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因果邂逅のタタリクス  作者: 紅月蓮也
第一章「向こう岸より来たりて」
18/30

第十七話「遥か彼方の夏紅葉」

 ■物語七日目、八月七日、〇六:〇〇



 その日、時詠潮の八月七日も、いつもどおり朝六時には“G”に叩き起こされ、顔を洗おうと思えばQタローと一つしかない洗面所でケンカとなり、四十秒で支度できず風花に嫌味を言われ、そうこうしているうちにノックもしない桜子が部屋に乱入してきて一悶着。ひとしきり風花と桜子が言い合い、“G”がイライラする。それが終ると、グランドを十周走る。


 何もかも、いつもの日常。

 違うとすれば、今日の朝食である目玉焼きが美味しいくらいであろうか。

 いや、潮の朝定食のみ、玉子焼きがいつもより一つ多い三切れだったからかもしれない。

 それ以外は特にかわらない毎日の繰り返し。

 日常からはずれるのは間もなく、潮が所属したサクラ小隊長・山吹の実家である姉小路家上屋敷に身柄が移されるところからである。


「皆様、短い間でしたが、色々とお世話になりました」

 朝の九時、正門前にて、潮は見送りに来た美堂芹教官と第五訓練中隊に深くお辞儀する。

「短くはありましたが、毎日が新しく、一日として退屈をしたことがありませんでした。訓練はついていけないほどキツイものでしたが、模擬戦で地面に転がされたのもいい思い出です」

 笑い寸前の空気で、わずかに和む。


「ご存知の通り、私の切腹は明日です」

 そして、声にならないざわめきが立った。

「私がここに来たのは自分自身の心を鍛えるためでした。勿論、それ以外の理由もございますが、今となれば些細な事です」

 潮の抑揚に乱れはなく、まさに明鏡止水の境地であった。

 遠くない未来において、多くの修羅場に挑むことになる風花達は、この時の潮を思い返して勇気を得たという。

「私がここで学んだのは、どれだけ遠く離れていても、その心は決して離れないことです。離れていれば必ず引き寄せる。その事は、生きている限り、絶対に忘れません」


 生きている限り。

 潮にとっては、あと一日だけの時間。

 その言葉に、涙ぐむ仲間達もいた。

 情の篤い桜子は桜色の瞳に涙を溜めつつも必死にこらえていれば、雪蘭は滂沱の涙である。反対に“G”やクレハ・カエデは、まるで出来のいい我が子を見るかのような母の眼差しで微笑んでいた。


 多くの人が明日も明後日も変わらない日常を送る中で、時詠潮というわずか六年の人生を終らせようとしている。

 それが風花にとっての、明日からの『日常』である。

 そこに痛みや悲しみがあっても、潮と風花が二人で決めた道だ。この道こそ最善であり、自分達も含めて、多くの人にとって一番幸せな結末を迎える事ができると信じた道である。名残惜しくとも、悔いはない。ただ、やりきった満足感だけがある。


「皆様、ありがとうございました」

 潮は最後に敬礼し、その場の全員が返礼する。

 するとペチペチ音が聞こえてきた。その音の鳴る方へ目を向けると、空飛ぶイルカのQタローが手を…ではなくヒレを叩いて拍手をしていた。ギュウギュウ号泣しながら一生懸命拍手をしていた。

