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俺の知らないところで、甘すぎる義妹と初恋の幼馴染が天敵の玩具になっていた 〜「お兄ちゃんを守るため」の嘘はやがて言い訳になり、二人は同時に彼の血を宿す〜  作者: ラズベリーパイ大好きおじさん


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前編

大崎蓮が二十一歳の春に通っていたのは、都内にある映像とデザインの専門学校だった。高校の延長みたいな顔をした建物に、成人した学生たちが毎朝吸い込まれていく。自由な校風。実力主義。そうパンフレットには書いてあったが、自由という言葉は、強い者が好き勝手をするための余白にもなる。


蓮は、その余白で踏まれる側だった。


「おにいちゃん、今日のお弁当、卵焼き甘めにしたよ」


朝、玄関で靴紐を結んでいると、義妹の大崎彼方が小さな包みを差し出してきた。彼方は二十歳になった今でも蓮をそう呼ぶ。血は繋がっていない。蓮の父と彼方の母が再婚したのは、蓮が中学二年、彼方が中学一年の頃だった。最初は互いにぎこちなかったのに、彼方はいつの間にか蓮の後ろをついて回るようになり、いつの間にか「おにいちゃん」が当たり前になった。


「悪いな、毎日」


「悪いって思うなら、ちゃんと全部食べてね。最近また痩せたでしょ」


「課題が忙しいだけだって」


「ほんとに?」


彼方は疑うように蓮の顔を覗き込んだ。大きな目。柔らかい髪。家ではいつも少し大きめのカーディガンを羽織っていて、袖口から指先だけが出ている。その仕草を見るたび、蓮は昔と変わらない妹だと思う。買い物に行けば腕を組んでくるし、夜遅く帰れば玄関で待っている。蓮が風邪を引けば勝手に部屋へ入って額に手を当てる。


甘すぎるくらい甘い義妹。


だからこそ、学校で起きていることだけは知られたくなかった。


「ほんとだよ。彼方こそ、今日は一限からだろ」


「うん。でも、おにいちゃんと途中まで一緒に行けるから早起きした」


「子どもか」


「妹だもん」


そう言って彼方は笑った。


その笑顔を見ると、蓮は胸の奥に溜まった重いものを少しだけ忘れられた。彼方には綺麗な場所だけ見ていてほしい。自分が廊下で肩をぶつけられていることも、ロッカーに嫌がらせのメモを入れられていることも、課題データを消されかけたことも、知られたくなかった。


蓮の学校には、高輪レオンという男がいた。


二十二歳。読者モデルのような顔立ちで、動画配信でもそれなりに知られている。高い身長、整った鼻筋、笑えば誰もが少し息を呑むような目元。服装も声も仕草も、全部が自分をよく見せるために計算されているような男だった。金もある。親が有名な投資家で、学校のイベントにも協賛している。講師たちもレオンにはどこか甘い。


そしてレオンは、学校中の女子学生を自分の周りに置いていた。


付き合っているのか、遊んでいるのか、誰にもわからない。本人たちですら、たぶんわかっていない。ただ、レオンに名前を呼ばれた女子は嬉しそうに笑い、次の週には泣いていて、その翌月には別の女子が同じ席に座っている。そんなことが何度も繰り返されていた。


蓮がレオンに目をつけられた理由は、今でもはっきりしない。


最初は些細なことだった。グループ制作の授業で、レオンの案に蓮が修正意見を出した。それだけだ。蓮としては普通の議論のつもりだった。けれどレオンは笑った。


「大崎ってさ、地味なわりに空気読まないよな」


そこからだった。


昼休みに席を取られる。課題の素材を勝手に移動される。通りすがりに鞄を蹴られる。女子たちの前で「妹に弁当作ってもらってるんだっけ? 成人してそれはキツいわ」と笑われる。ひとつひとつは大事にしづらい。講師に言えば「学生同士でうまくやりなさい」と返される程度の嫌がらせばかりだった。


けれど毎日続けば、人は少しずつ削れる。


「お、大崎。今日も妹弁当?」


昼休み、食堂の端で弁当を開けようとした蓮の前に、レオンが立った。後ろにはいつもの取り巻きと、数人の女子がいる。蓮は弁当箱を閉じた。


「何」


「いや、いいなと思って。俺も欲しいわ、そういう何でもしてくれる妹」


女子たちが笑った。


「彼方のことを変なふうに言うな」


蓮が低く言うと、レオンはわざとらしく眉を上げた。


「おお、怖。おにいちゃん怒った」


周りがまた笑った。その笑い声の中に、蓮の幼馴染である目黒いろはの声はなかった。いろはは少し離れた席に座り、こちらを見ないようにスマホを触っていた。


昔のいろはなら、絶対に黙っていなかった。


幼稚園からの付き合いで、蓮より少しだけ気が強く、少しだけ口が悪く、でも誰より面倒見がいい。蓮が言い返せずにいると、いつも彼女が前に出た。小学生の頃、蓮の上履きを隠した男子に「蓮を泣かせたら許さない」と言って本当に泣かせたこともある。高校時代には、彼方のことを可愛がって「私が蓮と結婚したら彼方ちゃんのお姉ちゃんだね」なんて冗談を言い、彼方を真っ赤にさせていた。


