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7/13

六、

 どうにも不愉快で、歩は自然と早くなった。

 どこをどう歩いたのか、道もない木々の間を下ばえを蹴り飛ばしながら進む。

 背後でゆうが小さな悲鳴を上げた。ちらりと肩越しに見やると、なにかにけつまずいたのか、膝を折って潅木にすがりついていた。

「待って」

 しかたなく立ち止まった。

 理由もわからず震える体をもてあましながら、ゆうが追い付いてくるのをいらいらしながら待つ。

「そんなに機嫌をそこねないで」

 なにも言うつもりはなかったが、右之介は思わずゆうの背後を指差していた。

「あの、下郎」

 そこから先の言葉が出ない。

 右之介の指先を見つめ、ゆうは顎を左右に振った。

「気にしないで。あなたは、あんなのとは違う」

 さきほども同じことを言われた。右之介も、同じ返事をした。

「わかっている」

 そう、違う。自分とやことは決定的に異なっていると、はっきりわかる。

 やこを殴り飛ばした理由。それは怒りだと、気付いた。女を弄ぶ男へ対して、腹の底から激情がわく。

 この怒りがあるということが、自分とやことの違いなのだ。

 そう自分に言い聞かせながら歩いてきた。だが、一歩進むたびに不安が胸中に広がった。

 右之介には、女を殺して楽しむ癖はない。そんな癖には嫌悪も感じる。だが。

 癖によってではなく、右之介は殺してきた。男も、女も、子供も老人も。

「殺さねば、殺されるからだ」

「え」

 なんでもない、と右之介は踵を返した。

 殺さねば殺される。それがいくさだ。そして、自分は武士だった。いくさに出なければ主君に殺される。だから殺した。

「そうだ、俺はやつとは違う」

 違うはずだ。

 死ぬわけにはいかない。死ねない理由があるからだ。だから、殺される前に斬った。死は恐怖の対象で、周りの者は右之介の豪胆を褒めそやしたが、実はいくさ場が恐ろしくてしょうがなく、死なないように、殺されないように、無我夢中だった。

 死ねない理由、それは・・・・・・

 ・・・・・・それは、なんだ。

 大事なことのはずなのに、思い出せない。

 すぐそこに答えがあるのに、届かないもどかしさ。あと一歩先、いや半歩先に進めばわかるはずなのに、とまた自然と足の動きが速くなっていく。

 待って、とゆうが小走りについてきた。

「悪趣味だとは思うけど、ああいう手合いはじごくにはたくさんいるの。気にしないで」

 ゆうの言葉が右之介の思考を乱す。

「あの女の人のことだって。ここはじごくなんだもの、かわいそうな人はたくさんいる。しかたがないの」

 ゆうの声が抑えた感情で震えていることに、右之介は気がつかない。

「かわいそう、死にたがりが」

「それは違うッ」

 はじかれたようなゆうの大声に、右之介は立ち止まって思わず彼女を凝視した。

「なにが違う」

「あの女の人の気持ち、あたしにはわかる」

 ゆうの上気した頬が、わななくように震えていた。

「しかたがない、そう言ったけど、だけど、あの女の人の境遇はあたしにもよくわかるから、やこのやったことは、とてもじゃないけど許せない。ずっと、ずっと怒ってたの、あなたのこと考えて我慢してたのに。死にたがりだなんてッ」

 小娘に気圧されていることを誤魔化すために、右之介はなんとか言葉を捜した。

「やこのところへ連れていったのはお前だ」

「知らなかった。あんなこと、何度もしてたなんて」

「じごくには詳しいのだろう」

「皮肉らないで」

 ゆうの瞳に溢れた涙が、あ、と思う間もなく頬を伝っていくのを見て、右之介は愕然とした。

 ついさきほどまで感情を胸に秘して右之介をなだめていた女が、ものの数秒で感情を激して泣いている。

 かける言葉も手の置き所もわからず、右之介はほとんど狼狽した。

「わからないわ、わなたには。やこにも、他の誰にも。

 女一人でじごくを彷徨って、誰に声をかけられるわけでもない、誰に話しかけたって答えもない、しまいには着物を脱いで、どんなに恥ずかしくても裸で男の人の前に出て、それでも指一本触れられず、ちらりとも見られることはないの。