 風花は口元を綻ばすと拍手をし、“G”と桜子も後に続く。そして、美堂教官も含めたみんなが拍手で潮を讃えた。

 Qタローはスィーと潮の前まで飛ぶと、ポシェットから綺麗に包装されたプレゼントを出し、それを潮に差し出した。

「わぁ、私にくれるのですか?」

「キュウキュウ」

「では頂戴いたします」

 潮は両手で受け取ると、早速その場で開けてみた。

 それは『大願成就』『豊泉寺』と大きく書かれた御守りだった。

「御守り、ですね。これはどうしたのですか?」

「きゅうきゅう」

 Qタローはヒレを器用に湾曲させて力こぶを作る。

「えっ、アルバイトしてそのお金で買ってくれたのですか?」

「きゅ!」

 空飛ぶイルカは嬉しげに鳴く。

「そうですか……思ったとおりです。貴方は、やれば出来るイルカです」

「きゅきゅ!」

「ありがとうございます。一生大切にします」


 潮はQタローの成長が見る事が出来て、心から嬉しいと思う。

 働く事を説いた自分ですら、こんなに上手くいくとは思っていなかった。いつかそうなれれば良いと考えていた。

 しかし、Qタローは自力で仕事を見つけ、そしてせっかく手に入れた大切な賃金を自分のために使ってくれた事。

 それは、潮の生きた証の一つであった。

「Qタロー、貴方の事も忘れませんよ」

「ぎゅきゅー!」

 一人と一匹はニッコリ笑って別れる。


 潮は風花に目を向けた。

 風花の周りにいた者は、そっと風花のそばから離れた。

「真夏屋風花、礼を言います」

「我が主よ、私は貴方の騎士。貴方の願いは我が願い。彼岸まで共をせよと命じるのなら、そこまでお供します」

 二人とも真面目くさって堅苦しい。

「では命じます。私がほんの少し離れようとも、その歩みを止める事を許さず、以上」

「承知しました」


 生真面目に頭を下げる風花を見て、ついに堪えきれず潮が噴き出した。

「なんです、それは。貴方らしくない」

「笑うことないだろ。最後くらい、それらしくしたいんだ」

「ふふ、貴方にもそのような殊勝さがありましたか」

「もう、二度といわない」

 まだ笑う潮に、風花は不貞腐れた。

「ええ、私達にはそんな形式ばった事は必要ありません。気持ちが通じ合っているなら、言葉以上のものを遣り取りできます」

「どうだか。七日たっても早起き出来ないルームメイトを持ったオレの気持ちも汲んで下さい」

「ふふ、了解しました。では、もう行きますよ」

「ああ、それじゃあ、身体に気をつけて、な…」

 本当はもっと気の効いた事を言いたいのに、何故こんなにも間の抜けた事しか言えないのだろうと思う。しかし、変に形式ばらないのが自分達の関係だ。そう自分に言い聞かせて右手を振った。

「はい、これでひとまずのお別れです。皆様、御機嫌よう」


 長鳴藩五十六万石第十代目当主、時詠潮が最後に深く頭を下げ、ゆっくりと身を翻し、七日間の仲間達に背を向けて去っていく。

 正門の外には、山吹の姉である姉小路吹雪が迎えに来ていた。罪を申し渡されたとはいえ伯爵位をもつ時詠家当主への礼として、姉小路家次期当主自ら馬を曳いていた。

 潮は礼を言いつつ、自分の馬に乗ろうと鐙に足を掛けようとしたところで、動きを止めた。


「ああ、そうそう。言い忘れるところでした」

 潮は風花へ振り返る。怪訝そうにしている風花に、潮はハッキリとした口調で宣言した。


「真夏屋風花、其方の使命はこれにて終わりぬ。完遂見事なり!」


 言祝ぎを与えると、一週間の成果の一つとして、一瞬で馬上の人となる。馬の乗り方も、風花が教えたのだ。

「なんだよ、それ……オレ達の間で、そういう堅苦しいのは無しだったんだろ?」

 呆然と呟く風花に潮はもはや応えない。

 目も向けない。

 潮は自分の行くべき道を向く。

 風花の使命は、もう、終ったのだ。

 風花の黒い瞳が揺れる。

「最後にそんな事をいうなよ、潮ッ!」

 吹雪が合図する間もなく、潮は馬を進める。馬は主の意を受け、ゆっくりと歩を進める。


「潮!」


 思わず踏み出そうとした風花の肩を、桜子と“G”がしっかりと押さえた。

 邪魔をする二人を睨もうとしたが、桜子の涙を溜めた桜色の瞳に、“G”の厳しさを秘めた碧色の瞳に諭され、風花は潮の背中へと目を向ける。

 小さい両肩には百万人の命を乗せ、その背中は振り返らず前に進む事だけを見せる。

 それが、真夏屋風花が最後に見た、七日間だけの主、時詠潮の姿であった。



 同日、夜。

 姉小路家上屋敷に入った潮は、夕食に何を食べたいか尋ねられた。

「焼きそば定食」

 即答であった。

 そして今、潮の最後の晩餐に、焼きそばにご飯と味噌汁、香の物が膳に並ぶ。

 膳を運んできた世話役の侍女には、独りで食べたいと伝えて下がらせた。

 襖を閉じられ、二十畳の広い客間で独り焼きそば定食と向き合う潮は、何故か気持ちが落ち着かない。

 御手許から箸を抜いて手にするも、何かが違うと思い、箸が焼きそばに伸びない。こんなにもソースが香ばしくていいにおいがするのに、“時戯の駆り手”の力で見た、風花が妹弟に食べさせたものと何かが違う。