そのいろはが、今はレオンの周りにいる。


髪色が明るくなった。服の趣味も変わった。香水の匂いがする。笑い方も、以前のように口を大きく開けて笑うのではなく、相手の顔色を見ながら唇だけで笑うようになった。


蓮はずっと気になっていた。けれど聞けなかった。


聞けば、何かが壊れる気がした。


「大崎、午後の撮影、遅れるなよ。お前が遅いと全体が止まるんだから」


レオンはそう言って、蓮の弁当箱を軽く指で弾いた。わずかに傾いた箱を蓮が押さえる。中身は崩れなかった。それだけで、妙に安心してしまう自分が情けなかった。


午後の撮影では、蓮が準備したバッテリーだけがなぜか充電されていなかった。予備も見当たらない。レオンは皆の前で肩をすくめた。


「また大崎かよ。ほんと使えないな」


蓮は反論しなかった。反論すれば、余計に笑われるだけだと学んでしまっていた。


その日の帰り、駅前で彼方が待っていた。


「おにいちゃん」


呼ばれて、蓮は慌てて表情を作った。


「どうしたんだよ。先に帰っててよかったのに」


「今日は一緒に帰りたかったから」


彼方は蓮の鞄を見て、眉を寄せた。


「それ、泥ついてる」


「ああ、落とした」


「袖も。ちょっと伸びてる」


「撮影で引っかけた」


「目、赤い」


「眠いだけ」


彼方は黙った。


蓮は笑ってみせた。


「心配しすぎだって」


「おにいちゃんは嘘が下手」


「嘘じゃない」


「じゃあ、言いたくないことがあるんだ」


その言葉は鋭かった。蓮は答えられなかった。彼方はしばらく蓮を見つめていたが、やがていつものように腕を絡めてきた。


「いいよ。今は聞かない」


「彼方」


「でも、ほんとに辛くなったら言って。私はおにいちゃんの妹だから」


蓮は胸が痛くなった。


妹だから、言えないのだ。


いろはがレオンに初めて呼び出されたのは、蓮への嫌がらせが始まって二週間ほど経った頃だった。


場所は学校近くのカフェだった。レオンは奥の席に一人で座っていて、いろはを見るなり笑った。


「来たね、幼馴染ちゃん」


「何の用」


「怖い顔すんなよ。大崎のことで話がある」


その名前を出され、いろはは座った。


「蓮に何してるの」


「何って、ちょっと遊んでるだけ」


「やめて」


「やめてって言われてやめるほど、俺いい子じゃないんだよね」


レオンはアイスコーヒーのストローを指先で回した。


「でも、条件次第ではやめてもいい」


「条件?」


「俺と付き合ってよ」


いろはは一瞬、意味がわからなかった。


「は?」


「正確に言えば、俺の言うこと聞いて。そうしたら大崎には手を出さない」


「最低」


「うん。よく言われる」


レオンは笑っていた。悪いことをしている自覚がない笑顔ではない。悪いとわかった上で、それでも許されると知っている笑顔だった。


いろはは立ち上がろうとした。けれどレオンの次の言葉で止まった。


「大崎、けっこう限界っぽいよな。ああいうタイプって、折れると長いんだよ」


「……やめて」


「だから言ってるじゃん。君が俺のところに来るなら、やめるって」


いろはは蓮の顔を思い浮かべた。


小さい頃から知っている顔。泣くのを我慢すると、必ず下唇を噛む癖。困った時に笑って誤魔化す癖。彼方に心配をかけまいと、何でも飲み込む癖。


いろはは蓮が好きだった。


ずっと好きだった。


告白するタイミングを逃し続けたまま、彼方が義妹になり、蓮の生活の中心が少しずつ彼方に寄っていくのを見て、それでもいつか自分の気持ちを伝えられると思っていた。


その蓮が、レオンに壊される。


「私が言うこと聞いたら、本当に蓮には何もしない?」


「する理由がなくなるならね」


「約束して」


「いいよ。約束」


軽い言葉だった。


けれど、その時のいろはには、それに縋るしかなかった。


最初の夜、いろはは泣いた。


詳しいことは誰にも言わなかった。蓮にも、彼方にも、自分自身にも。あれは取引だった。蓮を守るためだった。そう言い聞かせた。レオンに触れられるたび、心を遠くに置き、天井の模様だけを見ていた。終わったあと、洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、知らない女がいると思った。


それなのに、レオンは優しかった。


優しくするのが上手かった。


翌日には「昨日、無理させた?」と気遣うようなメッセージを送ってきた。いろはが返事をしないと、「大崎には何もしてないよ。偉いね、いろは」と続いた。偉い、という言葉が嫌だった。嫌なのに、蓮が無事ならそれでいいと思った。


二度目、三度目になる頃には、レオンは蓮の話をしなくなった。


いろはも聞かなくなった。


聞かなくても、レオンの周りにいる限り蓮への嫌がらせは少し減った。それだけで十分なはずだった。けれど、いつしかいろははレオンの通知を待つようになった。彼が他の女子と笑っていると胸がざわつき、彼に名前を呼ばれると安心した。


蓮を守るため。


その言葉は、最初は鎧だった。


やがて言い訳になった。


最後には、ほとんど意味を持たなくなった。


ある日の夕方、レオンは喫煙所の裏手にいろはを呼んだ。校内は禁煙だが、そこは誰も見ない。レオンは壁にもたれ、スマホを眺めていた。


「彼方ちゃん、呼べる?」


いろはの体が強張った。


「何で」


「何でって、会いたいから」


「彼方ちゃんは関係ない」


「関係あるよ。大崎の妹だろ」


「義妹」


「どっちでもいい。あの子、可愛いよな。前から気になってた」


いろはは首を横に振った。


「やめて。彼方ちゃんはだめ」


「だめって言われると欲しくなる」


「レオン」


「なに、まだ大崎の幼馴染気分?」


その言葉に、いろはは黙った。


レオンは近づき、いろはの顎を指で持ち上げた。


「お前、俺のこと好きだろ」


「……」


「だったら協力してよ。俺が機嫌悪くなったら、また大崎が困るかも」


「卑怯だよ」


「知ってる」


レオンは笑った。


「でも、いろはは呼ぶよ。蓮くんを守りたいんだもんな」


その夜、彼方のスマホにいろはからメッセージが届いた。


蓮くんのことで話したい。大事なこと。駅裏のラウンジに来られる?


