計算違いの円満結婚 〜「お帰りください」と追い返した冷徹商会長に、なぜか『投資(愛)』という名の独占欲で攻められています〜
よろしくお願いいたします。
王都でも指折りの高級サロン。 背の高い窓から差し込む陽光は穏やかで、淹れられた紅茶の香りが一室に漂っていた。
ミシェル・ジーティス侯爵令嬢は無表情のままソファに座っていた。 お見合いには最高の場ではあるが、彼女にとっては親から課せられた、さっさと終わらせるべき「タスク」でしかなかった。
(……殿方なんて、どうせみんな同じ)
彼女の脳裏には、三人の姉たちからいやというほど浴びせられた「結婚生活の真実」が、呪いのように渦巻いていた。
「いいこと、ミシェル。長男に嫁いだら最悪よ。私の夫を見てごらんなさい。自分が脱ぎ捨てた靴下に大きな穴が開いていても気にしない。いえ、気づいてないのよ。無神経極まりないったら。『愛してるよ、僕の天使』なんて、情けないくらい大きな穴の開いた靴下を履いたまま言えちゃうんだから正気を疑うわ」
「次女のわたしからはこれだけ。男は皆、自分への財布の紐は緩いくせに、妻のドレス代には帳簿係みたいな顔をして口出しするのよ。昨夜も自分の愛馬の鞍を新調したくせに、私の新作の夜会着を『少し派手じゃないか』って言うのよ」
「三女のわたしが言えるのは、男はガラス細工より脆いってことよ。ちょっと私が溜息をついただけで『僕といて楽しくないのか?』って人の話も聞かないで三日間くらい落ち込むの。それでいて、こちらの誕生日は忘れる癖にね。機嫌を取るためにどれだけ精神を削っているか……。結婚生活なんて、終わりのない接待よ」
姉たちの血を吐くような愚痴という名の洗礼を浴び続けた結果、目の前のクロード・グラントという男がどれほど眉目秀麗で、若くして商会を立ち上げた才覚の持ち主であろうとも、ミシェルの心は一ミリも動くことはなかった。
むしろ、前夜に独学で進めていた複式簿記の勉強と、サロンに入る暖かな陽光も相まって、猛烈な睡魔に襲われている。
(ああ、計算の続きがしたい。あの貸借対照表のズレを直さないと。もう、帰りたい……)
そんなミシェルの前に、クロードが着席しようとしたときだった。
「……お帰りください」
静寂。 クロードの動きがぴたりと止まった。
ミシェルの心臓が口から飛び出しそうなほど跳ね上がった。
(まずい! もしかして口に出てた!?)
あわてて視線を泳がせる。 ミシェルは震える声で、言葉を「上書き」した。
「お……おかけくださいませ! グラント様! 立ち上がられたのでつい、その……お帰りになられるのかと……!」
あまりに苦しい言い訳だ。 クロードは一瞬、きょとんとした顔をしたが、やがてその薄い唇をわずかに歪めた。
「これは失礼。お会いして三秒で引導を渡されたかと思いましたが、私の勘違いでしたか。では、お言葉に甘えて」
クロードはミシェルの対面へ、優雅に腰をおろした。 その瞳に落胆の色は微塵もない。 むしろ狩猟民族が珍しい獲物を見つけたときのような、底知れない光が宿っていた。
(あ、これ、絶対バレたやつだ。本音がダダ漏れだったと知られたわ)
ミシェルは観念した。もはや、淑女の仮面を被り直す気力も湧かない。 一方、クロードのほうも、型通りの甘い挨拶を口にする気配がなかった。
彼はテーブルに置かれたミシェルの手元――ペンを握り過ぎて中指の第一関節にできた小さなタコに、鋭い視線を向けた。
「ジーティス令嬢。単刀直入に伺いますが……貴女は、結婚というものに、何かしら夢を抱いておいでですか?」
「いいえ。微塵も」
即答である。
ミシェルの脳内で、身なりに無頓着な義兄と、自分の趣味しか考えない義兄と、打たれ弱くてかまってちゃんな義兄が並んで手を取り合って踊っている。
「愛などという不確かなもので生活が立ち行くとは思っておりません。義務さえ果たせば、あとはお互いの領域を侵さない。それが理想ですの」
ミシェルの冷ややかな返答に、クロードは深い笑みを浮かべた。
