第九話「彼にとって『大事な事』」
■二日目、八月一日、〇七:一五
時間は巻き戻り、時詠潮の王下親衛訓練学校初日の早朝。
真夏屋風花は資料準備室にて、時詠潮と、潮を訓練校に連れてきた姉小路吹雪と相対していた。
「真夏屋、昨日の決闘は大儀であった。其方のお陰で、時詠殿の身柄を姉小路家で預かる事が出来た。少しバタバタしたが、時詠殿の体験入隊も上手く捻じ込めた」
「……」
風花は表情も無く、黙って会釈をするに留めた。吹雪も普段の朗らかな表情ではなく、淡々と続ける。
「時詠殿のご希望通り、其方にその世話役を任ずる。その任務詳細は、『時詠伯を八月八日に恙無く切腹せしめること』、以上だ」
一瞬であるが、風花の視線は吹雪の隣りに立つ潮へ走り、その上で吹雪のソレとぶつけた。
「承知しました、“獅子天秤”姉小路吹雪卿。万難を排し、結実の日を迎えます」
吹雪は頷き、隣りの潮も満足したように微笑んだ。
「そうそう、其方のいう『万難』の件だが、他の“獅子天秤”は諦めていないであろう。まさか校内で攫うような真似はしないとは思うから、出来るだけ中に閉じこもるよう--――」
「時詠潮伯には、外の空気を吸わせたいと思います」
風花は鋭く吹雪の言葉を遮り、吹雪と睨みあう体勢となった。
「……一応きくが、何故だ?」
「外の空気を吸うという事が、自身の世界を広げることだからです。閉じたままの世界を持った人間が、大勢の人間の頭たる大名の資格などありません」
「…一週間後には切腹をして果てる人間であってもか?」
「人の命なんて、今日にも果てるか、五十年後に果てるか判りません。それなら一日を大事にして、得られるものを得る事が大事な事です」
「その結果、時詠殿が攫われたりすることになってもか!?」
「オレがいる限り、絶対にそのようなことにはなりません!」
真っ直ぐと言い切る風花に、吹雪はわずかにたじろがせる気迫があった。吹雪が隣りの潮へ視線を下ろすと、自分を見上げる潮とまっすぐぶつかる。
吹雪は、潮の瞳に映す自分の姿に、負けを認めた。
「……その人にとって、何が大事かはそれぞれか。了解した、好きにせよ」
「ありがとうございます」
「ただし、時詠殿の切腹について、変更はないし、また変更があってはならない」
最後のセリフのみ、吹雪の水色の瞳が光る。
「外に出す事が時詠殿にとって『大切な事』ならば、それを懐いたまま、穏やかに死なせるよう、心してかかれ」
「「はい!」」
その返事は、風花と潮の二人が勢いよく応え、吹雪は普段の微笑みで二人を交互に見た。
■五日目、八月五日、〇六:〇〇
この日、朝から桜塚桜子の精神状態は最低であった。
正直、今日は何もしたくはなかったが、兵士は気分が乗らないからといって休める職種ではない。ノロノロと着替えて、部屋を出ようとして気がつく。
無意識の内に、風花達の部屋に行こうとしている事に。
今頃、隣の部屋では四十秒で支度をして、朝のランニングに向かおうとしているのか。
しかし、あの中に入る気が湧かず、結局ベッドに腰を下ろした。
訓練時間となり、今日もグラウンドを走らされる。トップを切るのは、いつもどおり風花と“G”の二人だ。二人の走る速さは別格である。あっという間に他の訓練兵を周回遅れにする。桜子から見て、二人はアイコンタクトをしながら並走しているように見える。
今、桜子の視線の先には、周回遅れの潮に何か声を掛けながら追い抜く二人を捉えている。その三人を遠目で見ていると、仲のいい家族のようにも見えて、何故だか空しさが込み上げてきた。
今更ながら、昨日襲い掛かってきた唐綿と蝶野が気になったが、右腕を折られた唐綿は休みであり、蝶野は何事もなかったかのように訓練に出ていた。
風花達は蝶野を見ても、何も言わなかったようである。
もっとも、桜子は確認したわけではないが。
その日、桜子は誰とも会話をしないまま夕方を迎えた。
周りも桜子を心配して声を掛けようとはしていたが、とてもそんな雰囲気ではなかった。