 自分でも解らない気持ちを持て余し、御手許を広げて正方形に切り取り、鶴を折る。

 思えば昨日は何十羽も折った。それだけにスムーズに折鶴が出来上がった。御手許を正方形に整える際に、慎重にやったとはいえ、やはり縁が波打っている。その割には綺麗に折れた。きっと風花の妹弟の折鶴にも負けていない。折鶴を折って、少しだけ気持ちが落ち着いた時、それは突然に聴こえた。


『おにいちゃん、この生玉子はどうするの?』


 ああ、そうか、と思った。

 生玉子がない。

 だから、目の前にあるのは『風花の焼きそば定食』ではない。

 一つしかない生玉子をどう使うのか考える。それなくして『風花の焼きそば定食』は完成しないのだ。

 どうしようかと悩む。簡単なのは、侍女を呼び、生玉子を注文すればいいだけである。

 しかし、そうやって取り寄せても、それも違うと思った。

 この胸を横切る空虚感は、生玉子を取り寄せるだけでは埋まらない、それだけは解った。

(……風花)

 折鶴をギュッと握り、泣きそうな声で最後に呼びかけた風花の声と顔を思い出す。

 いや、思い出されたのは、それだけではない。


 初めて逢った時の、荒みきり、素っ気無い態度の風花。

 自分を攫った師でもある加治微風を斬った風花。

 訓練校で同室になり、ベッドを提供した風花。

 朝叩き起こし、四十秒で支度しろと言う風花。

 自分の為に、仲間と共に血を流し闘う風花。

 仲間と和解し、手を伸ばし握り返した風花。

 最後まで、自分を見続けてくれた風花。

 風花、風花、風花、全ての風花。

 唯一人の騎士、風花。

 大好きな風花。


 “時戯の駆り手”で数千人の記憶を見てきた潮は、いわゆる『恋』という感情も知っている。

 自分がソレをした事がなくても、ソレが身を引き裂かれるような強い気持ちであることを知っている。

 今、もしここに風花がいたら、もし自分が風花を満足させる事の出来る身体であったら、風花に全てを捧げて一つになりたいと、強烈に思う。

 そうなれない事が、死ぬ事よりも辛い。

 しかし、それは今更である。

 潮と風花は、現在の道を選ぶために、他全ての未来に繋がる因果を断ち切ってここまできたのだ。

 今の潮に出来る事、すべき事は、目の前にある『焼きそば定食』を綺麗に平らげる事。

 ただそれだけであった。

 潮は意を決し、手にしていた折鶴を膳に置き、替わりに箸を手に取る。

 箸を持ちつつ、目を閉じ、両手を合わせて呟いた。

「風花、いただきます」

 コトリ

 と、何かが転がったような音が聞こえる。

 この部屋には自分しかいない。思わず目を開くと、やはり誰もいない。

 気のせいかと膳に目を向けると、ソレは在った。

 折鶴の替わりに、生玉子が一つ入った小鉢が在った。

「風花!?」

 もちろん、それがどういった事象か、潮には解る。


 《彼岸弓・壱式【苧環(おだまき)】》。


「……風花」

 繋がる心が、気持ちを託された品を交換する事象。

 それは世界が、潮と風花の心と心が通じ合ったことを認めた証。


「……そう、風花も私と一緒に『焼きそば定食』をたべてくれるんだ」

 たとえすぐそばにいなくとも、繋がる心が風花の「今」を伝えてくれる。

 きっと、いや、絶対に風花は訓練校の食堂で、桜子、“G”、山吹、雪蘭、クレハの六人、いつものテーブルで『焼きそば定食』を食べている。

 今頃、風花の生玉子が折鶴に替り、テーブルが沸き立っているに違いない。また桜子が泣いていないか心配である。

 そう思うと、桜子には悪いが、何故だか微笑ましく思える。

 すでに先程までの焦燥感はない。

 改めて手を合わせて、その日の糧に感謝の言葉を口にする。


「いただきます」


 焼きそばを一口すする。

 美味しい。

 やっぱり風花の言ったとおりだ。焼きそばは冷えていても美味しい。

 一つしかない生玉子はどうしようか。

 焼きそばに乗せるか、ご飯にかけるか。

