七、
ゆうはずいぶん長いこと泣いていた。
梢を背に地面へ座り、自分の膝の上で丸くなる少女とも女ともつかない娘。右之介は想像してみる。妹がいればこんな感じなのだろうか、子供ができたらこんな気持ちになるのだろうか。
「おかしな話だな」
泣きやんだ頃合を見計らって、右之介はつぶやくように言った。なにか話でもしていないと、間が持たない。
「お前はじごくには似合わぬ。俺と違ってそうそう悪業を背負えそうもない。いったいなにをやらかしたんだ」
少し、間があった。沈黙が、右之介の脳髄を針でちくちく刺す。
「ひどく気になることがあるの。心残りっていうのか。
気になって気になってしかたがないのに、いったい、なにがそんなに気になるのか、わからない。心の中のすぐそこ、手の届きそうなところにあるはずなのに。
そんなもどかしさ、わかる」
「わかるな」
死ねない理由。けして死んではならない、と強固な決意をするに足る理由。あるはずなのに、思い出せない大事なこと。
「苛立たしいものだ」
「苛立ちなんて、通り越してしまってる。
早く気付かないといけないの。一刻でも早く、一瞬でも。それがわかるのに、気ばかり焦って、肝心の心に残っているなにかがわからない。
たしかにある、それだけは確かなのに」
「それで、つまり成仏しそこねたわけか。あるいは、その気がかりこそが忘れている悪業かもしれぬ」
「たぶん」
そういうものだろうか、と考えて、地獄だからなんでもありだな、と右之介は納得した。
また沈黙が針の山を引き連れて降りてきた。右之介にとっては拷問に近い。
どういうわけか、時には黙れと言ってもおしゃべりを止めないやかましい女が、ちっとも口を開いてくれない。沈黙に苦しめられている右之介を知って、さっきの仕返しをしているのだ、と彼は思った。
「親は」
考えに考えて出た話題がそれだった。
「覚えてない」
「兄弟もか。夫は」
「知らない。あなたは。親とか兄弟とか」
「覚えておらぬ」
「奥さんはいたの」
「知らぬ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「む」
突然、辺りに鳴り響いた轟音に、右之介が反射的に体を起こした。
膝の上から転がり落ちたゆうは、しかし非難の色もなく不安げに表情を曇らせる。
「近いのじゃない」
「近い」
鉄砲の音だ。生前からこの音に慣れ親しんできた右之介のみならず、ゆうもその意味を即座に理解したらしい。
「やこはいくさ場とは離れて暮らしているのだろう」
「あそこから、方角も見ないで、登ったり降りたりずんずん進んでいくのだもの」
右之介を見上げるすねたような顔。
「ここがどこか、あたしにもわからないわ」
「たいした案内役だ」
野戦にしろ攻城戦にしろ、ほとんど鉄砲同士の打ち合いから始まるものだ。それから、弓、突撃と射程距離に合わせて続く。もっともそれは、定石という名の最も多い型にすぎない。利用できるあらゆる武器道具を駆使し、考えられるあらゆる作戦行動をおこなうのだから、実際にはもっと複雑で精妙、時に粗雑にもなる。ただ、鉄砲の音が聞こえたら、間違いなくいくさが始まるものだ。
音から遠ざかろうと、楓や杉の間を縫っていく。地面は徐々にのぼり調子になり、その傾斜もすぐに激しくなった。女の足で急ぎ登るには急だ。
舌打ちして方向転換をした右之介を、ゆうが必死になって追っていく。
「あの山、見覚えがある」
少し開けた場所で四囲を見回したゆうが、悲鳴のような声をあげた。「あの山」
「ここがどこだかわかるか」
「逃げないと、駄目」
「なに」
その時には、鬨の声が意外と間近に聞こえていた。上から、おそらくは山の上だろう、叫び声と進退を支持する太鼓が響いてくる。人の声もさることながら、鼓の音も激しい。
逃げる間もなく、ちらほらと足軽たちが見え始めた。と思うやすぐに、真っ黒い人の群れが鉄砲水のように駆け下ってきていた。
右之介は刀を抜いた。なんとかゆうの姿を視界に捉えながら、何人かの雑兵をあしらっていく。
気が付くと、隘路に飛び出ていた。
「おにむさし」
ゆうの悲鳴と蹄の音が交差した。
振り返った時、黒い柄の豪槍が右之介の胸板を貫いていた。
最後の感覚が、傷口を押さえるゆうの手のあたたかさを教えてくれた。
その女を、右之介は知っている。親しい間柄の女だ。
なにか言っているが、聞こえない。それとも覚えていないのか。
右の肩から始まる深い傷は脾臓にまで達していた。もはや助かるまい。だと言うのに、右之介は、女の着衣の衿を広げ、乳房の上へ脇差しをさかしらに向けている。
とどめを刺そうというのか。
