十二、終、
あれは、如来だったのか。
天守へ続く階段をなんとはなしに眺めながら、右之介は考えに没頭した。
俺を、浄土へ導こうとした。なぜ。この血と硝煙と汚濁にまみれた愚かな男を、なにゆえ浄土へ導こうとした。妻をも殺し、自ら命を断って絶望と罪の意識から逃げ出した臆病者を。
頬を撫でる手のひらの感触が甦る。
理由はわからない。ただ、その指先が、千の言葉よりも雄弁に語っていたことがある。
浄土へ昇らず自ら進んで地獄へ落ちた。後は、意志だ。
やるべきことは、あの手のひらに教えられたような気がする。しかし、自信がない。
本当にそうなのか。死の直前に見た妄想に過ぎないのではないか。自分が特別な存在であるなど、今まで一度として思ったことはないというのに。
ゆうの声がする。なにか心配ごとでもあるのか、そんな声だ。それに混ざって、男の声。黙っていろ、さぶろう、うるさい・・・・・・
右之介ははっと我に返った。
「なにをぼんやりしとるか、貴様」
見知らぬ男・・・・・・いや、見覚えがある。
「ああ、せん姫の」
思い出し、部屋を見回してさぶろうを探した。
いつの間にやら消えている。
「おにばらいがおらぬで楽に来れたわ」
相も変らぬ無邪気な笑い方だ。上っ面だけの、ひどく軽薄な笑い。ゆうのやさしい笑い声、ごずの人を慈しむ笑顔、さぶろうの超然とした微笑み、それらを覚えた右之介には、男の顔はただ不快なだけだった。
「この上に、せん姫さまがおられる。どうだ、おぬしも一緒に来ぬか」
「お前は、じごくを出たいと思ったことはあるか」
男は、言われた言葉の内容がわからない、とでも言うように首を右を倒し、左に倒し、それからようやく、渇望するように一瞬天井を見上げた。一瞬だけ。すぐに高らかな笑い声をあげる。
「馬鹿な、せん姫をお救いできるのは、わししかおらぬというのに」
「試させてもらう」
抜き打ち一閃、男の顔が縦に割れた。ゆうの驚きの声があがる。
いつもなら、死者は倒れ、地に溶けるように静かに消えていく。だが。
ゆうが、真に驚愕の声を張り上げた。
大坂城を出てからのゆうは雄弁だった。
地獄のどの辺りにどんないくさ場があって、どんな武将がいて、ごずのような変わり者は探せばけっこういるもので、忍びに会ったのは初めてで。
右之介に喋る隙間を与えまい、と意気込んでいるような勢いで、同じ話題を三回繰り返して四度目でようやく気付くという有様だ。
右之介は黙って彼女の言葉を聞きながら、一番最初に覚えた道を逆に辿っていった。
おそらく、またあの蝶は蜘蛛の巣にひっかかっているに違いない。いいかげん、巣の場所を覚えればいいものを。
見慣れた場所へたどり着くと、彼は茂みの前でしゃがみこんだ。
思った通りだ。もしかして、こいつは自ら進んで罠にかかっているのだろうか。自由に飛べる羽根を持ちながら。
羽根をつまみ、空へ放るようにしてはなつと、まっすぐ進んだのも束の間、蝶独特の、不安定で弱弱しくて、とても優雅な飛翔で離れていった。
「いつか食べられてしまうわ」
心配そうに見送るゆうの背中へ、右之介は一呼吸の間だけ笑いかけた。亡父のような、ごずのような笑顔であったかもしれない。そうであってほしい、と彼は願った。
「ゆう」
呼んだ時には、いつもの仏頂面が彼の顔面に張り付いていた。
「わかるな」
ゆうの笑顔が一気にしぼんだ。彼女は、大坂城からこっち右之介が斬った亡者がどうなったのか、つぶさに見てきている。
「あなたは、ぼさつだったのね」
「ぼさつなのかどうかは知らぬ。ただ、俺にできることがなにか、わかっただけだ」
「一緒に、行けるの」
不安そうに訊ねるゆうへ、彼は無言を答えにした。
はなから地獄を出ようなどとは思っていない。ゆう一人が救われればいい。妻一人救えなかった男の、贖罪か、それとも自己満足か、意地か。自分自身が地獄へ残るのも、意地だ。
「よしましょ。あたしがいなくなったら、あなた、一人になってしまう」
「かまわぬ」
「かまうわ。まだわかっていないの、一人ぼっちがどれほど辛いのか」
「成仏したいのだろう」
「せっかく縁があったんだもの、出る時は一緒よ。ぼさつがいる、っていうのは確かめられたのだから、今度は他のぼさつを探して・・・・・・」
すらりと刀を抜くと、彼女は息を飲んだ。初めて明確に自分へ向けられる切っ先。
「あたしは行きたくないの」
「お前は邪魔だ」
ゆうの顔から血の気が引いた。一歩後ずさり、両拳を握る。いつもなら、直後に耳まで赤くなって怒り出すのだが、なぜか、その状態が続いた。
