五、
その男は、名を「やこ」と称しているらしい。
いくさ場から離れた場所に建てたあばら家で寝起きし、時に経なのか唄なのか、響かない低い声音を吟じることがあるそうだ。
塩とごまをまぶしたような白髪頭がうつむいて、そのあばら家の前にしゃがみ込み、なにやら作業にいそしんでいるところだった。
錆びた小刀を掴み、もう片手でなにもない空中を掻いている。地面すれすれまで小刀をさかしらに落とすと、くいくいと手首を細かく震わせながら両手をからませる。
小男のそのわけのわからない作業を見て、狂人か、と右之介は疑った。が、ふと顔を上げたやこの目に、意外と理性的な瞳を見て、おやと思った。
「気が散る」
だから失せろというのだろう。
「やこ、殿だな。聞きたいことが」
「話したいことはない」
とりつくしまもない。
やれやれ、と右之介はゆうと顔を見合わせた。
ゆうの必死な表情を見ては、引き下がるわけにもいくまい。
「地獄を出る方法を教えてほしい」
「知らぬ」
「しかし、おにばらいに、首を集めればよい、と教えたのはお前だと」ゆうに聞いた。
と、やこは手を止めて右之介の体を上から下まで眺めた。
「おぬしか、おにばらいと三度ほど打ち合ったというのは」
右之介は顔をしかめた。「なぜ」
「知っているか、か。おなごが教えてくれる」
反射的にゆうを見た右之介の挙動から、やこは「おぬしもおなご連れか」と察した。
「わしもだ。おぬしには見えぬがわしには見えるおなごが、一人、おる。あちこち行って、見聞きしたことを教えてくれる。おぬしらの斬り合いも見物したそうだ。
おぬし、いい腕だな。おにばらいと一騎打ちで二度まで防げる者もそうはおらぬ」
右之介は複雑な心境だった。いい腕と言われても、頭に浮かぶのは完敗の二文字だけだ。
「それで、首を集める話だが」
「嘘だ」
「嘘」
「おにばらいが邪魔をしよるから、でたらめを教えた。一千万も人を斬っても、どうなるものでもない。せいぜい天魔に煮らるるのがオチだ」
やこが、すねの前辺りをひょいひょいとかきわける仕種をし、なにものかを引きちぎるように片手を大きくかかげ上げると、ぺろりと舌で中空を舐める。
なんの作業なのかわからないが、なぜか気分の悪くなる動きだ。
「おにばらいにはわしも二度ほど首はねられた。あやつとやり合えるほどの者だというのなら、特別に話を聞いてやろうか」
作業が終わったのか、やこは地面にあぐらをかいて手の甲を舐めた。
「しかし、なにゆえじごくを出たがる」
「じごくにいたがる者もおるまい」
そうでもないぞ、とやこは唇の端を吊り上げた。歪んだ笑み。
「ここがそれほど暮らしづらい場所かね。
道楽もある。世俗の邪魔もそうは入らぬ。善人ぶった阿呆もあまりおらぬゆえ好き放題しても、どこからも文句は出ぬ」
落ち着き払ったやこが言うと、なんだか説得力があるから不思議だ。
「たとえば、せん姫。あの男には、おぬしも会ったそうだな。案外楽しんでおる。手に入れてしまえばどんな玉も色あせて見えるもの、手にするまでが至宝、その手段を考じるのが愉悦。もっとも、わしの見るところ、せん姫はわしらのおなごたちとは違うな。ありゃあ、幻だ。幻を追いかけておるのよ。
おにばらいとて、ひとを斬り殺したいがために斬っておるのだろう。じごくを抜け出すなど、殺す理由をこじつけておるのさ。
ひとの行動には、必ず理由が伴うのでな。おにばらいのような単純なやつは、単純な理由を作るか、もしくは己れを動かす理由に気付かぬか。そうでない者は、心中深くに複雑な理屈を網の目のようにはりめぐらせる」
やこの自論を聞きに来たわけではない。
「じごくを出る法はないのか」
「まあ、そう急くな。わしの考えくらい聞く時間はあろう。
ひとはな、死んだ時、わけられるのだ。
善人ぶった阿呆どもは、一見幸福に満ち満ちた、しかして実態は退屈極まりない、浄土という名の無限地獄へ行く。退屈を敵とし、ひとのさがに忠実なわしらは、地獄と呼ばれる楽土に生まれ変わるのよ。
わかるか。
誰かがこの地を見て現世へ伝え、あるいはかの地を伝えた。現世では、面白みのないかの地が浄土のように思え、血生食いこの地が地獄に見えた。実際は違う」
