十、
蜘蛛の巣の横で、ゆうはしゃがみ込んでいた。膝を抱え、地面を見据え、時折り巣の下を見やって嘆息する、その微かに震える小さな背中を見た時、右之介は思わず微笑を浮かべた。
ゆうと出会えたのは天佑だった。彼女がいなければ、地獄での彷徨がどれほど殺伐としたものになっていただろう。いくさに飢える悪鬼へと堕していたかもしれないのだ。だが、血臭うずまく闇の中に、心安らぐ小娘の笑顔がここにある。
呼ぶと、はじかれたようにゆうが顔をあげ、抱きつかんばかりの勢いで立ち上がった。相も変わらず満面に笑顔が張り付いている。
「遅いわ」
「自害すれば早いのだろうが、まだじごくに慣れぬ」
「ごずは」
右之介はうなずいた。
「大坂城へ行く」
以前と違って、廓内は激しい攻防が暴風雨のように荒れ狂っていた。
右之介は肩に刀をかつぎ、走りに走って立ちふさがる者をなで斬り、突き落とし、えぐり殺していった。
やぐらも屋敷も仮小屋も炎につつまれ、辻辻のどこにも陰がなく、なにものもが赤一色にゆらめいていた。
視界のはじでゆうが駆けているのを確かめながら、右之介は最後のから堀を渡った。開け放された桜御門を通り、巨大な石組みを迂回して、本丸を正面に見上げる辻へと走り出す。
火の勢いは依然強いが、兵の数はぐんと減っていた。
怒号がする方へ、半壊している建屋を廻っていく。
炎を背にしたおにぱらいは、さながら明王であった。右手に槍をかつぎ、左手の大刀で、まるで大根でもあしらうように、造作もなく武者の首を切り落とし、あまつさえ鉄のかぶとまでを切断した。
「離れていろ」
ゆうへ一言告げ、直後には右之介の頭の中からゆうの面差しが消えた。
おにばらいが明王ならば、右之介とて、鬼神と呼ばれ恐れられた男だ。戦いに血がたぎらないわけではない。
おにばらいへ向けて走り出す。かついだ刀を肩ではねあげ、上段に構えて突撃する。
轟
とおにばらいが吠えた。その口から炎がほとばしったかのように見え、右之介は思わず立ち止まっていた。。
「来たか、こわっぱぁ、待っておった」
あとは言葉にならぬ裂ぱくの気合。
待て。右之介の心の中で叫ぶ声があった。待て。
俺は、こいつの顔に、見覚えがある。
以前は気付かなかった。右之介が失ったものがあまりに多かったので、思い出せなかったのだろう。だが、今は。
勃然と胸にわいた怒り。
理由はわからない。だが、この怒りは、やこへ感じたものとは比べ物にならない、目もくらむような激怒だ。
「ようもこのわしをたたっ斬った。その首、とくとく差し出せ」
「俺は、お前を斬ったことなどない」
以前は、逆に自分が右之介を斬ったと主張していなかったか。
おにばらいの吐気が、目に見えるように熱くとぐろを巻いていた。
理由のわからない激しい怒りに自身戸惑いながら、化ける、という言葉を思い出し、右之介は叫んだ。
「俺はお前など知らぬ」
気圧されそうになっている、と気付いて、右之介は大きく息を吸い胸空に貯めて、下腹に力をこめる。怒りも手伝って全身に気がみなぎる。しかし、わけのわからぬ怒りは、同時に右之介の集中を妨げてもいた。
「ようやく思い出したわ。わしは、貴様の肉を喰らうために、わしは」
「世迷言を」
見覚えがある、という思索を捨てて、右之介は肺がからになるまで息を吐き、もう一度吸い込んで、駆け出した。
またたく間に二人の距離が縮まり、瞬時、右之介は二人の間合い境を越えていた。
死ぬ。直感があった。冷めた直感だった。
必殺を込めて打ち下ろした右之介の斬撃を、おにばらいが下から迎え撃つ。
激しい衝撃が腕を震わせ、耳に残る棲んだ音が響き、折られた右之介の切っ先が空中に舞って炎の光を反射した。
おにばらいの逆袈裟の太刀。
ほんの瞬間、右之介の脳裏が時を忘れた。
死。もう一度、やり直し。冷めた感想だった。だが。
心の暗闇にゆうの顔が浮かんだ時、突然、死の恐怖が心臓をわしづかみにした。と同時に、行き場を失っていた激怒がすとんとおさまるとろへおさまり、わけはわからないままに、心の闇を照らし、体を支配した。
おにばらいの刃が振るわれる前に、絶妙の調子で右之介は体を縮ませもう半歩飛び込んでいた。伸び上がるようにして、交差した腕を突き上げる。狙いは、おにばらいの刀のつか。