 いや、どうちらかではない。両方にしよう。

 半分を焼きそばにかけ、半分をご飯にもかける。

 それでいこう。

 玉子を小鉢の縁にコンコンとぶつけてパカリと割ると、綺麗に割れた。

 玉子を箸で掻き混ぜ、まずは半分だけ焼きそばにかける。

 一口。

 美味しい。

 ソースの甘辛さに、玉子の黄身のまろやかさとコクが加わり、さらに美味。

 最後のお楽しみとして残る玉子をご飯にかけまわしつつ、後で先程の侍女が膳を片付ける時に不思議がるだろうなと思うと、自然と笑みが零れた。




 ■物語最終日、八月八日、〇九:一〇



 王下親衛訓練学校グランドを第十三期第五訓練中隊が全力で走る。

 風花の脚力は同年齢の訓練兵とでは比較にはならない。ついていけるのはグルファーである“G”くらいである。二人はあっさりと全員を抜き去り周回遅れにしていた。

 桜子はムキになって必死に追いかけるが、かえってペースを崩し、他の仲間たちにも遅れそうになる。

 美堂芹教官が周回遅れの訓練兵には怒号を飛ばす。風花が“G”にあの怒号では婿の成り手もしばらく出てこないなと小声で話していたら、プラス十周を命じられた。


 つまりは、いつもの日常だ。

 潮一人いなくなったところで、結局は一週間前に戻っただけ。

 何も変わらない。

 蝶野南水も当然のように、ここにいて、グランドを走る。

 少し寂しいだけで、時間の経過がこの寂しさを癒してくれる。

 忘れさせてくれる。


 今また、風花と“G”は桜子を追い抜く。

 あたかも眼中に無いかのように、風の如く過ぎ去っていく…………と思いきや、

「桜塚、呼吸を一定に整えろ。お前の足も人より速い」

「桜色の姫様、お前は心が乱れなければ負けることはない」

 風花と“G”は桜子に一声掛けつつ抜きさる。

「了解!」

 遅れ気味だった桜子が息を吹き返し、山吹と雪蘭を抜きかえす。

 三人の遣り取りに、サクラ小隊長の山吹は、潮がサクラ小隊に残してくれたものを感じる。

 風花も“G”も桜子も、速度は違えども同じ方向へ走っている。

 自分もこの三人に付き合っていこうと山吹が思っていると、突然、風花の疾走が止まった。


 風花が止まったのに気づき、“G”は引き返し、桜子は風花に追いついた時点で止まった。山吹は何かあったのかと、やはり風花達の元で止まり、雪蘭やクレハ、カエデも集まり、他の第五訓練中隊の速度も落ち、なんとなく集まりだした。

 不思議な事に、速度が落ちた途端に怒号を飛ばす美堂教官が沈黙し、校舎の時計を見上げていた。


「風花、どうかしたのか?」

 視線の中心にいる風花に、桜子が代表して聞き、風花の瞳からポロポロ涙が零れているのを見て、息を呑んだ。それは、他の仲間達も同様であっただろう。

 風花が返事をするのには、少しの時間が必要だった。

「……た」

 珍しく風花の声が掠れていて、よく聞き取れない。

「ど、どうしたんだ?」

 桜子に重ねて聞かれ、風花は胸元のポケットから御手許で折られた小さな折鶴を取り出して呟いた。


「潮が、今…死んだ」


 シンと、静まり返った。


 四方暦七九〇年八月八日午前九時一二分。

 長鳴藩十代目藩主、時詠潮。

 将軍の命により切腹。

 享年六歳。


 静まり返ったグランドの中心で、風花の瞳から涙が零れ落ちる。

 桜子も“G”も風花に声を掛けようと思うが、掛けるべき言葉が浮かばず、伸ばした手も空しく宙を彷徨わせるだけ。

「きゅ~」

 心配そうに手…ではなくヒレを伸ばしたのは、空飛ぶイルカのQタローである。

 Qタローも大粒の涙を流していた。

 いつしか、桜子も“G”も、そして第五訓練中隊の仲間達も涙を流していた。


 風花は涙を止めなければと、必死になって自分に言って聞かせる。

 これが自分達で選んだ道だ。

 しかし、悲しいものは悲しい。

 こんなにも悲しい想いを、また涼や涼次の時の様にしないといけないのか?