風花といえば、昨日クレハに原因の一端を担っていると言われ、彼なりに悩んでいた。とはいえ、元々、気軽に人に声を掛けられるような男ではない。彼のした事は、らしくもなくチラチラと桜子を見ているだけであった。
誰にとっても息苦しい時間が終わり、美堂教官より訓練終了を申し渡された途端に、第五訓練中隊の面々は食堂や自室に駆け出した。
■五日目、八月五日、一八:一五
この日の最後の訓練は馬場での騎乗であり、槍を持っての馬上戦や騎射を行うが、潮はまだ上手く馬に乗れず、風花がつきっきりで指導をしていた。
風花は馬が好きだ。眺めているだけでも楽しいし、乗るともっと楽しい。それだけに馬の世話は非常に丁寧である。この日もいつものように、ブラシで丁寧にマッサージをしていた。
「風花、馬がとても喜んでいるのが判ります」
「そうだろ? 馬との友情も丁寧に付き合えば自ずと出来上がる。そうなれば無敵だ」
馬にマッサージをしつつ嬉しそうに話す風花を、潮はひとしきり見詰めていたが、おもむろに切り出した。
「その気遣いで桜子に接する事が出来れば、桜子の気持ちも落ち着くとは思いませんか?」
風花の手が止まり、また動き出す。
「桜子は空回りする事があっても、一生懸命、風花の世話をしようとしています。それはおせっかいな事がほとんどですが、桜子の頑張りはみんなが認めています」
「………」
「風花が歩み寄るべきです」
いきなりの結論に、風花は驚いて振り返る。
「いきなりの断定だな。オレが何もしていないと?」
「事実です」
ピシャリと言い切る潮に、風花は目を逸らす。言うか言うまいか悩んでいるようだったが、ついに話し出した。
「……そうだな。だが潮、昨日も言ったが、オレは知っての通り平民以下の出身だ。ここにいるのも…まあ、お前は知っているから言うけど、乖離調絃律士の希少価値もあって、幕府の隠密として雇われているだけだ」
絃律士の主な系統で三つあるが、絃律士の九割が邂逅調である。特に乖離調は少ない。
その理由として、概念や理に介入する乖離調絃律士は「この世の理の外」、理外の力を行使するからである。
風花の力は、端的に言えば『瞬間移動』である。邂逅調にも『瞬間移動』あるにはある。ただ『瞬間移動』は絃律士でも高度な力であり、邂逅調の『瞬間移動』は風花のものに比べて限定的である。風花の『瞬間移動』は一人につき一度だけと限定されているが、逆に言えば誰にでも一回は使える力とも言える。例えば戦場でこの力を使えば、神出鬼没の奇襲攻撃が可能となり、敵に大打撃を与えられるであろう。
風花が雇われた事情は別にして、絃律士としては非常にレアで便利なだけに、雇い主も校内で連絡をつけられる状態にして、風花への便宜が図られている。
「そんなオレがアイツらと顔を合わせたりすること自体がイレギュラーだ。ここを出たら、進む道は確実に別れる。その上、身分に開きがある。にもかかわらず、桜子と付き合ったりして子供が出来たりすれば、桜子にも生まれた子供にもオレの事で迷惑がかかるだろ」
いきなり子供が出来るとか話が飛び、潮は笑い出しそうになった。
「そこまで考えているのなら、何故そう言ってあげられないのですか?」
「何?」
「風花は風花なりに桜子さん達の事を考えている。でもそれを口にしなければ、昨日みたいにすれ違います」
「そんな事いってどうする? かえって余所余所しくなるだけだ」
「違います。言葉を尽くして自分の気持ちを伝える事と、気を回して黙って気持ちを察してもらう事は天地ほど離れています」
痛いところを衝かれて、風花は沈黙する。本当に六歳児かと言いたくなる。
「風花が誰かを好きになってはいけない事はありません。また好かれて悪いこともありません。昨日の“G”へのお返事もどうするつもりですか?」
「あいつには昨日言ったとおりだ。卒業まで保留した。その頃には別の男と上手くいっているかもしれない…」
「ありえません。同じ部屋で暮らしているのなら、“G”の性格は解っているはずです」
風花はぐうの音も出ない。