「俺は今より、悪鬼羅刹になり果てる。じごくの亡者を一匹残らず斬って斬ってはき捨てる。修羅のいくさに、女は邪魔だ」
「あなたは」
震える唇が、絞りだすように言葉をつむいだ。
「もっと苦しみたいのね。自分を罰していたい。だけど、それは違う。
あなたは自分で自分を許せるまで傷つき続けるでしょう。だけど、それだけでは、いつまで経っても変わらないのではなくて。
誰があなたに罪があると言ったの、誰があなたを許さないの。
わかっているのでしょう。もう、あたしはあなたのことを・・・・・・」
「俺は己れが許せぬ」
許そうとも思わない。
「だがそれだけで残ると言っているのではない」
「ではなぜ」
「俺にしかできぬことがあるからだ」
人を斬るのに理由ができたから。
ゆうの顔に血の気が戻ってくるまで、しばらくかかった。それは、説得の無駄を心に理解させるため、どうにもならないのだと心に納得させるため、必要な時間。
泣きそうな顔で、少女とも女とも呼べる娘は言った。
「名前」
ゆうの言葉に、右之介は虚をつかれた。
「なんだ」
「名前、考えておいてあげるって、最初に会った時、言ったでしょう」
言われてみれば、そんな覚えもないではない。たった一言二言のこと、どうせただの思いつき、すぐに忘れたろうと思っていたこと。
「名か。どうでもよいことを」
「よくはない。みんな呼び名を持っていたでしょう。あなたも、名乗りをあげられないで、困ったのではなくて」
よけいな話だ。右之介は明後日の方を向いて手を振った。
「不便は感じぬ」
「駄々をこねるものではありません」
まるで母が子を叱るような言い草に、右之介は驚いて彼女を見やった。
ゆうは、無理をしているのが一目でわかる笑顔を作り、いっぱいに貯めた涙を一粒だけ頬に流した。
二度目に見る涙。だが、意味の違う涙。一度目は、自分の苦しみのために。二度目は、あきらめを心に飲み込むため、目の前の人の辛苦がために。
「・・・・・・どんな名だ」
ちょっ、とゆうは唇を突き出し、まるで必要以上の息が漏れるのを恐れるように、そっと言った。
「うのすけ」
口の中で、その言葉をつぶやいてみる。
「悪くない」
ゆうが、全身を投げ出すように右之介へぶつかった。両腕を背中に回して、肩に顔をうずめ、嗚咽する。
しばらく好きにさせてやってから、右之介は一考して脇差しを抜き、逆手に握った。
「心の臓を一突きにする」
ゆうの体が微かに震え「あなたは」と小さな声がした。「平気」
「ああ。俺は」
視線を泳がせて言葉を捜す。
「達者だ」
「うん」
「お前は、上から見ていろ」
「・・・・・・さようなら」
ゆうの腕に一層の力が込められたのを合図に、彼は右手の脇差しを彼女の背中へ突き立てた。思わず左手でゆうの頭を抱く。切っ先は、右之介の胸板をも貫いていた。
一拍の間の後、彼は視界に空中を舞う金色の塵を見た。
刃の刺さった箇所から、ゆうの体が崩れ塵となり、散っていく。
土くれで作られた人形が土に帰るようであり、固めた金粉が風に吹かれているようでもあり、たくさんの蝶が燐粉を散らして飛んでいるようでもあった。
もう一度彼女の顔を見ようとして、しかし左手に抱いたゆうの髪は、その時すでに黄金色の光を放って消えていた。
今まで、死なぬために斬ってきた。斬らねば斬られるからだ。だが、今から、それは変わる。
上から見ていろ。
誰になんと言われようと、俺には人を斬る正当な理由があるのだ。
血風の中を駆け抜けながら、ふと、彼の頭の中に声が聞こえた。女か子供の声のようだ。
突きつけられた小さな指を思い出す。
「万人斬った」
終
闇の中で、彼は抜き身の大刀を手に立っていた。
空気が淀んでいて、重い。腐臭と呼ぶことすらためらわれるおぞましい臭気が、体を奥から侵すようだ。
のそり、と気配がした。
「誰だ、貴様は」
それ、はのそりのそりと近づいてきて、かすれていてよく聞き取れない低い音で言った。
「見覚えがあるな、ほれ、そこのきさ・・・・・・ッ」
彼は、それの胴体辺りを一撃で断ち斬った。
それの顔の辺りには、巨木のうろを思わせる漆黒の穴がいくつかついていて、伸びたり縮んだりするのは、苦痛か驚愕か、表情をあらわす目鼻なのかもしれない。
「うのすけ」
彼は人ならぬ声を絞り出した。
「ぼさつをやっている」
かなり独りよがりな作品になってしまいました。ここまで読んでこられた方、楽しんでいただけたなら幸いなのですが、お腹立ちがあれば遠慮なく酷評してください。