右之介はゆうを見やった。
「女が一人でいるには、少々きつい場所だ」
おなごとて、とやこが唇を舐めながら言った。
「男どもから見えぬとなれば、無体に犯しまわされ狂い死ぬこともあるまい。
おぬしもおなご連れなのだろう。二人で仲睦まじく楽しめばよいのだ。腹も空かぬ。眠らずとも障らぬ。歳をとることもない。
それでも、おぬし、じごくを出たいと申すのかね」
右之介はまたゆうを見た。ゆうは一言、出たいと言った。
「法があるなら聞いておきたい」
「ふン、変わったやつだ」
やこは思案顔で漆黒の空を見上げ、何度か小首をかしげてから、そうだと手を打った。
「思い出した。ぼさつ、だ」
「ぼさつ」
「ずいぶん前、さようさな、かれこれ・・・・・・思い出せぬくらい前、業腹坊主が言っておった」
「坊主もいるのか」
「この地ほど坊主の似合う場所はあるまい。あじゃりもほっすもおるぞ。自称だが」
「それで」
「これは坊主の言ったことだ。
なんでも、悟りを得て六天うずまく輪廻の輪を断ち切って、浄土を新たに造り得るほどの力を持ちながら、その慈悲の心でもって六天にとどまり、ひとを救済する者がいるという。それがぼさつと言うそうだ。
簡単に言えば、浄土へ行けるというのに進んでじごくに落ち、亡者どもを救い出そうという、馬鹿げた真似をしよる物好きのことだな」
確かに物好きな。右之介は苦笑した。
好きこのんで地獄に落ちるなど阿呆の諸行だろう。阿呆に亡者を救う知恵はあるまい。
「して、ぼさつに会うには」
「知らぬ」
素っ気無く言ってそれが悪いと思ったのか、無知と決められたくないのか、やこは慌ててつけたした。
「が、思案はある。
亡者を救おうとするのであれば、ぼさつは亡者の群れを追っておるはず。会いたければ、亡者の群れに身を投じることだ」
なるほど考えるものだ、と右之介は感心した。今の右之介には、その程度の知恵も働かない。
礼を言って踵を返した右之介は、ついでに、とやこへ訊ねた。
「お前の女はどこにいる。俺のことを伝えてくれていなければ、話もできなかった。見えはせぬが、一言なりと礼をしたい」
やこはにやりと笑った。
「もうおらぬ」
「は」
「死んだのよ。つい、さきほど」
右之介は、やこのさきほどの作業を思い出した。
もしや、怪我をした女の介抱をしていたのか。もし右之介たち闖入者が原因で死んだのであれば、すぐに生き返るとはいえ、なんとも後味が悪い。
詫びようとした右之介の前で、やこはけけけと笑った。
「いいぞ、おなごの腹の中は」
「は」
「腹を割いて腑分けするのさ。湯気が出るほどのあたたかさといい、ぬめりとした血と脂の感触といい、絶妙だ。
難しいのはな、死なぬようにする工夫だ。死ねば消えてしまうからな。死なぬようにちょっとずつ、咽喉の管がつまらぬように、心の臓に触れぬように、時間をかけて肉の震えを堪能する工夫。こいつにかけては、この地でわしの右に出る者はおるまいよ」
右之介の拳がやこの顎を襲った。
ほとんど吹き飛ぶように、数間もの距離をやこが転がっていく。
殴りかかった姿勢のまま、右之介は、転がるやこを不思議そうに見ていた。
反射的に殴っていた。だが、なぜ殴ったのか、その理由がわからない。自分の心に膜がかったように、腹の底にわだかまる感情が理解できない。
ゆうが、なぜか涙を流しながら右之介の手を引いている。
立ち去ろうとする右之介の背中へ、やこの怒声が届いた。
「あの女はな、自分からわしのところへやって来るのよ。何度殺されても、何度腹を割かれても、自分の足でやって来る。わしは一度として来いと言ったことはないぞ。
あの女はな、殺されたいのさ。無残にむごたらしく。苦痛にあえぎながら」
森に入ってからも、彼の声は聞こえた。
忘れるなよ。この地に生まれ変わった以上、貴様とてわしと同じ穴のムジナ、貴様のおなごもおんなじケツをしよるのだ。
「あなたは、同じなんかじゃない」
ゆうが苦しげな涙声を絞り出した。
「わっている」
右之介は、腹腔を満たす感情がなんであるのか、思い出そうとしていた。