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二、

 乾いた地面に横たわっているのだと、しばらくわからなかった。

 体は街道に転がっていて、頭を脇の茂みに突っ込んでいる格好だ。

 仰向けに寝そべると、目の前に蜘蛛の巣があった。真ん中に居座っているのは、なかなか貫禄のあるでかい尻した大蜘蛛だ。

 巣の隅に、どこにでもいるような小さな蝶がひっついている。

 右之介は考えもなしに蝶の羽をつまんだ。

 からんだ糸から離してやると、蝶は右之介の存在など意にも解さぬというように跳んでいった。

「珍しい」不意の声は笑いを含んでいた。「地獄で蝶を助ける男。変わり者よな」

 右之介が手を突いて半身を起こすと、幹に寄りかかって座っていた男は、にやりと笑いかけてきた。

 男がまとう血にまみれた甲冑は、もともとあでやかなもののようだ。名を知られた武将なのだろう。

「斬って捨てようという気も失せる。貴様、名は」

 右之介は首をかしげ、とつおいつ考えてみた。

 名前が思い出せない。

 はて、俺は何者だったかな。

「名を忘れたか。まあ、よい。ここではままあることだ。ここは、地獄だからな」

 名前と地獄の関連性は不明だが、右之介はあっさり納得した。

 そうだ、ここは地獄だったのだ、と思い出しながら。ならば、なにがあってもおかしくはない。

「言葉も忘れたか」

 なにか言おうとして、すぐに言葉が出てこなかった。粘つくように咽喉へからまり、どう発声すればいいのかすら忘れてしまったかのようだ。

「・・・・・・名乗りをあげられぬ非礼を詫びておく。それで、おぬしの名は」

「言葉使いからしてさむらいか。牢人というにはさっぱりした格好だが。さて、わしの名は」

 男は頭を右に傾け、次に左へ傾け、ふむと唸った。

「まあ、名乗らぬ者に名を明かすというのも、なんだ」

「忘れたか」

 訊くと「まあ、そういうところだ」と軽快に笑ってみせる。憎めない男なのだろう。

「おぬし、腕は立つか」

 男が突然訊ねてきた。

 右之介は反射的にそばの大小を掴み「多少は」謙遜するでもなく威張るでもなくうなずいた。

「では、どうだ。姫の救出に手を貸してはくれぬか」

「姫。いずこの」

「我が主君のご息女、せん姫だ」

 知らない名前だ。もっとも、自分の名前も覚えていないのだ、同じく忘れているだけかもしれない。

「主君とは、いずこの」

 ふ、と男はぐいと胸を張って「わが主君は・・・・・・」頭を右と左とに傾けた。

「・・・・・・まあ、なんだ。驚かせてしまっては貴様の心の臓によろしくない。おいおい語って聞かせてやる」

 地獄で人の心臓の心配だなんて、そっちの方が変わり者よ。そういう声が聞こえて右之介は振り返り、おや、と声をあげた。

「地獄にもおなごがいるのか」

「む、せん姫のことか。なにぶんにもここは地獄、姫の身が案じられる。そこで、わしに手を貸せと意っておる」

「いや、せん姫のことではなく・・・・・・」

「まあ聞け。ここだけの話、二人だけの秘密だぞ。

 わしはな、恥ずかしい話だが、せん姫に恋い焦がれておる。せん姫の美しさときたらこの世のものとは思えぬのだ。

 そこで、燃え盛る大坂城より姫を救い出した暁には、妻にと望むことにした。 

 無論、姫とてわしが夫となれば幸せになろう。

 つまりな、わしと姫の幸せのために手伝ってくれというのだ」

 ぐいと突き出してきた男の顔は、意外と整っていた。美男の部類だろう。だが、大きな刀傷があって少しひきつれて見えるのが難だ。

「な、どうだ」

 右之介はしばらく背後を見やっていたが、やがて肩をすくめた。

「いや、名も思い出せぬでは役に立てまい。武運を祈る」

 男はあからさまに落胆し、盛大なため息をつくと、機会があれば頼むぞ、と立ち上がった。

「そういえば」右之介は男を呼び止めた。「大坂城とは聞き慣れぬが」

「天下の大坂城を知らぬのか」

 男は愕然とした顔で右之介を見つめ、ふむと唸った。

「そうか、死にたてだな。地獄であの城を知らぬ者はおらぬ」

「死にたて」

「ここに来たばかりだということだ。いや、待て、しかし」

 言ってから、男は頭を右と左に倒す。

「生きていた頃も名城として知られていたような・・・・・・さてはおぬし、田舎の出か」

 そうだったろうか。右之介は思い出せない。



 空は墨を溶かしたよう色で、星もなければ雲も見えない。それなのに、明るいとは言わないが視界を妨げる闇はない。

 右之介の前に立つ娘の姿も、くまなくよく見える。

「あの男には、お前が見えなかったとでもいうのか」

 茂みの前に座ったまま、右之介は娘の顔を見上げた。

 娘は「ゆう」と名乗った。着物や立ち居振る舞いからして、家格の低い武家の娘か。おしとやかという言葉とは遠い、軽捷そうな雰囲気を持っていて、年恰好通りに女と呼ぶよりも、少女と言った方が相応しいように思われた。