「“G”はああいった性格なので誤解されますが、その本質は乙女です」
「“G”が乙女!?」
驚く風花を、潮はむしろ悲しげな目で見返した。
「貴方がそう思いたがる気持ちも解ります。ですが“G”の淡々としたプロポーズに、“G”の激情と断られるかもしれない恐れを汲み上げてあげられない風花は、武士の風下です」
「オレは武士じゃない!」
「そうですね、武士ではありません。女の気持ちを弄ぶ外道です」
「……なんだと」
真夏の夕暮れにもかかわらず、底冷えするような声が風花から漏れる。
しかし、潮には通じなかった。
「風花、気持ちを託す相手なくして、その歩みを進める意味はないのです。託すもの、託されるもの、言葉によってのみ確認しあう事が出来ます」
「オレには託されたものなど、何も無い」
「それは、嘘です」
「どうしてだ?」
「その言葉を、貴方の大切な人達に言えるのですか?」
「な、なんだと?」
「今の風花を、貴方の妹様や弟様にお見せ出来るのですか?」
今度こそ驚愕した。何故、その事を………。
「それとも二人は、風花に独りきりでいることを望んでいるのですか?」
そして、風花は激昂した。
「お前に、オレの妹弟の事を言われたくない!ならお前はどうなんだ!会ったこともない双子の兄に代わり、父親の不始末を命じられ、四日後には腹を切って死ぬ。お前は誰に、何を託したというんだ!」
潮は悲しそうに風花を見る。潮の託したい人、託したい物。いずれも決まっている。しかし、それは怒る風花には伝わらないだろう。それでも言うべきか迷っていると、
「く、く、く、く………」
嫌な笑い声が聞こえてきた。その声は我慢しようとしているが、笑いが堪えきれない、そんな笑い方だった。風花と潮が周囲を見渡しても、どこにも姿が見えなかったし、風花の《鏡見》にも気配を察知出来なかったが、
「はははははは!」
笑い声が高まるにつれ、《鏡見》の探知が何もない一箇所を示していた。
「そこだ!」
ブラシを投げつけると、一人の男がブラシをはじきつつ、突如として姿を現した。
「聞いたぞ、真夏屋ぁ!」
「唐綿!」
姿を現した男は、右腕を三角巾で吊るした唐綿市松であった。
「そこにいる『時詠潮』は偽者だな! ありがとよ真夏屋。お前に張り付いて大正解だったぜ!」
「姿隠しと気配隠蔽の絃律士だったのか。陰険なお前の性格にぴったりだな」
絃律士としての力は「人生の結果」や「本質的な才能」を認識する事により発現する。
唐綿の場合、常に相手の秘密を握る場所にいたいと願う気持ちが因果となり発現した。
その名も邂逅調絃律《覗き見る不可視の脅迫者》。
それは自らの姿と気配を消し去る能力。
声を出す、相手に触れる、歩く以上の速度で動く、攻撃態勢をとると解除されるが、ゆっくりとは歩けるので諜報活動にピッタリな能力である。が、大名には必要の無い能力であり、その意味でも大名たる器ではないと言える。
「どこに行ったのかと思えば、一日中オレにくっついていたのか。ご苦労なことで」
トイレにもついてきたのかと思うと気色が悪い。もう、さっさと斬り捨てるに限る。訓練後につき、風花は脇差しか持っていなかったが、構わず抜刀すると間合いを詰める。
「おおっと、こっちにくるなよ、南水!」
次の瞬間、風花の足元に薄い影が走り、影はちょうど唐綿の手前で止まった。
「そうか、コイツがいるなら、その腰巾着がいてもおかしくないな」
「南水の結界から出れば存在が消えてなくなるぞ。出たければ南水を先に倒すんだな」
唐綿はせせら笑うと、身を翻して走り出した。
「南水、死んでもそいつらを、そこから出すな!」
いつものように南水に言い捨て、唐綿が視界から消えていく。
「唐綿さん! 待ってください!」
「馬鹿野郎! 誰が待つか、まがい物風情が!」
風花はその姿を歯軋りしながら見送り、殺気を込めた目で蝶野に振り返った。
「蝶野、お前はなんであんなのを取巻いているんだ? なんか脅迫でもされているのか?」
「…………」
腹立たしい事に蝶野は何も反応を示さない。武器も持たず、ただ立っているだけである。