彼方はすぐに返事をした。


おにいちゃんに何かあったんですか?


来ればわかる。お願い、一人で来て。


彼方はその文章を何度も読んだ。嫌な予感がした。けれど蓮の名前を出されれば、行かない選択肢はなかった。


駅裏のラウンジは、学生が気軽に入るような店ではなかった。薄暗い照明。低い音楽。個室に案内されると、そこにはいろはとレオンがいた。


「彼方ちゃん」


いろはが立ち上がった。けれどその顔は青白く、目が泳いでいた。


「いろはさん、これは」


「ごめん」


その一言で、彼方の背筋が冷えた。


レオンはソファに座ったまま、軽く手を上げた。


「初めまして、ではないか。学校で何度か見たよね。大崎彼方ちゃん」


「高輪、レオンさん」


「名前知ってくれてるんだ。嬉しいな」


彼方は入口の方へ一歩下がった。


「帰ります」


「帰ったら、明日から蓮くんがまた大変かも」


足が止まった。


レオンはスマホをテーブルに置いた。画面には、蓮が廊下で数人に囲まれている写真が映っていた。別の写真には、蓮の鞄が床に落ちている。笑っている学生たちの中心に、レオンがいた。


「何、これ」


彼方の声が震えた。


「お兄ちゃん、何も言ってない?」


「……」


「言わないよね、ああいうタイプは。妹に心配かけたくないから」


レオンの言葉が、彼方の胸に刺さった。


「あなたが、やってるんですか」


「俺だけじゃないけど、俺が止めれば止まる」


「だったら止めてください」


「ただでは無理」


レオンはそこで初めて立ち上がった。


「俺に抱かれろ、って言ったらわかりやすい?」


いろはが顔を伏せた。


彼方は息を呑んだ。言葉の意味はわかった。けれど現実のものとして受け取るには、あまりに醜すぎた。


「最低」


「さっきも聞いた」


「こんなの脅しです」


「そうだよ」


レオンは少しも悪びれなかった。


「でも彼方ちゃん、蓮くんを助けたいんだろ」


「警察に言います」


「言えば? 証拠が揃う前に、学校中に蓮くんが妹に泣きついたって広まるだけだけど。俺の親が学校にいくら出してるか知ってる? 講師たちが誰の味方するか、試してみる?」


彼方の指先が冷たくなった。


いろはが小さく言った。


「彼方ちゃん、ごめん」


彼方は振り返った。


「いろはさん、知ってたんですか」


「……うん」


「どうして」


いろはは泣きそうな顔で笑った。


「私も、同じだったから」


「同じ?」


「蓮くんを守りたくて、レオンくんのところに行った」


彼方は言葉を失った。


この人なら、お姉ちゃんになってもいい。昔、本気でそう思ったことがある。蓮の隣にいろはが立つ未来なら、自分も笑っていられるかもしれないと考えたことがある。そのいろはが、今はレオンの隣に座っている。蓮を守るためだったと言いながら、どこかレオンに縋るような目をしている。


彼方の中で、何かが静かに崩れた。


「いろはさんは、まだおにいちゃんのことが好きなんですか」


いろはは答えなかった。


その沈黙が答えだった。


レオンは二人の間に流れる空気を楽しむように見ていた。


「彼方ちゃんはどうする?」


彼方は蓮の顔を思い浮かべた。


朝、弁当を受け取る時の少し困った笑顔。嘘が下手なところ。自分のことになるとすぐ我慢するところ。血の繋がらない妹を、本当の家族みたいに大事にしてくれた人。


彼方にとって蓮は、世界でいちばん守りたい人だった。


「本当に、止めるんですね」


声が震えないように、彼方は拳を握った。


「うん。約束する」


「おにいちゃんに、もう何もしないんですね」


「彼方ちゃんが俺の言うことを聞くなら」


いろはが何か言いかけた。けれど言えなかった。


彼方は目を閉じた。


「……わかりました」


その夜、彼方は自分の心を部屋の外に置いてきた。


ラウンジを出たあと、レオンは慣れた様子でタクシーを呼んだ。いろはは途中で降りた。最後まで彼方の目を見られなかった。彼方は車窓に映る自分の顔を見つめながら、何度も胸の中で唱えた。


おにいちゃんのため。


おにいちゃんのため。


おにいちゃんのため。


それ以外の言葉を考えたら、壊れてしまいそうだった。


帰宅した時、家は静かだった。蓮の部屋の扉の下から薄い明かりが漏れている。彼方はそこに駆け込みたかった。扉を叩いて、全部言いたかった。助けて、と言いたかった。


けれど言えば、蓮は自分を責める。


自分のせいで彼方が傷ついたと、きっと死にそうな顔をする。


彼方は廊下で立ち尽くし、声を殺して泣いた。


翌日から、蓮への嫌がらせは嘘のように止まった。


食堂で席を取られることもなくなった。課題データが消えることもない。レオンの取り巻きたちは蓮を見ると、わざとらしく目を逸らした。廊下ですれ違っても肩はぶつからない。女子たちの笑い声も遠ざかった。


蓮は最初、罠だと思った。


三日経っても何も起きず、一週間経っても平穏が続いた頃、ようやく体の力が抜けた。


「最近、レオンたちに絡まれなくなったんだ」


昼休み、蓮は食堂で彼方といろはにそう言った。彼方は別コースだが、時々蓮の昼休みに合わせて顔を出す。いろはもたまたま同じ席にいた。昔なら自然な光景だった。今はどこか、三人の間に薄い膜が張っているようだった。