「素晴らしい。どうやら貴女と私は、非常に話が合いそうだ」
それは、恋の予感などという甘酸っぱいものとは真逆のものだった。 ビジネスパートナーが互いの「利用価値」を認め合った瞬間の、ゾッとするほど冷たく、そして強固な握手が交わされた瞬間だった。
◇◇◇
お見合いから数日後、クロード・グラントは約束通り、ミシェルに贈り物を届けた。 それは、見事な深紅の薔薇だった。
だが、彼が花屋に命じた注文は極めて合理的なものだった。
「予算はこれくらい。侯爵家の玄関に飾って恥ずかしくない程度のボリュームで。カード? 適当にテンプレを書いておいてくれたまえ」
届いたカードには、代筆業者が書いたような整った字で、「素晴らしいひと時に感謝を。再会を願って」とだけ記されていた。
これを受け取ったミシェルの反応も、また冷ややかだった。
「そうね、マナーは守れる方のようね」
彼女はすぐさま返信の筆を執った。 姉たちから教わった「男を調子に乗らせない技術」を応用し、極限まで情緒をそぎ落とした「領地物産品目録(価格表付き)」を御礼状に同封した。
お礼状の内容はこうだ。 『先日は失礼いたしました。薔薇のお礼に、我が領地で今年最も収益率の高かった乾燥ハーブと、加工肉のパンフレットを送付いたします。よろしければ何かの折にでも』
本来なら「情緒がない!」と切り捨てられてもおかしくない手紙である。 だが、これを受け取ったクロードは、執務室で静かに感銘を受けていた。
「乾燥ハーブの市場価格まで網羅されている。なんて機能的で美しい手紙なんだ。彼女は私の時間を一秒たりとも無駄にさせないような配慮のできる人だ」
クロードはこれを「熱烈なアプローチ」だと、彼なりの基準で解釈した。
しかし、一番の問題は、このやり取りを見守っていた周囲の人間たちだった。
「お聞きになりまして、旦那様!」
ミシェルの母、ジーティス侯爵夫人が、扇を握りしめて夫に詰め寄っていた。
「愛想の欠片もなかったミシェルが、グラント様から届いた薔薇を『玄関の最も目立つ場所に生けなさい』と命じましたのよ! しかも翌日には、領地の特産品、つまり『私の故郷を紹介したい』という奥ゆかしい愛のメッセージを添えてお返事をしたためたりして! なんて健気な恋なんでしょう!」
侯爵も深く頷いた。
「仕事一筋のクロード君が忙しい合間を縫って、毎週花を送ってくれているとも聞いた。不器用な二人が、懸命に思いを伝え合っているのだな……。よし、二人をもっと会わせてやろうではないか」
さらに、様子をうかがいに来た三人の姉たちも、二人の様子を見て別の意味でパニックになっていた。
「ねえ、見た!? あのクロードって男。ミシェルと並んで座っているとき、一言も喋らずに、ただミシェルが広げた『商会の決算書』をじっと見つめていたわ!」
「沈黙が苦にならないなんて、相当なほれ込みようよね。私なんて夫に三秒黙られただけで『他に女ができたか』って問い詰めちゃうのに」
「ミシェルもミシェルよ。クロード様が近づいても顔色一つ変えない。あれこそが『真実の愛』、揺るぎのない信頼ってやつなのね……。私たち、負けたわ」
実際には、ミシェルの添削済みの決算書を読み込んでいただけである。
当人たちは、庭園の東屋で二人きりになった際、小声でこんな会話をしていた。
「グラント様、先日の目録はいかがでしたか?」
「素晴らしかった。おかげで我が商会の仕入れコストが3パーセント削減できそうです。お礼に、次は商会の未公開の投資案件を共有しましょう」
「まあ! それはどんな宝石よりも価値のあるお誘いですわ」
頬を微かに染めるミシェル。 実際には投資話に興奮しているだけなのだが、遠目に見守っている両親と姉たちはミシェルの様子にハンカチを噛みしめた。
こうして、二人の「利害の一致」は、周囲の熱烈な祝福という名の暴走列車に乗せられて、結婚という終着駅へと猛スピードで走り始めたのだった。
◇◇◇
