九、
「ぼさつ、か」
ごずはつぶやくと、難しい顔を天へ向けた。
右之介はごずを追って歩いている。正確には好き勝手歩く牛の尻を追っていた。
「知ってどうする」
「じごくを出る」
「出る、ではないな」ごずの手が尻尾を捕まえた。「消えるのだ」
「消える」
「じごくを出て、どこへ行こうというのかね」
ごずは尻尾を引っ張り、牛が抗議の鳴き声をあげていた。
「浄土へ行けなかった者が、じごくに落ちるのだから、もとより浄土へは昇れまい。現世に甦ることもできぬ。なら、どこへ行く。行けるところなぞ、あるのかね」
「あるかもしれぬ」
「いいや、ない。少なくとも、聞いたことがない。聞いたのは、じごくを出れば、魂が消滅するという話だ」
右之介の困惑顔を見て、ごずは小さく笑った。
「考えても見よ。
じごくはたしかに苦しいな。老いず病めず死せず、永遠に続く連鎖のような生、そして永遠の苦痛。
しかし、少なくとも苦を苦と感ずる心は存在し、時に海を眺めて我を忘れ、時に詩歌を吟じ、楽曲の音に身をゆだねることもできよう。
消えてしまえば、なにもできぬ。なにも感じぬ。無だ」
無。右之介は字面を思い浮かべて、なぜか空恐ろしい悪寒に背筋を震わせた。
「人も人のおこないも、すべては無であると説くのが坊主の仕事だが、わしはしょせん俗人らしい、真に無となることに畏れを感じる。おぬしには恐怖はないか」
ある。
いくさで最初に教わったこと、それが恐怖だった。死への恐怖、それが右之介をして生き残らせたと言っても過言ではない。「死にたくない」が「死ぬわけにはいかない」という決意に変わっても、死は恐怖の対象だった。
否、死の向こうにある虚無を恐れたのだ。
「俺は、死ねばなにもなくなると考えていた」
牛の尻尾を眺めながら、右之介は独白のようにつぶやいた。
「体が動かなくなり、目も見えなくなる。喋ることもできず、考えることもできぬ。無だ。他の者は浄土へ行けると信じていたようだったが」
脳裏に、極楽往生と叫んで死んでいった餓鬼のごとき人々の最期が浮かんだ。
「俺はそんなことを信じてはいなかった。意識がぷつりと途切れてそれでおしまい。だからこそ死の向こうにある無を恐れたし、必死に生きた。
しかし、ここはなんだ。浄土は知らぬが、少なくともじごくはあった。死を恐れる必要のない、恐怖のない世界が」
ごずは、時々尻尾を笛で引っぱたいたりしながら聞いている。
「ならば、坊の恐れる無の向こうにも、なにかがあってもおかしくはない。違うか」
視線をあげると、まじまじと右之介を見つめるごずと目が合った。
やさしい目だ。右之介はそのやさしさに気圧された。ゆうの持つやわらかなやさしさとは違う、おおらかな慈愛。
不意に、忘れていた亡父の顔を思い出し、右之介は身も世もなくうろたえた。
やさしい父ではなかった。だが、なぜか、人へのいたわりの心を教えてくれたのは、父だったような気がする。お前は一人前と言いながら、いつまでも右之介を子ども扱いして、その大きな手で妻と息子を支え続けた。病身に鞭打ち支えに支え、力尽きるまであたたかいその手を差しのべ続けてくれた。
なんでこんなことを、こんなところで思い出さねばならない。
理不尽にも涙がこみあげてきて、右之介はぐっと歯を噛み締めた。
「恐怖のない世界かね」
ごずは静かに言った。
「確かに死にはせぬ。だが死だけが恐怖ではない。痛苦を恐れるもの、嘲りに耳を塞ぐもの、孤独に打ちひしがれる者、様々だ」
「しかし・・・・・・」
「まあ、聞け。わしは多くの亡者を見てきたのだからな。
みな、それぞれの恐れに合った苦痛が、与えられる。それが、じごくだ。
おぬしは、今、なにを恐れる」
「恐れはせぬが、いくさに取り付かれている」
