絶章「“至高”の恐怖」
■八年前、某月某日
ソレは、正に天災。
ソレは、正に暴威。
ソレは、正に神域。
人という存在が霞むという次元ではない。
芥の塵以下の存在と知らしむ、真に“最強”と呼ぶに相応しい存在であった。
「ヒィッ! な、なんで出会っちまうんだ! 一生に一回もないんじゃないのか!?」
「そんなこと言っても、出会っちまったモンはしょうがネェだろ!」
見るからに凶悪な面構えをした男共が嵐の船上で怒号を上げながら、右往左往する。
この局面において、怒号も右往左往も意味が無い。
あるとすれば、目前に迫る“確実”な死を伴う恐怖を紛らわせる、ある種の精神維持に類する現実逃避といえるであろう。
「え、沿岸部にとにかく向かえ! “ヤツ”は陸には近づかない!」
「もうやってるッ!」
船上の騒乱は、暗い地下倉にいる鎖に繋がれた奴隷達にも伝わってきていた。
もっとも、船倉で横たわっている者達に、船上の喧騒も船の動揺も何も関係ない。
すでに心は摩滅しきっており、船が沈もうがなんだろうが、彼らには興味もなかった。
無論、その中でも一際幼い少年も同様である。
糞尿に塗れた船倉の床に横たわったまま、かすかに目を開いたが、すぐに閉じた。
しかし。
ドドドッ!
眼前で“何か”に床が穿たれ、少年の眼の前の霞が振り払われた。
穴の開いた床からは、湯気のようなものが上がっており、穴の開いた部分が焦げていた。
何? と疑問に思い、久しぶりに身を起こしてみる気になった。
すると、ドゴッという鋭い音が起き上がったばかりの少年の背後から聞こえ、振り返ってみれば、一秒前まで頭のあった場所に甲板を貫いた鉄製の棒が突き刺さっていた。
もし、起き上がる気にならなければ即死であっただろう。
もっとも、少年の摩滅した心にはさしたる感慨もなく、三つの天井に空いた穴の向こう側を何気なく見上げてみた。
見上げて……見られた!
異形なる摩滅した心すら木っ端微塵にするほど、心・感情・畏怖・畏敬も何も無い、人でもなく、爬虫類でもなく、強いて言えば遥かに上をいく存在の“眼”を、少年は見た。
無意識の内に、少年は立ち上がろうとしていた。
しかし、鎖に繋がれた足がそれを許さず、あえなく転倒した。
ズドッ!
その瞬間、天井を帆柱の一部がぶち抜き、一瞬前まで少年の頭部があった位置を通過し、多くの奴隷達を押しつぶした。
そこは屍山血河となった。
なったが、悲鳴は一瞬で消えた。
落下物の一撃を受けた者達は、幸運にしてほぼ即死であった。
他の奴隷達はわずかに身じろぎしたが、ただそれだけであった。
人の死の充満し、それでいて静寂の空間で、少年は全力で鉄製の手枷を足枷にぶつけた。
ガキィン!
一度ならず、二度も、三度も、四度も、何度でも。
少年の黒い瞳に、鉄の枷がぶつかるたびに火花が燈る。
ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン!
その響きは、目を閉じかけていた他の奴隷達の目をゆっくりと開かせる。
ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン!
一心不乱に枷をぶつける少年の姿に、奴隷達は何を思ったかは想像するしかない。
ただ、一人、二人と、身を起こす者が出てきた。
ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン! ガキィン!