「ほんと?」


彼方は明るい声を出した。


「うん。何があったのかわからないけど、助かったよ。最近ちょっと楽になった」


「よかったね、おにいちゃん」


彼方は笑った。笑顔はいつも通りだったが、目の奥が揺れていた。


いろはは紙パックのジュースを見つめながら言った。


「よかったじゃん、蓮」


「うん。二人に心配かけてたなら悪かった」


蓮がそう言うと、彼方といろはが同時に息を詰めた。


「どうした?」


「ううん」


彼方は首を振った。


「何でもないよ。ほんとによかったなって」


「彼方、最近疲れてないか?」


「え?」


「顔色悪い」


彼方は慌てて笑った。


「課題が多いだけ。おにいちゃんこそ、ちゃんと食べて」


「それ、俺の台詞だろ」


三人で笑った。


蓮は久しぶりに心から息をついた。やっと戻ったと思った。昔みたいに、彼方が隣にいて、いろはが向かいにいて、くだらない話で時間が過ぎていく。失いかけていた普通が戻ってきたのだと、本気で信じた。


その日の夕方、彼方のスマホが震えた。


画面を見た瞬間、彼方の指が止まった。


レオンからだった。


今日、来い。


短い文章。


彼方はスマホを伏せた。


「彼方?」


蓮が声をかける。


「ごめん、おにいちゃん。今日、友達と約束あったの忘れてた」


「今から?」


「うん。先に帰ってて」


「送ろうか」


「大丈夫」


彼方は立ち上がる。いろはがその横顔を見ていた。蓮には気づけない何かを、いろはだけがわかっているような目だった。


「彼方ちゃん」


いろはが小さく呼んだ。


彼方は振り返らずに言った。


「平気です」


蓮は二人のやり取りの意味がわからなかった。


彼方は駅とは反対方向へ歩いた。


レオンは学校から少し離れたマンションの前で待っていた。親名義なのか、借りているのか、詳しいことは知らない。ただ、学生が一人で使うには広すぎる部屋だった。


「遅い」


「……すみません」


「蓮くんと仲良くお昼?」


彼方は顔を上げた。


「見てたんですか」


「たまたま」


レオンは笑った。


「嬉しそうだったね、蓮くん。平和になってよかったな」


彼方は唇を噛んだ。


「約束は守ってください」


「守ってるだろ。だから彼方ちゃんも守って」


部屋に入ると、彼方は自分が何か透明な檻の中へ入ったような気がした。ここにいる間、彼女は蓮の妹ではなくなる。大崎家の彼方でもなくなる。レオンが望む名前のない存在になる。


最初は嫌悪しかなかった。


レオンの声も、指先も、余裕のある笑い方も、全部が嫌いだった。けれどレオンは、嫌われることに慣れていた。嫌悪を真正面から壊そうとはしない。薄く甘いものを少しずつ混ぜる。


「髪、少し切った?」


「……切ってません」


「じゃあ結び方変えた? 似合ってる」


彼方は答えなかった。


「蓮くん、気づいた?」


気づかなかった。


その事実が、彼方の胸に小さな棘のように刺さった。


「そういうとこだよな。大事にしてるつもりで、何も見てない」


「おにいちゃんを悪く言わないで」


「悪く言ってないよ。俺は彼方ちゃんを見てるって言ってるだけ」


その言葉も罠だった。


わかっていた。


それでも、誰かに自分だけを見られる感覚は、彼方が思っていたより危うかった。


家では妹だった。蓮の後ろを歩く子だった。可愛がられることはあっても、一人の大人として見られることは少なかった。蓮の優しさは温かかったが、時々彼方を子どもの場所に留めた。彼方自身も、それでいいと思っていた。


けれどレオンは違った。


優しさではなく、欲で彼方を見た。


汚い視線だった。最低な視線だった。なのに、その中に確かに「女として見られている」という毒があった。


彼方はその毒を嫌いながら、少しずつ慣れていった。


慣れることは、楽になることに似ていた。


数週間が過ぎた。


蓮は彼方の変化に気づいていた。


朝、起きてくる時間が遅くなった。弁当を作れない日が増えた。スマホを肌身離さず持つようになった。服の趣味が少し変わった。以前なら蓮に「これ似合う?」と聞いていたのに、今は鏡の前で一人で確認し、蓮が褒める前に外へ出ていく。


「最近、帰り遅いな」


夕食後、蓮が言うと、彼方は箸を止めた。


「友達と課題してるから」


「無理してないか」


「大丈夫」


「何かあったら言えよ」


その言葉に、彼方は一瞬泣きそうになった。


何かあった。


でも言えない。


言えば全部壊れる。


「うん。ありがとう、おにいちゃん」


彼方は笑った。


その笑顔が上手くなっていることに、蓮は気づかなかった。


いろはも変わっていた。


蓮が話しかけても、以前のように軽口を返さなくなった。目が合うと少しだけ遅れて笑う。レオンの姿を見つけると、表情が別人のように柔らかくなる。蓮はそれを見るたび、胸がざわついた。


