八、
不思議と、いくさは突然起こる。
本来なら人馬が群れ集い、陣を敷く間があるはずなのに、地獄では、なんの前触れもなくいきなりいくさ場のど真ん中に放り出される。
三度ほど同じようにいくさへ巻き込まれて、右之介はなにやら悟ったように思えた。
案内役のゆうは困惑顔で「いつもはこんなことないの」と弁解していたが、崖が崩れていたり川が氾濫していたりで、迂回するうちにいつの間にかいくさとぶつかるのは、巧妙な罠に似ていて、娘のゆうでは回避しきれないのもわかる。
「俺がいくさに取り付かれているのだ」
気にするなというつもりで言った。
ゆうが今まていくさを回避してきたのは、ゆうがゆうであるからだろう。そして、右之介が右之介であるためにいくさに巻き込まれる。
論理的帰結とはお世辞にも言えないが、ここは地獄なのだ、と右之介は強引に納得して、苦々しく笑うしかなかった。
よほど俺に人を斬らせたいらしいな、と。
もうすぐ海岸へ出る、とゆうが告げた途端に、いくさ場の真っ只中に入り込んでしまった。林道を騎馬が駆け、長槍を立てた足軽が走っていく。
右之介に気付いた騎馬武者が、一騎駆けてきた。名のある武士らしく、全身から爆発したような凄まじい気迫を散じていた。
舌打ちして刀をかまえた右之介が、武者の槍の届く直前に気魂を咽喉奥から発した。それは空気を切り裂く声となって相手を一撃し、殺気をひるませ、馬を棹立ちにさせた。
瞬間、馬の首をくぐって相手の左側へ出ると、反撃するいとまを与えず、体を伸び上げるようにして、武者の脇と咽喉とを刺し貫いていた。
この馬に乗って逃げる、という常識的発想が頭をよぎってから、右之介は苦笑した。地獄では乗り主を失った馬は消える。
どうする。右之介は唸った。このいくさに巻き込まれて死ねば、またあの蜘蛛の巣からの再出発だ。それはごめんこうむる。
しかし、鎧一つ持たず刀一本で、おまけに女の足に合わせて駆けたのでは、いずれ混戦に巻き込まれて運がなければ命を落とす。それに、混戦になれば、なにが災いしてゆうの方が命を落とすか知れない。すでに三度、そうして振り出しに戻っている。
「あっち」ゆうが森の中を指差した。「もうすぐ、浜。一人で、行って」
「お前は」
「足手まといになる。後から追うわ。誰にも見えないんだもの、あたしは大丈夫」
大丈夫と言いながら、血の気の引いた彼女の顔には不安が覗いていた。長く一人だけの彷徨をしていたゆうには、一時の孤独も恐怖の対象たるのだろう。
「立ちふさがる者は斬り伏せて行けばいい」
だいぶ合戦の勘を取り戻してきた。そうそう無様な死に方はすまい。
ゆうはかぶりを振った。
「また死んだら、一から出直し。あたしは、一歩でも先に進みたい」
右之介とごずとの出会いに、彼女にはなにかしら賭けるものがあるのかもしれない、必死の顔だった。
「わかった。できれば安全な場所を選んで来い」
右之介がちょっと彼女を気遣うと、ゆうはなぜか不思議そうな顔をする。それが気に入らなくて、荒々しく走り出し、と、右之介は立ち止まって振り返った。
「本当に平気か」
彼女はしばらく右之介を見つめていた。笑みが静かに表情へしみわたっていって、ゆうはゆっくりうなずいた。
「心配してくれるひとがいる、だから、平気」
その答えを聞いてから、右之介は脱兎のごとく駆け出した。
松林の向こうに黒々とした海が見える。潮の香りが鼻腔をくすぐり、覚えていないはずなのに、懐かしさが胸にこみ上げてきて、足をさらに速めた。
最後の松と松の間を飛び出して数歩跳び、背後を振り返って身構える。
さきほどまで追ってきていた人影は、もういなかった。
あらためて、右之介は周囲を見回した。
右手には峻険な崖が遠望でき、左手は海岸線が弧を描いて木々の向こうへ消えている。浜はそれほど広くはなく、寄せては返す海水に足をひたして、まず広いと思った。
海原を押し潰すかのような漆黒の天の下で、なぜか水平線まで見渡せる。視界いっぱいの黒い空と黒い海。黒にもいろいろあるらしい。
塩辛い海水をなめると、むしょうに体が震えた。
