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四、

 誰かが、背中を見せてうずくまっている。

 女だ。ごく親しい女だということが、なぜかすぐにわかった。

 低い庭木の前で、彼女はなにごとか手を動かしている。すると、蝶がひらひらと、まるで彼女が花弁ででもあるかのように何度か周囲を回り、やがて飛んでいった。

「どうした」

 右之介が訊ねると、女は驚いたのか跳ねるように振り返り、彼を見とめて笑顔で立ち上がった。

「お帰りなさいませ。お知らせではお帰りは明日と」

「なあに、早くお前の顔が見たかったのさ」

 まあ、と女は口を押さえて「昼間からおたわむれを」と子供でも咎めるように、やわらかく彼を睨んだ。

「けれど、お出迎えに出られませんでした。申し訳ございません」

「嫌味か。驚かせてやろうと思っていたのさ。それより、今の蝶は」

「蜘蛛の巣にひっかかっていたものですから」

 たしかに、大きな尻の蜘蛛が下ばえの中に巣を作っていた。

「蜘蛛のメシを取り上げたわけだな。いじわるなひとだ」

 まあ、と女は目を丸くした。

「ひどい」

「だってそうだろう。お前は、人の釣った魚を取り上げて、川に返してやるのかね」

 女は少し考えて、「女は浅はかなものですから」とうつむいた。

「いや、すまん、戯言が過ぎた。こういうところは、男の愚かさだ」

「いえ」

「蝶はお前に感謝しているだろう。蜘蛛のやつも、怒ってはおるまい。これだけでかい巣だ、すぐに次の獲物もひっかかるさ」

「あの、なにかございましたか」

 勘のいい女だ。そう、出合った時からそうだった。

 右之介は先日の火炎を思い出し、思わず口を滑らせていた。

「叡山の僧兵ことごとくを根絶やしにした。山堂仏像みな焼き尽くして」

 言うべきでないことを言ってしまった。後悔の念に押されて「そういうことだ」と短く吐き捨て話を終わらせ、次の話題を庭の木々に探した。

 女はそっ、と右之介の肘に触れ、美しい微笑で彼を見上げた。

「ご無事のお帰り、なによりも嬉しゅうございます」

 早く子がほしいな。その時、右之介は突然に思った。



 目が覚めた時、眼前に蜘蛛の巣があった。見覚えのある蜘蛛もいる。どうやら、初めてこの世界で目を開けた時と同じ場所で、同じ格好をして眠っていたらしい。

 夢か。

 よく覚えてはいないが、ふわふわとした、楽しい夢だったように思える。

 そう、楽しい。そんな感情など、すっかり忘れていた。

 それにしても、この蝶はよく蜘蛛の巣にひっかかるものだ。昨日とまったく同じ場所に、見覚えのあるガラの蝶がひっついている。

 蝶は、その美しさゆえに救い出される。蜘蛛は、その魁偉のために獲物を奪われる。では俺は、と右之介は悩んだ。この蝶を救うか、見捨ておくか。

 思案している最中に、横合いから手が伸びてきた。華奢な白い手が、たおやかな指でひょいと蝶を掴む。

「ゆう、か」

 右之介が起き上がると、飛び去っていく蝶を見送りながら、ゆうが小さな吐息を漏らしていた。吐き出したのは安堵だろう。

「よかった。まだ、あたしが見えるのね」

「いつか見えなくなるものなのか」

「わからない」

 立ち上がろうとして、ふと右之介は、自分がなぜここに寝転がっていたのか、記憶を辿って考えた。

 わからない。

「あっという間に」ゆうは不安や安堵の色を消し、くつくつ笑った。「斬られちゃったね」

「斬られた」そんな気もする。「どこで」

「桜御門を入ったところで」

 そうだ、そんな門があった。名を聞いて、すっと頭にかかった霧が晴れた。

 