 どれだけ苦しいか、悲しいか、切ないか。狂えるものなら、狂ってしまいたいのに、どうしたって狂えないの」

「わかった」

「いいえ、わかりっこない」

 衿を両手で掴み着衣を脱ぐ格好をしたまま、ゆうは凄絶な眼差しで右之介を睨みつけていた。

「たった一人、あたしのことを見てくれるひとがいる。そのことがわかったら、もう二度と、一人ぼっちには戻れない。怖くて、恐ろしくて、さびしいから。

 もし今、あたしのしていることが気に入らなくて、あなたがあたしを殺したとしても、あたしはまたあなたに会いに来る。殺されるとわかっていても、あの蜘蛛の巣の近くでずっと待ってる。

 もう一人はいやだから」

 最後は搾り出すような嗚咽にまぎれた。

 右之介は人語を忘れたかのように、呆然と立ち尽くしていた。

 目の前の小さな体は、なんなのだろう。細い肩には、手を置いてもいいのだろうか。血で染まったこの手で触れていいものなのか。地獄に落ちるほど多くの命を奪った男が、下手な慰めの言葉をかけてもいいのだろうか。地獄に不似合いな明るい心の奥底を、聞いていてよいのだろうか。

 その涙を拭ってやれば、頬にべっとりと血がつくのではないかと、右之介は地獄へ来て初めて恐れを抱いた。

「だから、あたしには、あの女の人の気持ちがわかる。むごたらしく殺されるとわかっていても、やこに会って、見てきたものを聞いてきたことを、一つも残さず話すの。

 わからないでしょう。語れる相手のいることが、たった一つ相づちの返ってくることが、どれほど嬉しいのか」

 右之介なりに、少しゆうを理解し始めていた。

 地獄に不似合いな明るさ、あれは喜びの表現だったのだ。

 そう、喜び。右之介にはまだ実感できない、だがおぼろげに理解できる感情。

 右之介との出会い、彼との会話、連れ立って歩くこと、すべてが彼女にとって喜びだった。 好いているからではあるまい。ただ、彼女のことが見える者が、この世界で右之介一人きりだから。だから、ゆうは時折り、彼を気遣う。自分の声を聞いてくれる人が失せてしまうのが怖いから。

「すまぬ」自然と言葉が出た。「わからぬ」

「ばかッ」

 素早く拾い上げた石を、ゆうは投げつけた。激すると我を忘れるようで、意外にも思い切ったことをする。

 超至近距離から投げられた石を、右之介は、額で受けた。

 痛みは、いっそ心地よい。斬られた時の不快な苦痛とは違う。

 悄然と罰を受ける時の、潔さという感性が生み出す快感か。それとも、冷水にひたした肌へ湯をかけた時の愉快な刺激か。

 それで罪をつぐなおうというのではない。慰めるべき言葉もなく、肩を抱いてもやれず、涙一粒受け止めてやれない、その罪は、石ころ一つで消えるものではない。

 ただ、今は痛みがほしかったのだ。

 胸板を拳で叩かれたが、それも数回。力なく、ゆうは右之介の胸に顔をうずめた。それがおそらく、地獄で人と肌を触れ合わせた最初だろう。右之介にとっても、ゆうにとっても。

「俺にはわからぬ。わからぬが、忘れぬ。今後、なにかで離れ離れになった時には、あの蜘蛛の巣のかたわらで落ち合おう」

 そんなことを言いながら、右之介は考えた。

 この気持ちはなんだろう。

 胸を濡らす熱い涙よりも、ずっと熱く胸を焼く感情。眼下の小さな体がとてつもなくいとおしいものに思えて、右之介は両拳を握った。

 いとおしくても、抱きしめるわけにはいかい。この手では。

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