十一、
ひどく冷たい風が吹いていた。
そこは白一色の世界。
風はそれほどないものの、雲を見透かすことができないほど粉雪が空に満ちていた。野も木々も分厚い白銀で覆われ、ところどころに覗く黒い幹が、まるで肉を抉られてあらわになった骨のようだと思ったのは、色も違うというのにどうしたことだろう。
右之介は、雪原の真ん中で、呆然を辺りを見回した。
・・・大坂城の天守へ上がり・・・・・・それから・・・・・・
いや、俺はなにを考えている。
白昼夢でも見たのだろうか。こんなところでぐずぐずしていては凍える。早く帰らなければ。
彼の屋敷はもう遠望できるというのに、さきほどからいくら進んでも近づいた気がしない。必死に黙々と両足を動かし、ようやくたどり着いた頃には、全身汗だくのうえ肩で息をしていた。
今朝家屋の周囲を除雪したばかりだというのに、膝ほどまで雪が壁を隠している。隣家まで訪ねただけだが、雪中の踏破は時の感覚を狂わせるようで、なるほど腹が空いているのも、慣れない運動に難儀したからというだけではないらしい。
戸口で、右之介は奇妙なものを見つけた。戸へと続く足跡だ。見ると、屋敷裏へと伸びている。
小首をかしげながら戸を開けて、右之介は得心した。見知らぬわらじが、土間でひっそり濡れていた。
「客か」
しかし、やはり解せないことには変わりない。この大雪の中、街道方面からではなく、裏手の林から来る客。
まあ、いい。じきに迎えにくるであろう妻へ訊ねればわかる。
戸を閉めると、右之介は生き返った気持ちで、水分を吸ってすっかり重くなった蓑を脱いだ。かまちに腰しかけ、冷え切った土間の空気を思い切り吸い込む。今まで雪の中にいた彼には、人いきれのようなぬくもりに感じた。
じきに老僕が湯を持ってくるだろう。湯で足を洗い、湯飲み一杯で体を奥から暖めるのだ。かじかんだ足先がひどくむずがゆい。
妻と老僕の名を何度か呼んで、右之介はようやく気付いた。
血の臭い。
素早く身を翻し、彼は屋敷内の気配を探った。
奥で声がする。
汚れた足で廊下を駆けると、すぐに倒れている二人の老夫婦を見つけた。
流れる血を見て凶行から時間が経っていないことを知り、奥へ走る。右手は刀のつかを握っていた。
居室。襖に手をかけた瞬間、この世で最も聞きたくない悲鳴を、耳が確かに捉えていた。
襖を開けるのももどかしく、蹴破ると同時に刀を抜いた。
右肩から鮮血を迸らせる妻は、たしかに右之介の顔を見て、崩れるように倒れた。
理性が無明の闇に覆いつくされた瞬間だった。
血刀を握る粗野な風体の武士くずれが、なにか言っていた。
なにも聞こえなかった。
気付いた時には男へ体をぶつけていた。二人の間で、刃と刃が火花を散らしてお互いを噛み合っていた。
右之介は勢いのまま突進を続けた。縁側の感触を足の裏が感じ取った次の瞬間には、木戸をぶち破って二人は雪の上へと転がり落ちた。
「なぜだぁッ」
右之介はわめいた。
組み合った時、男の体が暖かいことに気付いた。右之介の、生き残るために成長した獣じみたいくさ場の心は、我を忘れていても冷静な観察力を発揮していたのだ。
隣家から帰るだけで凍える雪の中、客の体が温かい理由は一つ。妻と老僕とが親切心で男を迎え入れももてなしたからに違いない。その彼らを、体が温まった途端に斬り殺す非道。
「いい屋敷だ」
下半身の半ばまで雪に埋もれさせて、男は血に濡れた刀をかまえた。
「雪がおさまるまで借りるぞ。街道からも遠く、人の往来もない。わしのために、いいところへ屋敷をかまえてくれた」
挑発だと、心の隅でささやく声がする。右之介の技量を感じ取った男が、心理戦を展開しているのだと。
だが、心の声に、今の右之介は耳を傾けはしない。
屋敷を借りる。そんなことのために。野盗の類いか誰かから逃げているのか知らないが、たかが数日の屋根を得るために、妻を、よく尽くしてくれた心やさしい老僕を、いともたやすく葬り去るのか。後は屋敷の主を始末するだけだと、その程度に考えているのか。
右之介の怒りは雪をも溶かすかとさえ思えた。
「あの女、かわいがってやろうというのに抵抗しおる。生かしておこうと思ったに、残念な話よなあ」
挑発など無駄だ。これ以上右之介の心が乱れかき回され押し潰される状況など、ありはしないのだから。
人語ではないなにものかが、右之介の咽喉奥から発せられた。まさしく獣の咆哮だった。
彼は駆けた。
階段を降りた右之介を、ゆうが駆け足で追ってきた。
「どうしたの、ぼうッとして」
「お前、見えなかったのか」
「なにが」
ゆうは不思議そうに首をかしげている。
「すごく見晴らしのいい天守だったけど」
不満そうな顔はそのせいか。結局、彼女はここでぼさつに会えなかった。
天守では。
「そうか」
さぶろうが、右之介を迎えた。
「ぼさつには会えたか」