二人の体が交わった時、おにばらいの刀はつかごと飛び、その首筋を、右之介の折れた刀のはばき元が、ざっくりと荒々しく裂いていた。
血が、噴出した。
おにばらいを斬った。
それだけで、右之介は精魂を使い果たしたような気がした。体力ではなく、気力を限界まで失って、呼吸も整えられない。
なぜ勝てたのかわからない。とてもではないが、おにばらいは人の勝てる相手ではなかった。死ぬとわかった。だから絶望した。なのに。
俺は生きている。
「立って、早く」
ゆうが腕を引いているが、体が動かない。
足音が近づいてくる。おにばらいの作り出していた兵の真空地帯は、彼の死によって、外部から急速に兵を集めようとしている。余力のない今の右之介では、無抵抗に斬り殺されるだけだ。
鞘を杖代わりにし、ゆうの肩にすがった。
「蜘蛛の巣で」
会おう。そう言おうとして、不意に逆の肩を誰かに掴まれ、右之介は思わず体を動かそうとした。
「逃げずとも」
男は笑った。
「よくも、あのおにばらいを斬れたものだ。無手で相手の刀をはじく工夫か」
「見ていたのか」
近くに人の気配などなかったはずだ。
「いい見世物だった。見物料を払ってやる」
「お前、は」
「さぶろうという」
意識が遠ざかる寸前、右之介はかろうじて、ぼさつに、とささやいた。
朽ちた木のきしむ音がする。古い廃屋の濡れ縁を歩くような音。
「ひどいところ」
ゆうの声がする。誰かと話しているのか。しかし。
「何十年、いやもっとか、いくさが繰り返された城だ。外はきらびやかでも、内部は腐りきっている。昔は血の臭いがこびりついている程度だったが、今では、満ちているのは腐者の汚臭だ」
黒ずんだ壁。腐って砕けた梁。豪勢にも敷かれた畳には穴があき、むかでが走っている。
「これが、大坂城か」
さぶろうの背中で目覚めた右之介は、まずつぶやいた。
「天下の名城か」
「つわものどもがひたすらに追い、駆けた天下が、これだ」
さぶろうの声は静かだ。抑揚の少ない、表情を感じさせない声音には、地獄のどこで聞いた声とも違う独特の落ち着きがあった。
「今、ゆうと話していたな。ゆうが見えるのか」
「見えぬ」
どういうわけだ、とゆうを見やっても、困ったような、悲しげな表情を返してくるだけだ。
「気配で誰かがいるのは知れる。問いたいと思うであろうことを説明してやっていた」
「やさしいことだ」
皮肉ではなくそう言うと、さぶろうが微かに笑った気配がした。
「忍びだと聞いた。気のやさしい忍びなど、聞いたことがない」
「昔かたぎの忍びを知らぬな」
気に入ったのだ、とさぶろうは言った。
「じごくでは、誰もが真の意味て死を恐れぬ。死を恐れぬ者に強者はいない。絶望を知らぬ者は気に入らぬ。ひととは、怒り、悲しみ、泣くものだ」
「なにが言いたい」
「おぬしのような男は、じごくでは珍しいのだ。真実絶望してのちに心身が自儘に躍動する。恐怖を御し、怒りは己れのためばかりではない」
「人の心が見えるような言い様だな。もう降ろしてくれ。歩ける」
時折り、呆けた表情の者が座り込んでいた。死んだように寝転がっている者もいる。誰もがもともと豪奢であったと思われる古びた甲冑を着ていた。
「この男も」
途中、あぐらをかき絵地図を眺めている老人の前で、さぶろうは言った。
「昔はそうだったと聞く。武勇にも励んだが、より己れの恐怖に従順で、またよく恐怖を御していたらしい。それは、臆病ではない。
もっとも、最期には恐怖を御しているつもりで抑えきれず、やがて食い潰された」
老人は、壮麗なかぶとの奥で、えっえっと笑っていた。
見回すと、この階には老人しかいない。だいぶ狭くなっていた。
「俺はここまでだ。そこから、上がれ」
階段の前で、さぶろうが階段の上を指差した。戸が頭上を塞いでいた。
「この上に、ぼさつが」
「行ってみねばわからぬ。ただいくさの趨勢を眺めるだけに終わるかもしれぬし、違うものが見えるかもしれぬ。何人か、この天守に連れてきたが、一人か二人、ぼさつに会ったと言っていた」
ゆうを見ると、彼女は閉ざされた戸を見つめ、胸を押さえるように拳を握っていた。
「行こう」
重い体を引きずるようにして、一歩ずつ、急な階段を上っていった。