 桜御門を入ったところで、一人の男に出会った。いや、正確には、雑兵に囲まれている一人の武士。

 男も右之介同様の軽装だが、全身を染める夥しい量の返り血は、それ自体が甲冑と化してしまっているように思えた。

「どこかで会ったか、貴様」

 男は首をぐりぐり回しながら、近くの雑兵の首を容易に叩き落し、返す刀で隣の兵も薙ぎ倒した。

「見覚えのある顔だ、そこの貴様」

「俺にはない」と右之介が答えると、男は楽しそうに残りの雑兵を片付け、右之介へ刀の切っ先を向けた。

「いやいや、わからぬ。もしかしたら、俺が地獄へ叩き落した連中の一人かもしれぬ。いや、そうに違いない」

 勝手に結論を出して、男は近づいてきた。

 見たところ右之介と変わらないほど若い。が、全身からは歳に似合わぬ火を吹くような凄まじい殺気があふれていた。

「もう一度、貴様の素っ首を俺に差しだせ。貴様で九千百八個。一千万まで貯めて、俺はじごくを出て行く」

 斬りかかってきた男に、制止の声はきかなかった。

 男の変則的な逆袈裟の太刀筋を強引にはじき返し、右之介は舌打ちした。

 拳が痺れる。なんという馬鹿力。

 仕切り直しのつもりで背後に跳ぶと、倍する速さで男は迫ってきた。刀をはじかれ体勢を崩していてもおかまいなしだ。

 先に接地した右足の親指と薬指の間一点に力を込めて左へ跳び、着地しざまに追ってくるであろう男の予想進路を横薙ぎに振り払った。ところが、今度は男は離れてかまえている。

 用心深いというのとは違う。恐ろしく勘がいいのだろう。

 心してかからなければ、と右之介はかまえた。

 あらためて値踏みするように右之介を眺めていた男は、不思議そうにつぶやいた。

「そんなものか、貴様の力量」

「誰と勘違いしているのか知らぬが、俺の腕はこんなものだ」

 面白くもなさそうにうなずき、男はにじりよってきた。右之介もならう。

 一足一刀の間合い・・・・・・一歩踏み込めば双方の刃が体へ届く位置まで進み、申し合わせたように二人は制止した。

 男はなんでもないような顔をしているが、右之介の全身は凄まじい汗を吹き出していた。

 体格も年齢も同じような男だというのに、まるで百や千の兵を一人で眼前にしているかのような、圧倒的な威圧感。

 辛抱できずに、右之介は出た。

 右から切り上げた刃は難なく受け止められる。刀と刀がぶつかり、火花が鋼を溶かし、刃のかけらがこぼれ落ちた。

 そのままつばぜり合いの形になり、あきらかな力負けを露呈している右之介が跳んで逃れようとして、先ほど以上の素早さで男は追ってきた。

 頭上から下ろされる怒涛の撃剣をしのげたのは三合まで。

 次の瞬間、右之介は頭蓋を割られていた。

 