その澄ました顔が、すべてを悟っているように見えて、右之介は憮然と「忘れていたことを思い出しただけだ」と吐き捨てるように言った。「この天守はなんだ」
「この地には、不思議な場所がいくつかある。人にもよるが、なにかを見たり、感じたり、時にはぼさつに会う。この天守もその一つだ」
すました顔で言って、さぶろうは「おぬしはどうだった」と平然と訊ねてくる。超然とした表情が右之介の癇に障った。
「さぶろう、お前が、自分こそぼさつだと言えば、納得もするしあきらめもするが」
さぶろうはしばらく右之介の顔を見つめ、やがて笑い出した。
くそ、と右之介が心中で吐き捨てた。
けっきょく訊ねる相手が他にいない。
「ぼさつは、浄土へ行けるのに、自ら地獄へ落ち、亡者を救うと聞いた」
「そうだ」
「では、ぼさつにならず、そのまま浄土へ行ったものは、なんという」
さぶろうは、少し考えた。
「普通の人でも、浄土へは行けるらしいが、ただ、浄土を造り出すほどの存在ならば、それは如来だな」
「如来」
「そうだ。悟りを得、六道輪廻を飛び越える力を持つ者。それが、どうかしたか」
なにか言おうとして、右之介は口を閉ざした。
簡単に言えることではない。
天守で見た幻のごとき過去の記憶を、右之介は思い出した。
男は雪に埋もれて倒れた。首からは鮮血が吹き上がり、無垢の白銀を真紅に染めた。遠くで、男の刀が音もなく雪中へと沈んだ。
男の死を見た瞬間に、右之介の感情は温度を急激に低下させていた。
なにをしている、俺は。
半ばで折れた刀を雪の中へ放り投げ、急いで屋敷へと戻った右之介は、妻のかたわらに跪き、手の置き場も失って狼狽した。
「たいした傷ではない、すぐ治る」
そう声をかけると、妻は苦しげに呻いて目を開けた。
傷は致命傷だった。生きていること自体奇跡に近い。だが、それは残酷な奇跡だった。
「怖いです」
蚊の泣くような妻の言葉に、涙が一度にあふれ出た。
「心配するな、すぐに・・・・・・」
「あなたが馬鹿をしないか、とても不安なの」
呆気にとられた。
なぜ死の淵で笑っていられる。
「あたしは、平気、だから」
平気なわけはないだろう。右之介の脳裏で怒声があがり、そのまま言おうとして口が開かなかった。
どうすればいい。なにをすればいい。いくさ場でなら、こんな時は・・・・・・
逡巡し、右之介は妻の着物の衿を掴んだ。
「楽に、してやる」
抵抗されるかと思ったが、妻は死相へ微笑を浮かべた。
口が動く。
あなたの手にかかるなら、とまで動いて血を吐いた。
もはや、苦しみを長引かせないこと、それだけが彼にできる唯一のやさしさ。
こんなことが、人へ示すいたわりなのか。今はなき父に心中で問いかけた。こんな非理、不条が許されてもいいのか。
これほどに無力な自分はかつてない。
今まで、自らの腕でなんとか前へ進むことができた。なのに、今、最も愛する妻の胸へ、捨てた大刀の代わりに脇差を、さかしらに突き立てている。
「地獄へ落ちるだろうな、俺は」
ふとつぶやいたのはなぜか。
妻は笑った。
「あたしも一緒に」
「ならぬ。お前は上から見ていろ。俺は、明王天魔相手にあがけるだけあがいてみせる。
心の臓を一突きにする。さらばだ」
そう告げて、一息に全体重をつかへとかけた。剣先は畳をも貫いて、止まった。
涙が、透き通る白い肌の上へ落ちた。
妻の亡き骸を前にして、右之介には自分の咽喉へ突き付けた切っ先の冷たさだけがあった。
生きていくこと、それは彼の思考の領外のことで、一顧に価するとさえ思えなかった。
「武士」の精神構造が生み出す結果ではありえない。理性的思考の導く正解ですらない。感情論でも間違っているかもしれず、命の冒涜とさえ言える。だが、右之介にとっては、しごく当然の結末だった。
それほどまでに、妻はすべてだったのだ。
自らの咽喉を刺し貫いた時、右之介は、目の前にまぼろしのごとき光を見た。
光の玉だ。部屋にあるすべてを覆い隠してしまうほどの、まぶしい光の玉が、眼前にあった。
わけもわからずうろたえていると、光の中から伸びる美しい両腕が見えた。腕の持ち主は光の渦の中にあって、まぶくて見ることもできない。
その両腕が、二人を抱き上げようとするのを見て、右之介は、理屈ではなく、生まれる前に教えられたことを思い出したかのように、うっすらと理解した。
この手は、導こうとしているのだ。
神々しい輝きを見れば、行き先は知れた。
右之介は首を振った。
「俺は行かぬ」
潰れた咽喉が発声したことに疑問はなかった。
たおやかな手が、右之介の頬に触れた。
「浄土へなど行かぬ。行けぬ。地獄の業火へ突き落としてくれ」
妻さえも救えなかった無能なこの身を切り裂き、血をすすりとり、骨を砕いてくれ。そうでなければ、心を消して、亡者を斬り鬼を踏み砕く悪神にしてくれ。
手は、やさしく右之介の頬を撫でた。
悲しげな手だ。彼の最期の意識はそう感じた。