 何故、こんな事が起こる?

 何故、こんなにも悲しい選択をしなければならない?

 どうやったら、こんなにも悲しい事を忘れられる?

 出来るわけがない。

 誰がなんと言おうと、忘れない。



■物語六日目、八月六日、二三:一〇



 一昨日の夜。

 風花と潮は二人きりで訓練校の屋上にいた時の事。

「風花、黙っていようと思いましたが、やはり貴方にだけは覚えていて欲しい事があります」

「なんだ、なんでも言ってくれ」

「私の本当の名前です」

「いいのか?」

「はい。私は双子の兄の身代わり。双子の妹である私は始めから存在せず、そして明後日死ぬ事で、不在証明が完了します。私の存在の証明は、兄が姿を現す時までお預けです」

「…潮、いや、ええと…」

 なんと呼べばいいか、とっさに思いつかない風花に、兄のフリをする妹は優しく微笑む。

「でも、その頃には誰も私の事を覚えていないかもしれません。存在そのものが消されているかもしれません。ですから、私の騎士だと言ってくれた貴方に、私の事と、私の名前を覚えていて欲しいのです」

「……忘れるわけないさ。一生覚えている。絶対に忘れない」

「いえ、忘れても私は怒りませんし、責めたりもしません。時間の流れは忘却を産みます。それは決して辛い事でも酷い事でもありません。人が生きていく上で、とても大切なことなのです」

「オレがお前を忘れない。お前の事はいつかみんなに語って聞かす」

「……そうですか、ありがとうございます、風花。やっぱり貴方は私の最高の騎士です」

「聞かせてくれるか、お前の名前を」


「はい、私の名前は――」



 そして風花は約束した。

 誰にも忘れさせない事を。

「どれだけ時間が経っても、関係ない」

 昨晩、絃律によって手元に取り寄せた潮の折鶴に誓う。

「オレが誰にも、お前の事を忘れさせない!」

 グランドに出来た人の輪の中心で、激情が爆ぜ、風花が天に向かって叫ぶ。

「忘れてたまるかッ!」

 風花の叫びは木霊となり、遥か遠くの空まで鳴り響く。

 そして、まず山吹がくしゃみをした。

「……なんか、いきなり寒くない?」

 先程まで真夏の炎天下で地面から湯気が出そうなほどであったが、突然、猛烈な寒気を感じる。風邪でも引いているのかと思いきや、他の者も寒そうに肩を抱いていた。

 そして、突如として、冷たい北風が猛烈な勢いで吹き始めた。

「…クレハ、この気配」

「ええ…あれを見てください」

 黄金樹の化身であるガーベラ族出身のクレハとカエデが、誰よりも早く異変に気づいた。


 クレハが指を差した稟京南側にある南風山(なんぷうざん)の頂上から始まり、他四方にある東花山(とうかざん)西鳥山(せいちょうざん)北月山(ほくげつざん)央雪山(おうせつざん)も同じく、いずれも頂上から色が変わっていく。

 それは真夏の碧い樹々が燃えるような朱色へ、頂上から順次色合いが変化していく。


「夏の楓が、秋の紅葉に変わっていく……」


 クレハは信じられないものを見たかのように、目を見開く。

 現在は夏真っ盛りの八月。通常の紅葉の時期として、東方大陸北部に位置する稟京は比較的早いが、それでも十月である。

 誰かに指摘されるまでもなく、何らかの超常的現象である事は間違いなく、それが風花によって引き起こされた事も仲間達には確定事項であったし、事実そうであった。

 それは男装の少女の死と共に風花と結びついた因果の絃糸が律する新たなる事象。

 大切な人の死が因果の基点とする風花の乖離調絃律《彼岸弓・参式【紫苑】》。

 後に、風花がそう名付けた。

 その由来は、


「私の名前は紫苑、遥彼(はるか)紫苑といいます」


 その人の名前そのものを採った。

 その事象は、周辺上空の時間を乖離する。

 この時は無意識であったが、風花は大気の気温を一気に二十度も下げ、五山の楓に季節を誤認させ、葉の色を朱に染め上げた。

 強く冷たい北風が吹いているのは、上空の大気が急激に冷え、それが影響範囲外の熱い空気とぶつかり合い不安定になっているためである。風向きは北から東へ変わり、さらには南の暖かい風に急激に変化した。