「まあ、なんでもいい。すぐに悲鳴を上げさせてやる」
「……風花」
心配そうな潮を尻目に、風花は蝶野に向かう。
唐綿は呼び止める門番を無視して門を抜け、街へ走る。
走るたびに折れた右腕に響くが、今はそれが心地いい。
昨日は屈辱と共に右腕の痛みに呻いていたが、それもこれも、この時のためである。唐綿は走りながら、得た情報は誰に売るべきか計算していた。昨日の様子では北辰は当てにならない。やはり親類の大名達であろう。
桜濫幕府は開府より二百年経過し、様々な不満が噴出して揺れ動いている。それだけに闇でいくつもの陰謀が動いているが、今回の「長鳴藩反乱未遂事件」も不満が形になろうとした一つである。
大名達は戦乱を望んでいる。獅子王戦争が終って十年。疲弊した各藩も力を取り戻し、武士本来の仕事たる「戦争による恩賞」を狙っているのだ。戦争がなく、外の領地を得られないのなら、中の大名を蹴落としてその領地を奪い取る。そう考えている大名も多い。
唐綿家が取り潰されたのも、全く同じ事情である。隙を見せれば、忽ち潰される。その事は、四年前、当時十二歳であった唐綿市松少年に強烈なトラウマを植え付け、少年は自分達がやられたように、他者の領地を奪い取る事を誓った。
「はは、これで領地を取り戻せる。俺の手柄だ。俺が大名だ。全部俺の物だ。もう、誰にも触らせねぇ。俺が、俺が、俺が」
彼とて、始めから陰険な性格だったわけではない。しかし、それまで大大名としてもてはやされていた自分が、家が潰れたとたんに誰も見向きもしなくなったことが、純粋無邪気な性格だった少年を、真逆の性格に変えてしまったのである。
千を超える家臣たちが、上座にいる自分に向かって一斉に平伏する光景。それが唐綿市松にとって、栄光の瞬間。
その夢に恍惚となりながら、多くの人とぶつかり、突き飛ばし、罵声を浴びせられ、あやうく通りがかりの武士に斬られそうになりながら、全力で走り続けた。
唐綿市松、一生に一度の全力疾走であり、流す汗は努力の結晶であった。
しかし、天も人も、唐綿市松という存在を許しはしなかった。
薄暗い蔵が密集している道の向こう側に、すでに脇差を抜刀している風花が立っていた。
「な、なんでお前がここに!」
真夏屋が南水を倒して、追いかけてきたのだろうが、それにしても早すぎる。例の『瞬間移動』だろうか。
この薄暗い区画は人通りが極端に少ない。唐綿は普段通らない場所なのだが、そのような場所を抜けようとしたのは、心に後ろ暗いところがあり、明るく人の多いところを無意識に忌避したためであろうか。
それよりも、唐綿は身の安全を図らなければならない。
走る勢いのまま、たまたま左側にあった横道に入る。
必ず逃げ切り、必ず大名になってみせる。そのために、人間性も捨ててきたのだ。
しかし、唐綿の足は唐突に止まった。
「う、なんで…なんでアンタがここに」
この横道は路地であり、行き止まりであった。
行き止まりの終点に、北辰若狭守薫が佇んでいた。
「やあ、待っていたよ…というほどでもないがね。其方の足が速くて良かった」
むしろ北辰はニッコリ笑う。
「なんで、こんな処に……」
息を切らせ、汗を流しながら問う唐綿に、北辰は事も無げにいう。
「なんてことない。私の流蝉騎士団には異様に視力がいいのがいてね、其方の動きをチェックし、恐らく最後はここに来るであろうと予測をして待っていたのだよ」
「ま、真夏屋と手を組んだのか」
唐綿がそう考えたのも無理はない。風花は予測していたかのように、道に立っていた。
「違うね。彼は自力であの場に辿り着いた。いや、私も驚いたよ。あれが『この世の理の外にある』乖離調絃律士たる所以だろうね。ただね、我々絃律士は因果を世界に介入させて、望む事象を齎す存在だ。それだけにどうしようもなく定められた道、いわゆる『運命』には逆らえない。其方は運命の袋小路にはまり、終焉地たるこの行き止まりの路地に辿り着いたのだよ」