肉に埋もれていく鋼に、鮮血と、肌を濡らした水滴が映っていた。
最期の痙攣が、刀と腕とを通して心にまで届いた。
そうだ。
目を覚ました右之介はまず思った。
最期の痙攣の感触が、手のひらに甦る。愛していた妻を刺した、その感触。
そう、愛していた。妻のために、けして死なぬと決意した。どんな激戦でも生き残り、いかな窮地をも脱したのは、ただ、妻を泣かせたくなかったからだ。なのに。
やこと同じことをしていた。
違う違うと懸命に自分へ言い聞かせていた。あんな小男とは違うと。だが、同じだった。
あの時に感じた激怒は、いつわりだったのか。下郎と同じであることを否定するための、己れの心へ向けた擬態だったのか。
ここは地獄なのだ。右之介はあらためて思う。地獄に落ちる者は、地獄へ落ちるだけの理由を持っている。俺は、妻を殺したのだ。
これが絶望感というものか。怒りとか悲しみではない。苦しさもない。自分のすべてを呪いたいと思った。
誰かが声をかけている。静かにしてくれ、眠りたい。
しばらく我慢してから、右之介はゆっくり起き上がった。目の前に座っているゆうが、泣きそうな顔でなにか言っている。この女も、なにがしかの罪業を背負っているのだろう。
「ゆう」
声をかけると、ゆうは怒りの表情で右之介の足を叩いた。
「ばかッ、なんですぐに反応しないの。あたしが見えなくなったのかと思った」
言われて、ようやくゆうの不安を思い出し、自分の迂闊さも呪った。忘れぬと言っておいて、これだ。
「すまぬ」
「しらない」
「悪かった」
右之介は、謝るとなるとまっすぐ謝ることしか知らない。
相手は言い訳を聞きたいのかもしれない、埋め合わせがほしいのかもしれない、上手になだめてほしいのかもしれない。そんな考え、今の彼の頭の中には一切ない。
「悪かった」
「もういい」
「それにしても早いな、ここに来るのが」
彼でも誤魔化すという単語は知っていた。
「あのいくさ場は近いのか」
「あたしも死んだの」
と、ゆうは恐ろしいことをさらりと言ってのける。
「あそこから走ってくるより、その方が早いから、なのに・・・・・・」
恨めしそうに右之介を睨んだゆうの表情が、ちょっと変わった。
「どうしたの、平気」
「なにがだ」
「目が虚ろ。どうしたの」
「なんでもない」
もの学びしない蝶を恒例のごとく蜘蛛の巣から解き放ち、それで、とゆうは右之介を見上げた。
「ぼさつを探しに行くの」
今後の行動を宣言したようにも、質問してきたようにも聞こえた。
ぼさつ。地獄の亡者を救う者。
右之介は自分に尋ねる。お前は、救われたいか。
答えた。否。
だが、目の前に救いを求めている一対の黒い瞳がある。大きな目、長いまつげ、形のいい眉、小ぶりな鼻、唇にはまだ幼さが残り、耳たぶは大きい。顎の尖っているのは難点だ。髪のつやは若さだろうか。
ぼさつに会う理由はある。価値もある。ゆうのおかした罪がなにか知らないが、彼女の魂はもう救われてもいいはずだ。
「やこ以外で、ぼさつの話をする者はいるのか」
おにばらいにでたらめを教えた人物の言うこと、どこまで信用できるのか。
「いるわ」
「会おう」
即座に決めた。
「でも、居場所がわからないの。ぼさつを知っていて、一箇所にとどまっているのは、やこだけ」
「探せばいい。この二本の足で行けぬところはない。時間はいくらでもある。そのうち見つかる」
ごず、という名の雲水がいるという。
常に牛の尻に後ろ向きで座り、時に古風な笛を吹くそうだ。いくさ場だろうがかまいもせずに、行き先は牛の足まかせ、いつもにこにこ笑いながら揺られているらしい。その笑顔に癒されるような気がして、ゆうはしばらく彼の後を追っていたのだそうだ。
「もしかしたら、この人なら、いつかあたしのことを見てくれるのではないか、って思っていたの」
ずいぶん長いこと彼を追っていた、とゆうは言った。ゆがて希望は失望と落胆に取って変わり、それまで以上の絶望感を抱くようになったのだ、と。
「この人でも駄目だったら、もうなににすがればいいのかわからない、そう思ったの」
という内容の話だが、ゆうの語り口はいつもの明るさだ。悲痛な話も今は昔、あっけらかんと話せるようになるのだろうか、などと右之介は考えてしまう。
「ごずは、海が好きなの」
「海があるのか」
「ええ、それは、あるわ。ごずが好きなのは、特に砂浜。断崖の上から海を眺めるより、砂浜を歩くのが好きなの」
砂浜を探せば会えるかもしれない、ということだが、牛の足まかせでうろついている者を、好みを手がかりに探すというのも無茶な話だ。
とは言えしかたない。右之介は立ち上がった。