「いろは」


授業終わり、蓮は廊下でいろはを呼び止めた。


「最近、何かあった?」


いろはは肩を揺らした。


「何で?」


「いや、元気ない気がして」


「蓮に心配されるなんて、私も落ちたね」


冗談の形をしていたが、昔のような温度はなかった。


「高輪と仲いいのか」


蓮が思い切って聞くと、いろはは目を伏せた。


「仲いい、かな」


「やめとけよ。あいつ、いい噂聞かない」


「蓮がそれ言うんだ」


「何だよ」


「ううん」


いろはは薄く笑った。


「蓮ってさ、守られてる側だって気づかないよね」


「え?」


「何でもない」


いろはは歩き出した。


蓮は追えなかった。


その日の夜、いろははレオンの部屋で彼方と鉢合わせた。


彼方は玄関で靴を脱いだまま固まった。いろははソファに座っていた。レオンはキッチンでグラスを出している。まるで当たり前のような空気だった。


「いろはさん」


「彼方ちゃん」


二人の間に沈黙が落ちた。


レオンが楽しそうに言った。


「仲良くしろよ。二人とも蓮くんを守る仲間だろ」


その言葉に、彼方の胃が冷えた。


「私は、おにいちゃんのために」


「うん。最初はね」


いろはがぽつりと言った。


彼方は彼女を睨んだ。


「最初はって、何ですか」


「私もそうだったから」


「私は違います」


「そう言えるうちは、まだそうかもね」


いろはの声には、からかいではなく疲れがあった。


「蓮くんのためって思うと耐えられるよ。でも、耐えられる理由って、そのうち形が変わるんだよ。レオンくんが優しくした時に、少しだけ救われた気がする。自分が選んだことは全部間違いじゃなかったって思いたくなる。そうすると、レオンくんが必要になる」


「やめてください」


「ごめん」


「私は、そんなふうにはなりません」


いろはは彼方を見た。


昔、彼方が自分を姉のように慕っていた目を思い出した。今その目には、軽蔑と恐れが混じっている。


「私も、そう思ってた」


レオンは二人の会話を聞きながら笑っていた。


その夜、彼方は家に帰ってから長い時間シャワーを浴びた。何を洗い流したいのか、自分でもわからなかった。鏡の中の自分は、少し前より大人びて見えた。嫌だった。けれど完全に嫌ではない自分が、もっと嫌だった。


翌朝、蓮が台所に立っていた。


「今日は俺が作る」


「え」


「彼方、疲れてるだろ。たまには兄らしいことさせろ」


不器用な卵焼き。焦げたウインナー。少し硬いご飯。彼方はそれを見て、泣きそうになった。


「おにいちゃん、卵焼きしょっぱい」


「文句言うな」


「でも、おいしい」


「どっちだよ」


蓮が笑う。


彼方も笑った。


この時間だけは本物だった。


だから余計に苦しかった。


蓮が学校へ向かったあと、彼方のスマホが震えた。


昨日泣きそうな顔してたな。今日も来いよ。


レオンからだった。


彼方は画面を見つめた。


嫌だと思った。


同時に、呼ばれて安心している自分がいた。


その事実が、彼方をさらに深い場所へ沈めた。


学校では、レオンが蓮に妙に親しげになった。


「大崎、最近どう? 平和?」


廊下で肩を並べられ、蓮は警戒した。


「何の用だよ」


「いや、前はちょっとやりすぎたかなって。俺、反省してるんだよね」


「お前が?」


「人は変わるんだよ」


レオンは笑って蓮の肩を叩いた。


「困ったことあったら言えよ。俺、味方だから」


吐き気のするような言葉だった。


けれど、蓮にはその裏側が見えなかった。ただ、レオンが急に矛を収めた理由がわからず、不気味に感じるだけだった。


少し離れた場所で、彼方がその光景を見ていた。


蓮とレオンが並んでいる。


レオンの手が蓮の肩に触れている。


その瞬間、彼方は自分が鎖になっていることをはっきり理解した。レオンが蓮に触れないのは、自分がレオンのところへ行くからだ。蓮が平和に笑っていられるのは、自分が嘘をついているからだ。


それなのに、レオンがこちらを見て片目を細めた時、彼方の心臓は嫌な跳ね方をした。


「彼方ちゃん」


いろはが隣に立っていた。


「顔、赤いよ」


「違います」


「何も言ってない」


「違うんです」


彼方は何に対して否定しているのかわからなかった。


いろはは小さく息を吐いた。


「好きになったら終わりだよ」


「好きじゃない」


「そう」


「私は、おにいちゃんのために」


「うん」


いろはは頷いた。


「その言葉、便利だよね」


彼方は何も言えなかった。


季節が少しずつ湿り気を帯びていった。


雨の日が増えた。蓮は折りたたみ傘を持ち歩くようになった。彼方は帰りが遅い日ほど、香水の匂いを薄くまとっていた。以前は甘い柔軟剤の匂いしかしなかった妹が、知らない大人の匂いをつけて帰ってくる。蓮は何度か聞こうとして、やめた。


彼方は成人している。妹だからといって、全部を知る権利があるわけではない。


そう思おうとした。


でも、胸騒ぎは消えなかった。


ある夜、蓮は駅前で彼方を待った。雨が降っていた。連絡をしても返事がない。心配になって傘を持って出たのだ。


二十三時を過ぎた頃、彼方が現れた。


傘を差していなかった。髪が濡れ、肩が震えている。蓮は駆け寄った。


「彼方!」


彼方はびくりとした。


「おにいちゃん」


「何やってるんだよ。連絡も返さないで」


「ごめん、充電切れて」


「友達は?」


「先に帰った」


嘘だとわかった。


けれど、問い詰める声が出なかった。彼方があまりにも脆そうに見えたからだ。


蓮は自分の傘を彼方に差し出した。


「帰ろう」


「怒らないの?」


「怒ってる」


「ごめんなさい」


「でも、今は風邪引く方が困る」


彼方は蓮の横を歩いた。昔ならすぐ腕を組んできた距離なのに、その夜は触れてこなかった。


家までの道で、彼方は何度も口を開きかけた。


「おにいちゃん」


「ん?」


「もし、私が」


そこまで言って止まる。


「私が、すごく悪いことをしてたら、どうする?」


蓮は彼方を見た。


「悪いことって?」


「たとえば、おにいちゃんに隠し事してて」


「誰にでも隠し事くらいあるだろ」


「そうじゃなくて」


彼方の声が震えた。


「おにいちゃんを傷つけるようなこと」


蓮は少し考えた。


「内容による」


「許せないことだったら?」


「彼方が本当に後悔してるなら、話は聞く」


その答えは、彼方を救うはずだった。


けれど救わなかった。


許されるかもしれないと思った瞬間、彼方は自分が許されたいのだと気づいてしまった。蓮のためと言いながら、本当は自分が楽になりたいだけなのではないか。その疑いが、喉を塞いだ。