「そういうやからは実に多い。帰ってくるとわかっていても死を恐れ、他者を踏みにじることを恐れ、傷や火傷を恐れ、そのためにいくさに取り付かれる」
「別に恐れてなどいない」
「そうかな」
右之介の心中を察するかのように、ごずは笑ってからかった。
「ひとを斬るのはイヤではないかね」
行為を嫌悪するのと恐れるのは違う。そう言おうとして、右之介は唖然とした顔でごずを見つめた。
なぜそれを知っている。
「言ったであろ。多くの亡者を見てきたと。現世でも様々な人間と出会った。おぬしのような小僧っこの考えることなど、お見通しよ」
黙らざるをえない、年季の違いという迫力が笑顔ににじんでいる。
「亡者どもはな、みな、自らの罪の意識に苛まれておる」
やこを思い出して「信じられぬ」と言った右之介は、しかしごずの言葉にうなずきかける自分も意識していた。
「おもてでは、みな違う顔をする。なぜわしがじごくへ落ちるのか、と世の不条理を怒り嘆く。ところが、その実、亡者たちは苦しみを望んでいるのだ。己が罪業に見合う罪科を、と。自身気付いておらぬかもしれぬが、わしには感じられる。この身を引き裂いてくれと懇願する悲鳴が」
右之介は自分の手のひらを見つめた。俺の罪業に見合う罪科はなんだ、と考えながら。
「心の奥底では罰を欲しているのだから、みな、本心ではじごくを出ようとは思わぬ。ぼさつに会ったという者もいたが、救いを求めずじごくに残ったと言うやからがほとんどだ。心が、じごくを望む。
さきほどの、魂の消滅の話だが。そんな、じごくの苦痛に捉えられたいやしい心が作り出した、ただの噂話だ」
最後まで聞いてから、しばらくして、右之介は「は」と間抜けに口をあけた。
「噂話。では、坊は俺を脅しただけか」
「ぼさつなんぞに会うたところで、ろくなことがないとも聞く。地獄の慈悲は、現世の慈悲とは異なるでな」
「しかし、ぼさつは・・・・・・」
「もし首尾よくじごくを出たところで、もし噂が真実を言い当てていたらどうする。現世で死から戻った者がいないように、じごくでも、その先から戻った者はおらぬ。だから、まことじごくを出たらどうなるか、誰にもわからぬのだ。
おぬしのような男は、じごくでは珍しい。消えてなくなるのは惜しいと思っただけだ」
右之介が黙って睨んでいると、ごずはおかしそうに笑って牛の尻をぺちんとやった。
「しかし、決意は固いようだ。それも、どうやら自分のための決意でもなさそうだ」
「坊にはあずかり知らぬことだ」
「ぼさつに会いたいなら、まずさぶろうに会え」
右之介の言葉を無視して、ごずは言った。
「古株だ。気に入った亡者を先導する。もしかしたら、おぬしをぼさつの前へ連れていくかもしれぬ」
「どこにいる」
「そんなもの、自分で探せ。と、いうのも、死にたてのおぬしには酷だな」
ごずはふうむと空を見上げた。右を向き、左を向き、地面へ視線を落としてなにやら探している。
「なにを」
「さぶろうは忍びだ。忍びは運気を見る。雲の色、木々の騒ぎ、燐光を見ることもある。それでなるたけよい雲気を選ぶものだ。ふむ、この方向で、あの距離。大坂城か本能寺の辺りであろうよ。小さい大坂城だ、わかるか」
「大坂城なら一度、見に行った」
「どこまで行った」
「桜御門」
「おにばらいに斬られたか」
気をつけることだ、と言う言葉とは裏腹にごずは楽しそうに笑っている。「あれも最近は鬼気迫ってきておる。そろそろ、化けるぞ」
「化ける」
「こいつは、自分の目で確かめよ」
さぶろうの人相を聞き、礼を言う右之介へ、やさしい目を向けてごずは言った。
「ぼさつと会うことが、幸いとはかぎらぬ。亡者のことなど気にも留めぬぼさつもいると聞くからな」
「ぼさつ、も。ぼさつとは何人もいるのか」
「そういう噂だ。実はよく知らぬ」
ぺろり、とごずは舌を出した。