「ここの人たちには、あたしが見えないの」

 そんなことがあるのかな、とふと娘の正気を疑ったが、さきほどの男の前でゆうが声をあげて笑い、男はなんの反応も示さなかったのは事実だ。

 二人にかつがれているのか、とまでは考えが及ばない。地獄なら、そんなこともあるだろか、と思っただけだ。

「本当に、あたしが見えるの。声が、聞こえるの」

 ゆうは何度も念を押す。

「気配がわかる、っていう程度ではなくて」

「おかしいか」右之介に娘が見えることが。

 ゆうは激しくかぶりを振り、笑っているのか泣いているのかわからない顔で、胸の前に両手を握った。

「あたしは、話したいことがたくさんあるの。だけど、誰にも話せなくて・・・・・・ねぇ、あたしの名はゆう」

「それは聞いた」

 ゆうは右之介のかたわらにしゃがみ込み、茂みの中を覗いた。

「大きな蜘蛛」

「地獄にも蜘蛛や蝶がいるのだな」

 なんの気もなく、娘の話に付き合ってやる。

「地獄に来たのは、生きている間に蝶を食べたからかしら。じゃあ、蝶は」

「蜘蛛が蝶を食べるのは、人が魚を食らうのと同じだろう。お前は、魚を食って地獄に落ちたのかね」

 まだ思考することに慣れない頭で、右之介は少し考えてみる。

 畜生に地獄も極楽もあるまい。蜘蛛にしろ、鹿やいのししにしろ、ここは地獄だと落胆するとは思えないし、極楽だと言ってありがたがるとも思えない。彼らはいつもと同じように暮らすだろう。

 となると、地獄だ極楽だと騒ぐのは人だけのならいというものか。

「もしかしたら」ゆうは蜘蛛をつついた。「生きていた時は人だったのかもしれない。地獄に落ちて、蜘蛛の姿にされたのかも」

 そういう考え方もあるものか、と右之介は自分の考え方の狭さを知った。おいおい修正していった方がいいだろう。狭い思考ではいくさは生き残れない。

「では、な。また会おう」

 二刀を手に立ち上がろうとして、慌てたゆうに腕を掴まれた。

「どうした」

「ではな、って、それじゃあ、あたしは連れて行ってくれないの」

 驚きの中に不安を混ぜて、悲しみと怒りとが苦しげに心細さを顔に刻めば、今のゆうの表情になるだろう。

「あたし、ここでは誰とも話ができないの」

「俺と話をしているだろう」

「だから、これは特別なことなの。

 ここでは、誰もあたしを見てくれない」

「見えないのだな」

「そう」

 ゆうはうつむき、ちょっ、と息を吐いた。

「人と話すのは久しぶり。

 もう何日も、何月も、何年も、誰とも話をしていない」

 静かでいい。右之介はそんな感想をいだいた。そんな感想を抱いたことに疑問さえ抱かなかった。

「だから、連れて行って」

 見ず知らずのさむらい相手にいきなり連れて行って、とは気の強い女だ。右之介は少しのわずらわしさも手伝って乱暴に手をふりほどいた。

「ここがどういう場所かもわからぬのだ。女は足手まといだ」

 きゅっ、とゆうの唇に力が入った。大きな目から一粒だけ涙が落ちても、女とも少女とも呼べる顔が右之介をにらみつけている。

「あたしのことが見える人、あなたのような人だったなんて。どんな人だろうって、いつも考えてたけど、いい人でなくても、ごく普通の人でいい、って」

「さむらい相手に暴言だな。いや、地獄の亡者相手に」

 そう、彼自身とてここにいるということは、地獄に落ちるような悪業を積んでいるということだ。いい人もくそもない。

「名前、思い出せないのじゃなくて」

 ゆうは右之介の瞳を真正面から見つめていた。

「それ以外にも、たくさん忘れているでしょう。

 ここではみんなそう。たくさんのことを忘れている。

 少しずつ思い出すものもあるけど、名前だけは絶対に思い出せないわ」

「なにが言いたい」

「あたしは物知りなの。地獄にずっといたんだもの。

 それに、誰にも見えないから、いくら盗み聞きしたって誰にも気付かれない。

 あなたの役にたてると思う」

 泣き落としの次は売り込みか。

 右之介は稚拙な策に苦笑いを浮かべたが、すぐに、そうか、と思った。

 たしかに、役に立つかもしれない。なにより右之介はここのことをなにも知らない。説明してくれる者がいるのなら、少しは過ごしやすくなるだろう。

 そう考えると、ゆうとの出会いは、地獄にしてはやさしい按配だ。

「名前を思い出せないと言っていたな」右之介は考える素振りで訊ねた。「お前の名は」

 簡単に試されていると知ったかどうか、ゆうの視線が揺らぎ、ゆっくり下を向いた。

「自分で考えたの」

「自分で」

「誰かがあたしのことに気付いてくれた時、名前がなければいけないと思って。

 聞こえないのを知っていて、出会った人みんなに言うの。

 あたしの名前はゆう。

 ・・・・・・そうしないと、忘れてしまうかもしれないから」

 なるほど、とことここに至ってようやく娘の必死の思いに気付いた右之介は、だから憐憫の情がわいた、ということもなく、そういうこともあるものか、と思っただけだった。

「ま、案内役がいればなにかと便利かもしれん」

 上げられたゆうの顔には、隠し様もない歓喜と、一抹の不安とが見えた。

「ところで、あなたのこと、なんて呼べばいいの」

 む、と右之介は眉をひそめた。

「別にどうとでも、好きに呼べばいい」

「名前があった方がいいわ。みんなも、なにかしら通り名や仮の名前を持っているもの」

「不便は感じん」

 ゆうは呆れたような顔で右之介を見つめていたが、ぽんと両手を打って言った。

「あたしが考えておいてあげるわ。いい名前を」

「知らぬ」

 右之介は不機嫌が伝わるように吐き捨てた。

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