 敗北の追想を終え、右之介は両手を見つめた。

 体がなまったか。

 いや、そんな気はしない。あの男が強いのだ。

「あれが何者か、知っているか」

 試しに聞いてみると、意外にも答えが返ってきた。

「おにばらい、って呼ばれている。名前の由来は知らないけど、鬼みたいに強い、っていう意味ではないかしら。

 あの人を倒さないと、天守には入れないそうよ」

 右之介はため息をついた。

「天守に登ってみようと言ったのはお前だ」

「ええ」

「おにばらいとやらのことを、俺には話さなかった」

「ごめんなさい、忘れていたの」

 あっけらかんと言う娘の神経が信じられず、右之介は思わずため息をついた。

「次からは前もって教えてくれ。死ぬのは存外、痛いものだ」

「すぐ慣れるわ」

 実にあっさりと言う辺り、死を終着としてではなく、寝食にも似た日常的な現象と見据える、一種異様な精神構造があるように思えて、右之介は初めて目の前の女に気圧された。

「斬られると、もとの場所に戻るのか」

 なんとなく居心地が悪くて、右之介は話題を変えた。

「そう。鉄砲玉に当たっても、転んで頭を打っても」

「もとの場所に生き返る・・・・・・生き返るというのもおかしな言い様だが」

「眠っているような感じだったでしょ」

「うむ」

 あんな夢が見られるのなら、と右之介はいま言ったこととは別のことを考えた。

 死ぬのも悪くない、と。

「これから、どうするの。また、大坂城へ行くの」

 訊ねられて、さてどうしたものかとゆうを見返した。今しがたと違って、笑顔の中で目だけが真剣だった。

 これはなんだ。

「怖いか」

 ゆうは意外そうに、えッと声をあげ、逡巡するように視線を泳がせた。

「・・・・・・怖い。みんなからはあたしが見えないから、襲われる心配はないけど」

「そういえばそうか。襲われる心配がないということは、もしかして、死んだことがないのか、お前は」

 ゆうは吹き出した。

「じごくにいる時点で、あたしは死んでる」

「そうではない。じごくでの死を知らぬのか」

「いいえ。鉄砲玉や弓矢に当たったことがある。高いところから落ちたり、それに、時には、自分からすすんで死んでみたこともある」

 自分からすすんで。

 軽口を叩くような調子だが、ほんの少しばかり、彼女のこの世界での生活が窺える話だ。

 しかし、ゆうの持つ明るさが、一人きりの彷徨を想像しづらくさせているのも事実。

 彼女のほがらかな笑顔は、孤独という言葉が生み出す風景、印象、情感などと反発しあう真逆の性質で作られていると、右之介などは思うのだ。

「なにが」思わず口をついた。「そんなに楽しいのだ」

 は、と娘としてははしたない程度の大きさに口を開け、ゆうは途端にむッと眉根を寄せて眉間に縦皺を刻んだ。

「人を馬鹿にするにもほどがあるわ」

 右之介は慌てた。地獄に落ちてこれわど慌てた経験は、覚えているかぎりでは皆無だ。そうではない、と焦って手を振り、どう言い繕えばいいのか、記憶にあるかぎり最速で頭の中をこねくり回した。

「じごくにいるわりに、お前の笑顔は楽しげだと思っただけだ。それだけだ。なにか、ここで楽しめるものでもあるのか」

「そんなもの、あるものですか」

 完全にへそを曲げた娘が明後日の方向を睨みつけて吐く。

「いくさばかり。

 大坂城が落ちたら、次は別の城が、お寺が、野や谷間で、そして気付いたらまた大坂城が。

 狂ったみたいにみんな斬り合って、帰ってきてまた斬り合うの」

 拗ねたように言われると今度はやや辟易した気分になる。この気分を一掃できるのならなんでもしよう。

「悪かった」

 右之介の言葉に、ゆうはびっくりという言葉が相応しい表情で彼を見返した。

「他意があって言ったわけではない。その、つまり俺が悪かった。それだけだ」

 まだゆうは右之介を睨んでいる。

 ため息混じりに、右之介は別の話題を探した。

「しかし、俺もそうなるのか。気がふれたように、人と斬り合うように」

「そうかもしれない」

 意地の悪そうな目で見上げられ、右之介はいいかげんうんざりした。

 なんでこの女の機嫌をとらなきゃならないんだ。今までそんなことはなかった。どちらかというと、この女が俺の機嫌を取っていたのだ、と右之介は振り返り、頭を抱えた。

 今までとなにが違う。いつ変わった、なにが変わった。

「ううん、きっとそうなる。大坂城や、他のいくさ場に行って、たくさん人を斬ったら、きっとおにばらいみたいになる。

 そしたら、またあたしは一人になるんだ」

 つまり、さきほど怖いと言った真剣な眼差しは、右之介の変化で再び孤独が甦るのを恐れた、ということか。

 右之介は嘆息混じりに、思いつきを口にした。

「なら、そうなる前に、じごくを抜け出す算段をしてみるか」

 無理よ、とゆうは言わなかった。ただ、目をむいた。

「抜け出す」

「まだ見て廻っていないので、まだ詳しくはわからぬが、どうやらここは俺の性には合わぬところらしい」

 と適当に言葉を並べた。

「おにばらいとか言った、あいつ、一千万の首で出て行くとかなんとか、ほざいていなかったか」

 じッ、とゆうが右之介の顔を見つめている。常人なら、恐ろしくなると形容するであろう、どこまでも一途に真剣な視線。

「抜け出せるの。あたしを、連れ出してくれるの。あなたに、それができると」

「わからぬ。だが、首を上げるのは得手だ」

「待って」

 ゆうは少し考える素振りをし、やがて頬を緩めた。

「会わせたい人がいる」

 笑顔は強張っていたが、どうやら、最悪の機嫌は上方に修正されたらしい。 

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