一、
気がつくと、右之介は暗闇に立っていた。目の前に立つ石灯籠以外、見えるものはない。地面には野草も生えておらず、土くれと石ころがわらじの下でごろごろしていた。
不思議なところだ。空には星一つ瞬いてはいないというのに、彼と石灯籠の周辺だけがほの暗いなりに見える。その外は、闇というより漆黒の壁に阻まれたように見通しが利かない。
それにしても、なんという格好だ。
右之介は自らを見下ろして慨嘆した。
袴も履かずに着流し姿は、子供でもなし、外出する格好ではない。帯に大小の刀を差してはいるものの、なんとも無防備な気がする。
だいたいここはどこだ。
刀を抱いて眠る右之介を運び出し、彼の知らぬところへ置き去りにする、そんなことをされて気付かぬものなら、そうされたとしか思えない。
もっとも、生来楽観的な彼は、まいったなあと頭をかいても、心底からまいったとは思ってもいなかった。
五体に怪我はないようだ。なら歩こう。この二本の足で行けないところなどない。そのうち屋敷へたどり着く。
「一人斬ったらじごく行き」
突然の声に、右之介は慌てて振り向いた。
童がいる。上等ではないがきちんとした身なりは、どこぞの庄屋の子を思わせた。
なぜここにいる、という疑問と一緒に、右之介は首をかしげた。なぜ寸前まで気配を感じなかったのだろう。
「そうか、地獄行きかね」
右之介は童へ笑いかけた。子供を魅了する笑顔には自信がある。彼自身子供好きで、それが満面ににじみ出るためだろうと右之介は考えているが、人に言わせれば、子供にとってお前は同類なのだ、ということになる。
童はにこりとも笑い返さない。人形もかくやと思われる無表情なまなこで右之介を見つめ、まばたき一つしない。
子供相手に、右之介は少しばかり気圧された。
本当に人形なのではあるまいか。息をしている様子すらない。
「一人斬った」
右之介は今度こそ真性の驚愕に慌てふためき振り向いた。
背後に、もう一人の童が立っていた。まったく同じ格好で、無愛想を通り越した無表情も変らない。見ると二人とも同じ格好にそっくり同じ顔。双子だろうか。ただ、後から現れた方は、人差し指を右之介へ向けている。
気配なく忍び寄る不気味な童に挟まれて、右之介は思わず顔をしかめた。気配に気付けなかった自分が面白くない。
「そうかね、では、俺は地獄に落ちることになる。あんまり気分のいい話ではないぞ」
「とおつ斬ったら針の山」
右之介の話を無視して、さっきの童が言う。
まいったなあ、と右之介は額を叩いた。
「針の山はかんべんだ。そうだなあ、よし、俺がもっと面白い話を教えてあげよう。一回しか言わないからよく聞いて覚えるんだ」
「とおつ斬った」
再び無視されてさすがの子供好きも渋面を作った。
なんだろう。気がふれているのだろうか。ならばなにを話しても徒労だが。
右之介は最初の童の前へしゃがみ込み、目線の高さを合わせて「なあ、ぼうず」と小さな肩へ触れる程度に手を置いた。
「この土地の子か。親はどこにいる。俺の言葉がわかるかね」
戦乱の世でいくさに怯えて暮らすうちに、あるいはなにかしらの悲劇に遭遇して、小さな心が壊れてしまったのかもしれない。そう想像すると、右之介はいたたまれなかった。そもそも、彼自身がいくさの中にあって惨劇を振りまいてきたのだ。
「百人斬ったら血の池じごく」
「ぼうず・・・・・・」
すぐに、背後から幼い声が聞こえた。
「百人斬った」
直後、一瞬意識が遠のいた。軽いめまいのようなものだ。そして、ここにいた。
突然、真正面から男が襲いかかってきた。武士のはしくれらしく、半壊した甲冑を身にまとい、走るでもなく刀で突いてきた。
素早く腰の刀を抜き、右之介はその刃をはじいて、反射的に男の鼻の脇を貫いていた。
刃先でいやな感触。あまりにも突然のことに力加減を忘れていて、後頭部を抜いた切っ先がかぶとの内側に当たったらしい。刃こぼれしたかもしれない。
短く舌打ちして、身についた所作でもって身構えた。
いくさ場だ。慣れ親しんだ血と硝煙の臭い。
二人の童はどこか、いつの間にここへ来たのか、疑問は右之介の思考から消えていた。いくさ場という言葉は、右之介を常時とは違ういきものへと変えてしまう。その獣じみたいきものは、いくさ以外の物事を視界の外へ押し出してしまうのだ。
甲冑がないのが心細かった。着流しでは矢の一本も防げない。
男が斬りかかってきた。その長大な刀を受け流し、右之介は相手を一閃に屠る。
剣には自信がある。逆に、いくさ場での主要武器である槍は、どうもなじめない。
腕力と体力にまかせて槍を振り回すよりも、小細工にも似た細緻な技巧を駆使することに血のわく癖があるのだろう。その点、刀は自分の腕がそのまま伸びたような一体感があって、右之介の好みにあった。