一人の奴隷がゆっくりと立ち上がる。
少年は気づかず、あるいは気づいていたとしても構わず続ける。
ガキィン! ガキィン! と。
立ち上がった男は、床に突き刺さった鉄の棒を引き抜いた。
「…ズ」
男は少年に『ボウズ』とでも声を掛けようとしたのだろう。ただ、長い時間に渡り会話をしなかったのと、喉が枯れていた二つの理由で、上手く発声が出来なかった。出来なかったが、少年の耳にはしっかりと届いていた。
「少しジッとしていろ」
男を見上げる少年は、言われたとおり、ピタリと動きを止めた。
暗い船倉に再び静寂が戻り、
「ッ!」
男が無音の気合と共に鉄の棒で少年の右足枷を突くと、一撃でネジが二つともへし折れた。
少年が足枷を掴み、隙間を空けようとするとあっさりと足が抜けた。
「もう一つだ」
男が言うと、少年は頷き、また動きを止める。
男は少年の左足枷に一撃を加え、こちらは簡単に弾けとんだ。
少年の足枷は、長い間の小便と塩スープによって十分に錆びついていた。そこに少年の手枷による連打と男の一撃が合わさり、ついには足枷を破壊した。
「…ありがとう」
少年が礼を言うと、男の顔が僅かにゆがんだ。
いや、笑おうとしたのだろう。
少年はこの時のことを、後に思い返すたびにそう思った。
男は、その顔が辿り着く行き先を少年に確たる答えを与えぬまま、背中から血を流しつつ前のめりに倒れた。
驚く少年の視線の先で、刀を持った船員が吼える。
「テメェッ! こんな時に何してンだ!」
“こんな時”に、その船員はわざわざ奴隷達のいる地下三階の船倉まで降りてきた理由は不明である。逃げてきたのか、命じられて様子を見にきたのか。いずれにせよ、少年にとって、脅威を齎す存在である事は間違いなかった。
「大人しくしていろッ」
刀で斬られれば、大人しくするも何もないのだが、力に訴える事しか知らない船員は無造作に刀を振り上げ、少年に向かって振り下ろした。
少年は反射的に手首を交叉するようにして防御し、手首につながれた手枷が刀を受け止めた。
「なっ!?」
驚く船員を他所に、少年はすぐに気づいた。
刀を受け止めてくれた手枷の左手側が壊れて外れた事に。
少年は刀を器用に右にそらしつつ、一度、バックステップを踏む。
「お前!? 足枷が!?」
船員にとって命取りだったのが、足枷が外れていたことに気づいた事であった。
少年は左手を手枷から素早く抜き、右足を引いて構える。
「オォッ!」
掛け声と共に、右手首にぶら下がる手枷を船員の顔下半分に叩きつけた。
遠心力によって威力の増した手枷は、さながら鉄球が如き威力を発揮し、船員の前歯と顎を砕いた。
「ギィヤッ!」
悲鳴を上げつつ仰け反る船員の手から刀が落ちる。
少年は素早く拾い、痛みに暴れる船員の腹を突き刺した。
「ッ!」
刺された船員はピタリと動きを止め、信じられないように刺された腹を見て、次に刺した少年を見た。
少年は腹から刀を抜こうとしたが抜けず、あっさりと手を離して一歩左へ動く。
船員は、少年の立っていた場所に前のめりに倒れ、それっきり動かなくなった。
船倉に、再び静寂が取り戻された時、少年が息を吐く。
久々に動いたせいであろう、少年の胸は激しく動悸していた。
しかし、頭の中はクリアだった。
初めての殺人であったが、何も感じなかった。
殺して当然だとも思わなかった。
極、自然な成り行きでしかなかった。
息が落ち着くと、少年は倒れていた男を見た。
男はすでに死んでいた。
少年は一度だけ目を閉じると、小さく口を動かした。
それが終ると、少年は目を開き、船倉を見渡す。
船倉にいる奴隷達は、動かず少年を見上げる。
少年は船倉の扉を指す。
通常であれば扉は閉まっているが、先程の船員が入ってきた時から開いたままになっていた。
しかし、誰も立ち上がろうとはしない。
少年はひとしきり周囲を見渡したが、興味を失ったように視線をはずすと、上階へ続く階段に向かった。
開かずの扉は開いた。
扉が開いているのなら、そこから何処にでも行ける。
しかし、扉が開かれていても、その先に進む勇気と希望がなければ、何処にも行けない。
ならば、扉が閉ざされていても、進む意思さえあれば、何処にでも行ける。
階段を上がるごとに、人の声と風の音が聞こえてくる。
それは徐々に大きくなり、最後の扉を開いた時、猛烈な風雨が少年の正面から襲いかかる。
思わず目を閉じた少年に、突如として風と雨が途切れた。
止んだのかと思い、目を開いた時、“ソレ”は少年の眼前にいた。
「!?」
嵐と人々の奏でる狂騒の中、全ての事象の中心に饐える、巨大で凶悪なる未知なる造詣による八眼の支配者。
「空を飛ぶ、魚!?」
全長三十メートルを容易く超える巨体。
黒い鱗に覆われた八目を有する魔獣。
「………………………………………………………………………………………………」
言葉も無く魔獣を見つめる少年の目前で、宙に浮かぶ魔獣は距離二十メートルほどで正対する。
少年は、不思議なほど恐怖を感じなかった。
遥かなる高みにある存在の八目を見て思った。
今まであった、街の人々の暴力も、戦も、何もかも、この生き物に比べればなんでもない。
少年の、これ以降の人生において、強さと恐怖に関する全ての基準点はこの“八目の魔獣”にあった。
だからこそ誰が前に立とうと、今更、恐怖など感じるわけもなかった。
もっとも、この時はそんな未来の事など知る由もない。
ただ、偉大なる存在に、少年の視線は釘付けであった。
この偉大なる存在が、扉無き強大な壁が立ちふさがる人生において、少年に進む意思の力を齎した。
少年にとって、この偉大なる暴威こそ、全ての事象へ挑む『鍵』だった。