 突風は紅葉を散らし、真紅の葉は円を描くように吹き荒れる風に乗って、稟京全域に降り注いだ。

 空からハラハラと落ちてくる紅葉時雨は幻想的であり、現実感を失わせるほど美しく、どうしようもなく悲しい。


「みんなも潮のために、泣いてくれるのか」

 風花は暫く空を見上げ、無数に乱舞する紅葉の美しさに慰められつつ、涙を流す仲間達の顔を見る。

 桜子が風花の右肩に手を置き、ゆっくりと首を振る。

「風花、そんなことを聞かないでくれ。私達も、潮と同じ第五訓練中隊の仲間だ」

「そうだったな…一昨日みんなに教えてもらったのに、もう忘れたのかな」

「いいよ、蝶野を見てみろ」

「…え?」

 桜子が目線を向けた先にいた蝶野南水もまた皆と同じく涙を流し、蝶野自身も自分が涙を流している事に気がついた。

 何故? と動揺する蝶野に、風花が涙を拭いつつ、前に立った。


「蝶野、潮がいうには、そばにいる人が嬉しい時には共に喜び、悲しい時にはそれを分かち合うのが『仲間』というらしい。お前も、輪の中に入る事にしたんだな」

 言われてみれば、蝶野自身も驚くほど風花達の近くに立っている。普段なら輪の外から見ているだけなのに、何故か輪の中にいる。

 それにしても、この涙は一体?

「一緒にいた人が死んだら、悲しく思うのが自然だ」


 風花の言う事が、蝶野には腑に落ちない。一緒にいただけなら、監視対象兼操り人形役の唐綿市松の方が長くそばにくっついていた。

 すると、蝶野の考えている事を見抜いたかのように、風花は首を横に振った。


「時間も距離も関係ない。お前にとって、時詠潮は同じ第五訓練中隊の仲間だ」


 紅葉が一枚、蝶野の目の前に落ちてくる。

 紅葉と共に、風花の言葉が胸に落ちてくる。

 無表情の仮面に、涙が伝い、大地に落ちていく。

 そこに理屈はない。

 ただ、時詠潮のそばで真夏屋風花のように心を通わせたかったと、そう思った。

 風花は微笑み、ポンと蝶野の肩を叩く。

 それを合図かのように、美堂教官が近づいてきた。

「話は終ったな。()のお方が自身の使命を無事達成された事、誠に重畳である」

 美堂教官は一同を見渡し、いつもの怒号を響かせる。


「同じ仲間たる貴様らなら、気高き仲間の意思を汚すことなく、成すべき事を成せ!」

「はい!!」

「きゅ!」


 十七人と一匹は一斉に応えると、勢いよく踏み出し、駆け出した。



 四方暦七九〇年八月八日、ここに新たなる伝説が生まれた。


『真夏の紅葉伝説』。


 幼き藩主の首から迸る血が、真夏の稟京五山を紅葉せしめ、真紅の葉が稟京全域を覆い尽くす。

 この不可解な事象に、世間は色々と取り沙汰した。


 程なく、同時刻に時詠潮の切腹が行われた事が知られ、その罪の是非が再び問われた。

 その影響か、長鳴藩は一度取り潰しとなるが、同日に先代藩主の弟の娘、つまり潮の従姉が時の老中の次男を入り婿として迎えることで再興された。

 潮が守りたかった藩士やその家族、領民達も、変わらずそのままであった。

 潮は自らの命を使い、守りきった。


 そして、時が流れる事、数千年。

 桜濫の名も忘れ去られるほどの未来において、『真夏の紅葉伝説』は“遥彼紫苑”の名と共に語り継がれた。

 その伝説の中に、同時代を賑わせ、流星の如く駆け抜けた真夏屋風花の名は何処にも無い。

 ただ神の視点で語るなら、八月八日には『焼きそば定食』を食べる風習が根付き、定食には必ず生玉子と折鶴が一つ添えられていることに想いを馳せるのみである。




 第一章「向こう岸より来たりて」了

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