周囲の熱狂に包まれ、外堀はすっかり埋まっていた。 ある日の夕暮れ、クロードはジーティス侯爵邸の庭園で、ミシェルに最後の一歩を促した。
「ミシェル様。周囲は、我々が情熱的な恋に落ちたと信じて疑わないようです」
「そうですね。姉たちには『真実の愛の形を教えられた』と涙ながらに抱きつかれました。非常に困惑しております」
ミシェルはため息をついた。 だが、その瞳に以前のような絶望はない。 クロードとの事務的なやり取りは、彼女にとって「自分を飾らなくていい」最高の解放区になっていた。
クロードは居住まいを正し、一通の書面を取り出した。
「これは私の商会の全資産目録、および、将来にわたる誓約書です。内容は『不貞の禁止』、『賭博の禁止』、そして『妻の経済活動への完全なる自由と支援』」
ミシェルの目が、今日一番の輝きを放った。クロードは続ける。
「貴女の姉上たちが嘆くような『愛の悲劇』を、私は一生起こさないと誓いましょう。私は貴女の知性を、貴女は私の基盤を必要としている。……私と一緒に、一生をかけてこの『完璧な形式』を維持するビジネスパートナーになってくれませんか?」
それは、世界で一番冷たくて、世界で一番誠実なプロポーズだった。
ミシェルは満足げに微笑むと、彼が座るための椅子を自ら引き、かつての失言を最高の形で上書きした。
「どうぞ、おかけください。今度は本気で、私の生涯の伴侶として歓迎いたしますわ、クロード様」
◇◇◇
数か月後。 二人の結婚生活は驚くほど円満だった。
周囲からは「結婚してもなお、互いに敬意を払い、仕事に励む理想の夫婦」と称賛されていた。
夜のグラント商会の会長室で、並んで帳簿をチェックしていた際、クロードがふとペンを置いて言った。
「ミシェル。今日の夜会での貴女は一段と『完璧』だったよ」
「お褒めに預かり光栄ですわ。クロード様も私のエスコートを完璧にこなしてくださいましたもの」
ミシェルが淡々と返すと、クロードは突然、彼女の椅子をくるりと自分のほうへ向けた。 そして、彼女の細い指先をとり、その手の甲に熱い唇を落とした。
想定外の「愛の演技(!?)」にミシェルの鉄面皮に亀裂が入る。
「ク、クロード様? 今ここには、お姉様たちも、監視役の侍女たちもおりませんけれど……」
「知っているよ。だからこそ、演技ではない『本音』の話をしようと思ってね」
クロードは逃がさないと言わんばかりに彼女の腰を引き寄せ、耳元で低く囁いた。
「私はね、貴女が帳簿に夢中になっている時の無防備な顔も、私を冷たくあしらう時の瞳も、すべて独占できている今の生活に、この上ない幸福と喜びを感じているんだ。これは、投資の結果ではなく、私個人の感情だよ」
ミシェルの顔が、みるみるうちに赤く火照った。 姉たちから教わった「男のあしらい方」なんて、一文字も思い出せない。 心臓の音がうるさくて、思考が完全にショートする。
「……お、お帰りください……っ!」
ミシェルは真っ赤になって彼を突き放し、両手で顔を覆った。
「おや、あのお見合いの日と同じ言葉ですね」
クロードは余裕の笑みを浮かべて、再び彼女との距離を詰める。
「ですが、あの日と違うのは、ここが私たちの『家』だということです。……私が帰る場所は、貴女の隣以外にありませんよ?」
「あ、あの時は寝不足による言い間違いで……! い、今のは、その、恥ずかしいから出て行ってと言っただけで……!」
必死に抗議するミシェルを見て、クロードは独占欲が満たされていくのを感じた。 彼女の「可愛らしい本音」を自分だけが見ているという深い喜びに、彼の心が染まっていく。
「ええ、知っていますよ。貴女の『帰れ』は、私にだけ向けられる最高のご褒美だ。……さあ、帳簿の続きは明日にして、夫婦の時間を始めましょうか」
愛など信じていなかった二人の「形式的な結婚」は、どうやら歴史上、最も計算違いで、最も情熱的な成功を収めてしまったようである。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。