家に着く直前、彼方のスマホが震えた。充電が切れていると言ったはずのスマホが。


画面にはレオンの名前が光っていた。


蓮は見なかった。


彼方は見られなかったことに安堵し、その安堵にまた傷ついた。


いろはは、もう蓮を好きだった頃の自分をうまく思い出せなくなっていた。


部屋の引き出しには、昔買った小さなキーホルダーが入っている。蓮と色違いで持つつもりだったものだ。結局渡せなかった。何度も告白しようとして、彼方の「おにいちゃん」と呼ぶ声を聞くたびに、少しだけ足が止まった。


今、そのキーホルダーを見ても胸は痛まない。


痛まないことが、少し寂しかった。


レオンの通知が来ると、いろははすぐにスマホを取る。彼が他の女といるのを知っていても、呼ばれれば行く。最初は蓮を守るためだった。そのはずだった。けれど今は、レオンに呼ばれない日の方が苦しい。


「私、最低だな」


鏡に向かって呟いた。


口紅の色は、レオンが似合うと言ったものだった。


彼方と顔を合わせると、いろはは自分の昔を見ている気分になった。まだ抵抗している。まだ蓮のためと言える。まだ自分だけは違うと思っている。けれど、彼方の目の奥にはもう変化があった。レオンを拒絶しながら、レオンの言葉を待っている目。


いろははそれを止められなかった。


止める資格もなかった。


ある日、レオンは二人を同じ部屋に呼んだ。


彼方は露骨に嫌な顔をした。


「どうして、いろはさんも」


「俺が呼んだから」


レオンはソファに座り、二人を見比べた。


「二人とも暗い顔するなよ。蓮くんは今日も元気だったぞ。俺のおかげで」


「おにいちゃんを道具みたいに言わないで」


「道具にしてるのは彼方ちゃんじゃない?」


彼方は言葉を失った。


「蓮くんの平和を守るために、自分を差し出してる。美談みたいに思ってるかもしれないけどさ、それって蓮くんを理由にしてるだけだろ」


「違う」


「本当に? 最近、俺から連絡が来て安心したことない?」


彼方の顔が強張った。


レオンは笑った。


「ほら」


いろはは黙っていた。


彼方は震える声で言った。


「あなたが、そうさせたんです」


「そうだよ」


レオンはあっさり認めた。


「でも、感じたものまで俺のせいにする?」


部屋の空気が重く沈んだ。


その夜のことを、彼方は細かく覚えていない。覚えているのは、レオンの声と、いろはの泣き笑いと、自分が途中から抵抗する理由を見失っていったことだけだった。何かを受け入れたというより、拒絶し続ける力が尽きた。自分の中で、蓮の妹である部分と、レオンに名前を呼ばれる部分が、別々の生き物のように動き始めた。


翌朝、彼方はレオンの部屋で目を覚ました。


カーテンの隙間から光が差している。いろはは隣の部屋で眠っているらしい。レオンはスマホを見ながら、彼方に言った。


「おはよう、彼方」


その声に、彼方は胸が痛くなった。


「……おはようございます」


「蓮くんには何て言うの」


「友達の家に泊まったって」


「嘘、上手くなったね」


彼方は目を閉じた。


上手くなりたくなかった。


けれど、上手くならなければ蓮を守れない。


もうその理屈が本当なのかどうかも、彼方にはわからなくなっていた。


蓮は、彼方が外泊した朝も怒らなかった。


「連絡くらいしろよ」


それだけだった。


「ごめん」


「母さんには俺から言っといた。課題で友達の家に泊まったって」


彼方は箸を落とした。


蓮が嘘をついてくれた。


自分を守るために。


その事実が、彼方の胸を裂いた。


「おにいちゃん」


「ん?」


「私、悪い妹かも」


蓮は苦笑した。


「今さら? 俺のプリン勝手に食べるしな」


「そういうのじゃなくて」


「じゃあ、いい妹だよ」


即答だった。


彼方は泣きそうになりながら笑った。


「おにいちゃんは、私に甘すぎる」


「妹に厳しくしても得ないだろ」


彼方は俯いた。


蓮の優しさは、もう逃げ場ではなくなっていた。帰る場所が温かいほど、自分の汚れが濃く見えた。


それでも、彼方はレオンからの連絡を拒めなかった。


時間が経つにつれ、レオンは蓮を脅しに使う回数を減らした。


代わりに、彼方自身を揺らす言葉を増やした。


「彼方はさ、いつまで妹やってるの」


「妹ですから」


「蓮くんがいなかったら、自分が何したいか言える?」


「……」


「ほら。空っぽじゃん」


「違います」


「違わない。彼方は蓮くんのためって言ってれば、自分で選ばなくて済むんだよ」


彼方はその言葉を否定したかった。


けれど、うまくできなかった。


蓮のために弁当を作る。蓮の帰りを待つ。蓮の好きな味を覚える。蓮が笑えば嬉しい。それは彼方にとって幸せだった。けれどレオンに言われると、それが自分の意思なのか、ただ役割にしがみついているだけなのかわからなくなる。