知っている。記憶にはないが、体が覚えている。この潮を。
もう一度舐めてから、あ、と右之介は目的を思い出して声をあげた。
ごず捜索。海水を舐めている場合ではない。
まずなにから手をつけるか、と首をひねった時、右之介は愕然とした。
なにをどうすればいいのかわからない。
なんとかなるだろう、と簡単に思っていたが、いざ実際に探す段になると、これが容易なことでないことが実感できた。手がかりが少なすぎる。正確には手がかりなんてない。
しばらく考えた末に、右之介は決断した。
歩こう。歩いていれば、いつかはたどり着く。
右之介の思考はたいていしごく単純だ。
左側へ向かうことにして、ゆうへ知らせるために地面へ印を書き、さあ行こう、と歩き出して、すぐだった。
地獄は時にやさしい配慮らしきものを見せる。たとえば、案内役以上の存在になりつつあるゆうとの出会い。
ゆうとの出会いを、滅多にない幸運、と今まで考えてきた。だが、幸運が二度続けば、地獄での人の離合は運で片付くものではなく、何者かの意思が働いているのではないかと、勘繰りたくもなる。右之介には理解できない、天の気まぐれだろうか。
牛が、木々の間から出てきた。
馬がいるのだから、牛がいたって不思議ではない。だが、なぜ、その尻へ男が後ろ向きに座っているのだろう。
あるいは、たくみにいくさを配置する罠に似て、人との出会いも罠なのかもしれない。右之介は少し警戒しながら、男へ声をかけた。
「ごず、殿と見受けるが」
もとは僧形の体裁を保っていたであろう僧衣は、今ではあちこちが裂け、汚れた端布がかろうじて体を隠している、という有様だ。のそり、と振り返る男の動きは緩慢で、牛より鈍重に見える。
「殿はいらぬよ。ごず、ごず」
にこにこ笑っている。右手には笛、左手はたわむれるように牛の尻尾を追いかけていた。
「おぬしは」
「名はない」
「死にたてで名もないか」
ごずは声をあげて笑った。それは嘲るというより、ひどくやさしげな笑い声だった。
牛の尻に腰かけ、尻尾とたわむれ、いかにも狂人のような振る舞いだが、その笑い声には狂気の色はみじんもなく、右之介は安堵の気持ちを抱いた。地獄で始めてまともな男に出会えたような気がする。どこか、品格とも呼べる匂いがごずにはあった。
「なに、じごくでは名などなくとも生きていける。わしの、ごず、も誰かが勝手につけた名だ」
「なぜ、ごず」
「字面でな、牛の、なんとかと書いてごずと読む。わしの住処は、見ての通りこいつの尻だ」
牛をぺちんぺちんと叩くと、牛は首を振りながら抗議するように長く鳴いた。
「昔は、ごずてん、と呼ばれておった。そいつが縮まって、ごず。わしのような気違いに、立派な名などいらぬよ」
けらけらと、底抜けに明るい笑い声をあげる。ゆうでも、ここまで天真爛漫な笑顔は見せない。
「坊の噂を、聞いたのだが」
「ほう、誰に」
「女に」ごずには見えない女に。「じごくについて詳しい男だ、と」
ふ、とごずの顔から笑みが消え、代わりに悲しみがその目を差した。おなごか。つぶやき、ごずはその目で周囲を見回す。
「ここにもおなごがおる。ぎょうさんおる」
「坊にしか見えぬ女か」
「いや、わしにも見えぬ」
出会って初めて、右之介はごずの正気を疑った。
「見えぬのに、なぜ、わかる」
「見えぬし、聞こえぬ。だが、感じる。悲しい苦しいと訴える声を感じるのよ。
おぬしのおなごも、今このように、この牛とわしとについてきているおなごのように、わしのそばにいたのだろう」
「よくわかるものだ」
「海は美しいの」
突然話が変わって、右之介はうんと言葉を詰まらせた。
「おなごたち、わしにはおぬしらが見えぬ、聞こえぬ、何一つ願いを叶えてやることができぬ。せめて、海を眺めて時の過ぎるのを忘れよ」
やおら笛を口に当て、やわらかく、ごずは息を吹きかけた。
すうッという空気の抜ける音。
笛は鳴らず、しかし頭の中には美しい音色が聞こえるのか、ごずはうっとりとした表情で体を左右に振っていた。
ここは地獄なのだ。右之介は心中つぶやいた。まともな者がいるはずはない。