ちょうどその時、風花はゆっくりと通りから路地に入り、北辰を目に留めて少し足を止めたが、またゆっくりと近づいてきた。
「ほ、北辰殿。俺は時詠潮の重大な秘密を知った。この情報は非常に高く売れる。長鳴藩を手に入れられるほどにでかい。それを買ってくれ」
後ろを気にしつつ、早口でまくし立てるが、北辰はあっさりと首を振った。
「いらないよ」
「何故だ!」
「私の目的は長鳴藩ではない。あくまで時詠潮殿だ。それ以外には興味ない」
「そ、そんな…」
「それに私は“獅子天秤”だ。その器の無い者を、人の頭にすることを許しはしない」
それを聞いて、唐綿は肩を振るわせる。
「は、始めから、始めから俺を嵌めてたんだな!俺はあんたにいいように踊らされただけだったんだ!あんたに、俺の存在価値はそれだけだったのか!?」
気がつけば泣いていた。唐綿は四年ぶりに泣いていた。四年分の溜め込んだ涙が、悲痛な叫びと共に迸る。
「価値などいくらでも変動する。其方がそうだと思ったのなら、きっとそうなのであろう」
北辰は素っ気ない。その素っ気無さが、唐綿に下された価値と、下された本人も悟った。
「唐綿」
号泣する少年の背後から、どこまでも憎たらしい男が呼びかける。
「……真夏屋風花」
涙を流しながら振り返る唐綿は、最後の虚勢を張る。
「ここまでくるとは、下賤な輩は鼻が利くな。南水は殺したのか?」
風花は自分の後ろを顎でしゃくってみせた。そこには、
「な、南水!」
唐綿にとっての便利な駒が、いつも通りの無表情のままで立っていた。
「ど、どうしてここに? いや、いるなら今すぐ真夏屋を殺せ!」
すると、奇妙な沈黙が暗い路地を包んだ。
「ど、どうした?何故やらない?」
唐綿を取り囲む三人から醸しだされる雰囲気は、まるで空気を読めない男を憐れんでいるようであり、唐綿はひたすら動揺した。
答えは、風花が出した。
「唐綿、オレがここまでこれたのは、蝶野があの後すぐに結界を解除したからだ」
唐綿は愕然とし、蝶野を睨んだ。睨まれた相手は、やはり無表情のまま。
「…………何故だ、南水……お前は、俺の仲間じゃ―」
「違う」
蝶野は静かであったがハッキリと、それも切り捨てるような調子で言った。
思えば、風花は初めて蝶野の声を聞いた気がする。
「私は北辰若狭守様の流蝉騎士団が一人。私の任務は王下親衛訓練学校の内偵。貴公に取り入ったのは、貴公が目立つ存在であり、隠れ蓑には最適であったからだ」
唐綿は全てを悟った。
なんてことは無い。誰も唐綿に価値など見出していなかった。
その存在理由は、ただ利用できる駒でしかなかった。駒のように扱っていた蝶野は、その実、唐綿を持ち駒として取っておいただけであった。
「時詠様を手に入れられなかった時点で、唐綿市松という駒は存在意義を喪った。盤上で大人しく動かなければそのままだったが、駒が意図に反して動くならば排除せざるを得ない」
蝶野はどこまでも淡々としていた。その声は、これまで散々好きに扱われた恨みを孕んでいるわけではない。ただ事実のみを告げる、最も無慈悲な言葉の剣であった。
「はは……俺も大した道化ぶりだな。だが、ここで絶対に死なないぞ。家の再興は我が一族の悲願。今も貧困にあえいでいる母や妹達のためにも、この場を凌ぎ、時詠を使って返り咲いてやる!」
唐綿は高らかに宣言すると、自らの邂逅調絃律《覗き見る不可視の脅迫者》を発動し、姿と気配を絶つ。
「むっ!?」
風花は唐綿のいたあたりを切り払ってみたが、空を切るだけであった。
「そんなには早く移動できるわけが無い。出来るなら姿を消しながら走っていたはずだ」
自分に言い聞かせるように呟くが、風花の《鏡見》にも察知できない。
すると、北辰が奥から近づいてきた。
「心配は無用。私の介入させる因果は、確実に彼の者を殺す」
歩きつつ、北辰は刀の鯉口を切る。
「わかるのか? あいつの居場所が」
「いや、わからない」
一瞬、からかわれているのかと思った。
「しかし、何処にいようとも問題ない。何故なら……」
転瞬!
風花とその後ろの蝶野の脇を駆け抜け、居合いを抜いた!