「俺は彼方を妹として見てない」


レオンは言った。


「彼方は彼方だろ」


その言葉はひどく歪んでいた。


けれど、彼方が欲しかった言葉でもあった。


蓮の妹ではない自分。


誰かのためではなく、自分の名前で呼ばれる自分。


それをくれたのがレオンでなければ、彼方はきっと泣いて喜んだだろう。


いろはは彼方が変わっていくのを見て、嫉妬した。


レオンが彼方を見る時間が増えた。彼方の抵抗が弱まるほど、レオンは面白がるように優しくした。いろははそれを見るたび、胸の中が黒く濁った。


「彼方ちゃん、最近かわいくなったよね」


学校の洗面所で、いろはは彼方に言った。


彼方は鏡越しにいろはを見た。


「そうですか」


「レオンくんの好みになってきた」


「やめてください」


「事実じゃん」


「いろはさんは、それでいいんですか」


いろはは笑った。


「何が?」


「おにいちゃんのこと、好きだったんでしょう」


「過去形だね」


「今は?」


いろはは口紅を塗り直した。


「わかんない。でも、蓮を見ても苦しくならない」


「それって」


「もう好きじゃないってことなのかもね」


彼方は胸が冷たくなった。


「最低です」


「うん」


いろはは頷いた。


「でも彼方ちゃんも、そのうち同じこと言うかも」


「言いません」


「私も言わないと思ってた」


彼方は洗面所を出た。


背後で、いろはの声がした。


「蓮くん、いい人だよね」


彼方は立ち止まった。


「いい人すぎるとさ、隣にいるこっちが苦しくなる時ない?」


彼方は答えなかった。


答えられないことが、何よりの答えだった。


蓮は少しずつ孤独になっていた。


嫌がらせは止まった。学校生活は楽になった。なのに、彼方もいろはも遠くなった。二人は蓮の前では笑う。けれど目が合う時間が短い。蓮が一歩踏み込もうとすると、二人とも同じように避ける。


「俺、何かしたかな」


夜、蓮は自室で課題ファイルを開いたまま呟いた。


隣の部屋からは彼方の気配がする。以前なら勝手に入ってきて、ベッドに座り、課題を覗き込んで「おにいちゃん、これすごいね」と言っていた。今はドアの向こうでスマホの通知音が鳴るだけだ。


蓮は彼方の部屋の前まで行き、ノックしようとして手を止めた。


成人した妹の部屋に、兄が夜中に踏み込むのは違う。


そう自分に言い聞かせて、部屋へ戻った。


その頃、彼方はベッドの上でレオンからのメッセージを読んでいた。


明日、いろはも来る。逃げるなよ。


彼方はスマホを胸に伏せた。


逃げたい。


逃げたくない。


おにいちゃんに戻りたい。


レオンに呼ばれたい。


頭の中で、矛盾した声が重なった。


もう自分が何を望んでいるのかわからなかった。


ただ、蓮に知られることだけは怖かった。


蓮に失望されること。


蓮の優しい目が、自分を見なくなること。


それだけは、どうしても耐えられないと思った。


夏の気配が近づいた頃、いろはの体に変化が出始めた。


最初はただの体調不良だと思った。朝起きると気分が悪い。食堂の匂いがきつい。好きだったコーヒーが飲めない。授業中に眠気が来る。レオンの部屋で倒れ込むように眠ってしまった日、レオンが冗談めかして言った。


「妊娠でもした?」


いろはは笑えなかった。


翌日、薬局で検査薬を買った。店員の顔が見られなかった。家に帰り、洗面所に鍵をかけ、説明書の文字を何度も読み返した。結果が出るまでの数分が、異様に長かった。


陽性だった。


いろはは床に座り込んだ。


最初に思い浮かんだのは蓮ではなかった。


レオンだった。


そのことに、いろはは笑った。乾いた笑いだった。昔の自分が見たら、きっと泣くだろう。蓮のために始めたはずなのに、今はレオンの子かもしれない命を前にして、恐怖と同じくらいの喜びを感じている。