背後の気配に半歩振り返り、襲い来る槍の穂先をからめ上げて、おや、足場が濡れているな、などと思いながら目の前の雑兵を斬って捨てた。
それにしても妙ないくさだ。
闇を見透かしてみると、想像以上の人数が押し合いへし合いをしながら殺し合っている。かけ声をかけ、悲鳴をあげて。しかし、肝心の合図の声や音がない。ほら貝も太鼓もなく、陣旗一本も立っていない。誰もかれも、敵も味方もなく組み合っているように見える。
斬りかかってきた刃を軽くはじいて敵を蹴り飛ばし、さて困ったぞ、と右之介は考えた。
どちらの陣の差配に従えばよいのだろうか。どちらがどちらか、果たして陣があるのかもわからない珍妙ないくさだが。
もう三人ほど斬ると、刀身に人脂がまいて刀の切れ味が極端に悪くなった。
近くの武者に組み付いて彼の刀を奪い取り、奪った刀で持ち主を斬り捨てると、返す刀で従者らしい隣の男の息の根を止め、そいつが倒れ込む前にやはり刀を奪っていた。
こう混戦では、刀などいくつあっても足りはしない。
それにしても足場が悪い。泥土がわらじといわずくるぶしまでからめ取り、足さばきが得意の右之介にはやりにくいことこの上ない。
十五人目を斬った頃には、いかに右之介がいくさの獣であっても、こいつはおかしと深刻に考え始めていた。
ここの敵は、まるで斬られることを目的としているように、右之介の眼前へ身を投げ出す。逃げる者も腰の引けている者もおらず、身をさらす。
この者らは、死を恐れないのか。
それともう一つ。なぜか、
彼らの顔に見覚えがあるような気がする。
どういうことだ、という疑問が抜け落ちぬまま、右之介は背後の気配に条件反射で刃を向けた。
切っ先を止めることができず、気付いた時には、女の胸を刺し貫いていた。
「きぬ」
名が出た。
妻の名が。
妻は血しぶきをあげて倒れた。
「きぬ、きぬ」
馬鹿な。なぜここに妻がいる。なにゆえいくさ場で、どうして俺の前にいる。
なぜ、俺が妻を刺さねばならぬ。
不意に、不吉な記憶が脳裏の奥の奥から顔を出した。それは、汚物の中から、汚物よりもっと醜悪な害虫が、じわり、じわりと顔を出し、足を引き抜き、おぞましい動きで這い出てくるのに似ていた。
今ではない、ずっと昔に見た、妻の断末魔の顔。右之介が握っていた脇差し。
手に残る感触は、刀の先端を人に突き立て、皮をやぶり肉を裂き押し広げながら、なお血中へ鋼を埋没させていく時のそれだ。人肉の痙攣が刃を通してつかにまで届き、手のひらに感触する、肌の泡立つおぞましい震えだ。
「・・・・・・」
なにも考えられずに、右之介はその場に崩折れた。
妻の顔を見た瞬間に、右之介の心はいくさの獣から、平素の気のいい青年へと戻っていた。当然のごとく、うずくまった彼の背中は無防備だった。
背後からの衝撃。
何本の切っ先が何度出し入れされたのかわからない。まるで灼熱の炎に背中をなぶられているように思えた。
そして、気が付くと右之介は満足な五体で、血刀を片手に立っていた。
生きていたのか。
そんな思いはすぐに消えた。膝までつかる泥土が、右之介の動きを緩慢にする。
すでに気付いていた。妻のかたわらに膝をついた時、泥土と思っていたものがなんであるのか、見てしまった。
血だ。
闇の中を見渡せば、地面は赤い血で満ちていた。
童の言葉が甦る。
血の、池。
「やめろ」
周囲の人々の顔を見て、右之介は呻いた。
女子供老人、皮膚と骨だけになり、腹ばかりが丸く突き出した餓鬼のごとき人々。
「来るな、やめてくれ」
半狂乱になった右之介は、夢中になって彼らの稚拙な太刀筋をはじき、その肉を骨を臓腑を断ち切っていった。
頭の中で、答えにならない答えの一つを叫んだ。
俺は、この者たちを斬ったことがある。斬り殺した者を、俺はもう一度斬っている。
二度と思い出したくないと心に秘めた断末魔が、耳にこびりついて離れない。
「もうやめてくれ、来ないでくれ、もういやだ」
目を閉じた瞬間、彼はなますのように斬り刻まれた。
気付くと、彼は血の池に立っていた。
狂うことができたら、どれだけいいだろう。
何人斬ったか知れない。
血は、右之介の胸の高さまであった。両腕をかかげ上げ、血脂でぎとつく刀というより鉄棒でもって、何者かを叩き殺し、また両手を上げる。その繰り返し。
なにも考えなくなった。頭の中から、いや、心から、なにか大事なものがごっそり抜け落ちてしまったような気がしたが、気にはならなかった。
不意に、なんだか懐かしい幼い声が頭の中に響いた。
「千人斬ったら餓鬼じごく」
誰の声だったかな・・・・・・
「千人斬った」