「ぎゃぁ!」
何もない空間から血飛沫と悲鳴があがり、遅れてその主が姿を現し、前のめりに倒れた。
「これが我が邂逅調絃律《必殺必死ノ抜刀》。対象を必ず斬り殺す因果を齎す」
風花は瞠目する。北辰の居合い斬りにも驚いたが、探知もせずに、探知以上の効果を発揮するその力には脅威を覚えた。
斬られた唐綿は、最後の力を振り絞って地面を這いずっていた。這った後には、背中から流れる大量の血が痕を残す。
「……死にたくない…こんなところで死にたくない。ここで死ねば、一体俺は何のために生まれてきたんだ……」
斬られた苦痛と屈辱、裏切られた傷心と、数々の後悔。
その全てが血と涙と共に零れ落ちる。
風花も北辰も蝶野も、黙って何の価値も見出されず、死に逝く者の断末魔を聞いていた。
「…こんな事なら、何もしなければよかった…生まれてこなければよかった…・・なんで俺は、今ここに存在するのだろう……」
蝶野は黙ったまま自身の能力たる拒絶調絃律《俯瞰し座視する存在領域》を展開し、その有効範囲を、地面を這いずる唐綿の手前に設定した。
それに気づいた唐綿は動きを止め、倒れたまま視線を蝶野に向けた。
「……………」
蝶野はやはり無表情で無言。
時間にして五秒ほどであったが、唐綿はまた前を向き、地面を這いずる。
五センチ、十センチと、少しずつ、血の痕を残しながら前に進む。
そして、身体の全てが結界から出た時、唐綿の姿が薄くなり、
そして…………………………………………消えた。
「唐綿……」
風花は呟くが、特に悼みを覚えたわけではない。言ってしまえば嫌いな男である。しかし、相容れない性格ではあったが、彼なりに一生懸命であったことだけは認めた。
初めて合った時は食堂でいきなり絡まれ、せっかく無視していたのにしつこかったので殴り飛ばしてやり………、
「…オレは、誰を殴ったんだ?」
突然、記憶が薄れてきたのを感じる。
「食堂で……そうだ、あの男……から、唐松? …いや、違う!唐綿だ!」
ようやく記憶が甦ってきた。
「ほう、驚いたぞ。消えた存在を覚えているのか。やはり乖離調絃律士は侮れないな」
北辰は感心したように言う。
「消えた存在?」
風花は地面にあった唐綿の血の痕が、徐々に消えていくのを見た。
「そうか、『消える』というのは存在そのもの、記憶も何もかも消えてなくなるのか」
「ご明察。蝶野南水の結界は存在の揺らぎを生み出し、因果の大本を“拒絶”する。私も先程の男の名を思い出すことは出来ないし、あと数日もすれば存在そのものを忘れる」
「始めから『いなかった』事になるのか」
「左様。彼の者に関連する所有物も、名簿から名前も、何もかも消えてなくなり、何故かそこだけが空白と成る」
風花は滔々と語る北辰に舌打ちをすると、今度は蝶野を睨みつけた。
「蝶野、お前にも思うところはあるだろうが、曲がりなりにも三年以上そばにいた男だ。それでも何も感じないのか」
「思うところなど無い。あの男の存在価値は隠れ蓑としてのみ。その価値も無くなった今、ただそばにいただけで、価値を見出せるはずもない」
蝶野の眼はどこまでも醒めきっており、風花は言い知れない怒りが湧いてくる。
「真夏屋風花」
「なんだ」
「何故そんなに怒る? お前なら私の言葉を受け入れられると思うが」
「……どの部分で見込まれたんだ?」
「お前を慕う桜塚や“G”に対し、お前は二人に何の感情も懐かない。好きでもなく嫌いでもない。そんなお前は、この私と考えを同じくするのではないか?」
「……なんだと」
「いや、ある意味、お前も消えたあの男と同じだ。自分の都合のみで動き、お前に想いをかける二人を斟酌しないし、出来ない」
風花は物言わず居合抜刀し蝶野を斬りつけたが、あっさりと北辰に止められた。
「そこまでだ、真夏屋風花」
北辰は、全力で押しきろうとする風花の太刀を完全に押さえ、弾き飛ばした。
「その反応を見るに、其方も自覚はあるようだな」
北辰は冴えた音を鳴らしつつ納刀し、蝶野を連れて歩き出す。
「自身の始末もつけられない男に、時詠伯を守る資格など無いし、また怖れるに足らず。今のままでは、時詠伯も其方に納得も満足もしないであろう」
風花は怒りのまま、背中から襲い掛かりたかったが、北辰も蝶野も歯牙にもかけない態度に、それが出来なかった。
「其方は手を引くべきだ」
北辰は最後にそれだけを言い置き、灯りの燈る通りに消えた。
行き止まりの路地には、敗北感に塗れた少年が独り、残された。




