。僕と同い年か一つ上か、それは分からなかったが、七八人のグループがある一角を占有していた。近場に空席がなかったので、僕はそのグループの隣の席に座った。学食自体が騒がしい場所だから最初は気にならなかったが、次第に話が盛り上がってきたのか、大きな声でくだらない話をし始めた。その内容はありきたりな酒やタバコやギャンブルの話で、たまに卑猥な言葉が飛び交ったりした。僕はあまり良い気分はしなかったけれど、食べ終わるまでの辛抱だからと黙々と食事を続けた。彼らも僕のことには関心を持たなかった。
そこへやって来たのが京子だった。騒がしいグループの近くにいたせいか、偶然僕の姿を見つけたのだと言って隣に座ってきた。僕がカツ丼を食べているのを見て、そういうの好きなのね、と呟いた。彼女がどうして僕の隣に座ろうとしたのかは分からないが、不運なことに例のグループの一人が意地悪な笑みを浮かべてこちらを見てきた。僕らのことをからかっているらしかった。
「おい、そいつの乗り心地はどうだ?」
僕はぎょっとしてその男を見てしまった。僕に対してか彼女に対してか、あるいは僕ら二人に対して言ったのかもしれないその言葉に、僕はうっかり反応してしまった。そのせいでグループの連中に笑いが伝播し、僕は耳が熱くなるのを感じた。僕は黙って下を向くことしかできなかった。
京子はわざと大きな音を立てて箸を置くと、僕の手を掴んで立ち上がった。僕もその勢いにずるずると引きずられるようにして立ち上がり、そのまま二人で学食を出た。背後でまた一つ大きな笑いが起こるのが聞こえた。
しばらくの間、僕は手を引っ張られながら学内を歩いた。京子がどこへ行きたいのか分からなかったが、彼女自身もどこへ行きたいのか分からないようだった。あまり人気のないところ、しかも静かすぎないところが良いなと僕は他人事のように考えた。その点、僕らは同じようなことを考えていたらしく、自販機コーナーの近くにある喫煙スペースで京子は立ち止まった。顔を真赤にした男と息切れした女が手を繋いでやって来たものだから、数人の先客たちはひっそりと静まり返った。
どちらからともなく手を離して、僕らは黙り込んだ。必然的に重い空気ができあがったせいか、先客のうちの一人がまだ長めのタバコを吸い殻に捨てて立ち去った。
「さっきはありがとう」
特別感謝したいわけではなかったが、下手に謝るよりも良いと思ったので、僕はその一言だけ口にした。京子は何か言いたげな顔をしていたが、上手く言葉にまとまらなかったのか、ゆっくりと頷いた。
「これでしばらくは学食に行けないね」
彼女がけろりとした表情でそう言ったので、僕はその切り替えの早さに舌を巻いた。そして、その言葉がどこか共犯めいた気分を探し当てたので、嫌な思いをしたはずなのに愉快な気分になり、もう一度びっくりした。
「うん、悪いことをしたと思ってる」
「最初から謝りなさいよ、まったく。おかげで私の昼ごはんが台無しになっちゃった」
「あっ」
僕が軽く声を上げたので、彼女は怪訝な顔をした。僕は声を上げてしまった以上、説明をしなければならなくなった。
「食事、あのままにしてきちゃった。学食のおばちゃんに怒られるかな」
彼女は今度こそ呆れた表情をしたが、半ばは笑いかけていた。だから僕も面白くなってしまって、彼女と二人でしばらく笑い合った。誰かとこうして笑い合うというのは、本当に久しぶりのことだった。
「バカね。バカよ、バカ」
「そんなに繰り返さなくてもいいだろう」
「バカには一度じゃ伝わらないから、何度も言わなきゃならないの」
それから彼女は冗談めかしてバカと言ったが、何度も繰り返されるうちに本当に自分のことがバカに思えてきて、ああ、僕はバカなんだなと思った。
お互いに笑うことに疲れて、その場にいた他の学生がいなくなってしまうと、僕らはそこにあったベンチに座って色々と話し始めた。彼女とは去年の秋頃に親しくなって、去年の暮れまでは頻繁に顔を合わせていたが、こうして長い間語り合うということは一度もなかった。僕らの間にある程度の距離があったことが、却って僕らの会話を盛り上げた。
「ねえ、今もバイトしてるの?」
「いや、今はしてないよ。春休みにした短期のバイトで稼げたし、実家からの仕送りもあるから」
「そうなの。ねえ、いいところ紹介してあげるからさ、またバイトしてみなさいよ」
「怪しいな、ねずみ講の勧誘みたいだ」
彼女はふふっと笑って、軽快に頷いてみせた。
「よく気が付いたわね。……いや、違うの、ちゃんとした仕事なの。私のバイト先が急に人手不足になっちゃって、誰か紹介してくれたら時給を上げてくれるって言うから」
彼女が言うには、そこは個人経営のカフェのようなところで、近所に高校があるらしい。だから授業の終わった夕方から店が混み合うらしく、ちょうどその時間に働いていた大学生が卒業するなどして、人手不足になってしまったということだった。僕は条件を確認して良さそうだなと思ったのだが、一度家に帰ってよく考えてみるからと保留にさせてもらうことにした。
「早いに越したことはないけど、まあ仕方ないから待つわ」
「悪いね。……それにしても、どうして急にそんな提案をしてきたの?」
「少しでも野崎くんの負担を減らしてあげようと思ったの、優しいでしょ」
「負担って?」
彼女が意地悪な笑顔を浮かべた。僕は彼女のそんな表情を見たことがなかったので、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。
「さっきのこと、もう忘れたの? 私の昼ごはんを台無しにしちゃったんだから、これから一ヶ月は私の昼ごはんの面倒を見なきゃいけないのよ」
「それって、強制してるの?」
「もちろん。というより、これは義務よ」
何故だろう、僕は義務と言われると緊張してしまい、断ることができなくなってしまった。彼女の巧みな交渉力に僕はまたしても舌を巻いた。
「じゃ、そういうことだから。また明日の昼になったら電話するから、どこか良いお店を調べておいてね」
僕は一応頷いてみせたが、この前の食堂しか知らなかったし、他に穴場を探す気持ちにもなれなかった。
京子が立ち去り、一人になった僕はベンチに身体を委ねて空を見上げた。雨の降る気配はない。僕は雨が嫌いだから、これからの季節は憂鬱だった。そうなると彼女の提案をこの場で受け入れなくて良かったと思えた。明日にでも断ろう。
そう決心したところへ誰かがやって来た。僕はそれに構わず空を見上げていたかったが、その人は僕の隣に座ってタバコを吸い始めた。自然な興味心で隣を見ると、そこに座っていたのは、小春という名の綺麗な女性だった。