レオンと繋がっている証拠。


自分が選ばれたかもしれない証拠。


そう思ってしまった。


すぐにレオンへ電話した。


「どうした」


「レオンくん」


声が震えた。


「私、できたかもしれない」


沈黙。


いろはは息を止めた。


レオンは少しして、低く笑った。


「マジ?」


「うん」


「俺の?」


その言葉に傷ついた。けれど怒れなかった。


「たぶん」


「そっか」


軽い声だった。


いろはの胸が冷える。


「どうしたらいい?」


「落ち着けよ。明日会おう」


「逃げない?」


「逃げないって」


それが本当かどうか、いろはにはわからなかった。


でも、信じたかった。


信じる以外に、自分のこれまでを保つ方法がなかった。


彼方の変化は、いろはより少し遅れて現れた。


朝、台所で味噌汁の匂いを嗅いだ瞬間、胃がひっくり返るような感覚がした。彼方は口を押さえて洗面所へ駆け込んだ。


「彼方?」


蓮が扉の外から声をかける。


「大丈夫か?」


「平気」


「平気じゃないだろ。病院行くか?」


「寝不足なだけ」


彼方は水で口をすすぎ、鏡を見た。


顔色が悪い。


それだけではない。


ここ数週間、予定がずれている。考えないようにしていた可能性が、急に輪郭を持って迫ってきた。


その日の帰り、彼方は薬局に寄った。いろはと同じように、店員の目を見られなかった。家には帰れず、駅ビルの個室で検査した。


陽性だった。


彼方は声を出さずに泣いた。


頭に浮かんだのは、蓮の顔だった。


おにいちゃん。


どうしよう。


言えない。


言えるわけがない。


蓮のために始めたはずだった。蓮を守るためだった。そう信じていた。けれど今、彼方の手の中にある結果は、その言い訳を粉々に砕いていた。


もう蓮のためでは済まない。


自分は戻れないところまで来てしまった。


スマホが震えた。


いろはからだった。


話がある。たぶん、彼方ちゃんも。


彼方は画面を見つめ、震える指で返した。


私もあります。


二人は学校近くの公園で会った。


夕方の公園には子どもはいなかった。ベンチに座る二人の間に、言葉より先に沈黙が落ちた。いろはの顔を見た瞬間、彼方はすべてを察した。いろはも同じ顔をしていた。


「彼方ちゃんも?」


いろはが聞いた。


彼方は小さく頷いた。


いろはは空を見上げた。


「そっか」


それだけだった。


責める言葉も、慰める言葉も出てこない。二人とも同じ穴に落ちていて、どちらが上にいるわけでもなかった。


「どうするんですか」


彼方が聞いた。


「わかんない」


「レオンさんには?」


「言った。明日会うって」


「そうですか」


彼方は自分の手を見た。


「おにいちゃんには、言えません」


「言わない方がいいよ」


いろはの声は冷たかった。


彼方は顔を上げた。


「どうして、そんな言い方」


「言ったら壊れるから」


「もう壊れてます」


「蓮くんはまだ知らない」


その言葉が、ひどく残酷に響いた。


蓮はまだ知らない。


だから、蓮の世界はまだ壊れていない。


彼方といろはだけが、先に壊れている。


「私、何してるんだろう」


彼方は呟いた。


「おにいちゃんを守りたかっただけなのに」


いろはは笑った。泣きながら笑った。


「私もそうだった」


「今も、そう思ってますか」


いろはは答えなかった。


彼方はその沈黙を見て、胸の奥がさらに冷たくなった。


「いろはさんは、レオンさんが好きなんですか」


「好きなんだと思う」


「ひどい人なのに」


「うん」


「おにいちゃんを傷つけた人なのに」


「うん」


「私たちを、こんなふうにした人なのに」


「うん」


いろはは頷き続けた。


「それでも、レオンくんに捨てられるのが怖い」


彼方は言葉を失った。


その怖さを、自分も知っていたからだ。


嫌いなのに、捨てられたくない。


最低だとわかっているのに、呼ばれたい。


レオンに選ばれなければ、自分がしたことの意味がなくなる気がする。


彼方はそれを認めたくなかった。けれど、認めないままでは息ができなかった。


「私も、怖いです」


小さくそう言うと、いろはは彼方を見た。


二人はしばらく何も言わなかった。


やがて、いろはのスマホが震えた。レオンからだった。


今どこ。


いろはは返信した。


彼方ちゃんといる。


すぐに返事が来た。


迎えに行く。


二十分後、黒い車が公園の前に止まった。


レオンが運転席から降りてきた。サングラスを外し、二人を見て、状況を理解したように笑った。


「二人とも、同じ顔してる」


彼方は立ち上がった。


「レオンさん」


声が震えた。


「私」


「できた?」


あまりに軽い言い方だった。


彼方は頷いた。


レオンは一瞬だけ目を見開き、それから口元を歪めた。


「二人同時か」


いろはが不安そうに見上げる。


「どうするの」


レオンは二人の肩に手を回した。


「落ち着けよ。ちゃんと考えればいい。俺、逃げるなんて言ってないだろ」


その言葉に、いろはの顔が少しだけ緩んだ。


彼方も、安心してしまった。


安心してはいけない相手だとわかっているのに。


レオンは二人を車に乗せた。


「蓮くんには?」


彼方が聞いた。


レオンはバックミラー越しに彼方を見た。


「今は言う必要ないだろ」


「でも」


「言ったらどうなる? 蓮くん、耐えられると思う?」


彼方は何も言えなかった。


「お前らが黙ってれば、蓮くんは平和なままだよ」


その言葉は、かつての脅しと同じ形をしていた。


けれど今の彼方には、それが脅しだけに聞こえなかった。蓮を守るために黙る。自分たちの罪を隠すために黙る。その二つはもう区別がつかなくなっていた。


車は夜の街へ滑り出した。


彼方は窓の外を見た。通り過ぎる灯りのひとつひとつが、帰れたはずの場所に見えた。蓮と並んで歩いた道。いろはと笑いながら買い食いした駅前。彼方が「おにいちゃん」と呼べば、蓮が振り返ってくれた日々。


全部、まだすぐそこにあるようで、もう手が届かない。


同じ夜、蓮は家でカレーを作っていた。


彼方が最近疲れているから、好物を作ってやろうと思ったのだ。スマホでレシピを見ながら、玉ねぎを焦がしそうになり、慌てて火を弱める。味見をすると少し薄い。彼方なら何を足すだろうかと考え、冷蔵庫にあったチョコをひとかけ入れた。


「これでいいのか?」


一人で呟いて、少し笑った。


彼方にメッセージを送る。


今日はカレー。遅くなるなら温めておく。


既読はつかなかった。


蓮は鍋の火を止め、リビングの時計を見た。


最近、彼方は遅い。


でも大丈夫だろう。成人しているのだし、友達もいる。いろはもいる。きっと課題で忙しいだけだ。


蓮はそう自分に言い聞かせた。


知らなかった。


彼方がその夜、レオンの車の後部座席で検査薬の入った袋を握りしめていたことを。


いろはが助手席で涙を拭きながら、それでもレオンの言葉に縋っていたことを。


レオンが二人を見て、自分のものが増えたような顔で笑っていたことを。


そして、蓮を守るためという言葉の下で始まった嘘が、もう誰にもほどけないほど大きく膨らんでいたことを。


蓮だけが、まだ何も知らなかった。

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