【2ー4】禁書庫のささやき
ティアナはまぶたをゆっくりと持ち上げた。
薄暗い朝の光が、ぼんやりと視界に映り込む。
まだ身体の芯に眠気が残っているのを感じながら、ゆっくりと頭を動かす。
窓の外はまだ薄曇りの朝。昨夜の雨の名残が、路地の石畳をしっとりと濡らしている。
いつもなら、カウンター奥からシグが湯を沸かす音や、器を並べる控えめな物音が聞こえるはずだった。
「……あれ?……シグじい?」
声を掛けても返事はない。ティアナは眉を寄せ、不安が胸にじわりと広がった。
近くで眠っているフィオナの肩をそっと揺すった。
「フィオナ、起きて。シグじいがいない」
「……んぅ……え、いないって?」
二人が戸惑っていると、店の入り口から「カランコロン」と鈴の音が響いた。
誰かが来たのかもしれないと思い、ティアナとフィオナは顔を見合わせてそっと階段を降り始める。
ほどなくして、店の正面扉が静かに開き、冷たい朝の空気が流れ込んだ。
そこに現れたのは、重いマントを羽織ったシグと、その隣に小柄な銀髪の少女。
フードを脱いだ少女は年齢以上の落ち着きを漂わせ、金色の瞳が光を受けて煌めいている。胸元にはリュミエール高等学院の紋章があった。
階段を下りてきたティアナとフィオナは、その二人と顔を合わせる。
少女はまるで長年の賢者のような声音で口を開いた。
「ふむ……そなたらがティアナとフィオナか。思ったより悪くない顔じゃな」
まるで長年の賢者のような声音。言葉遣いも古風で、落ち着き払っている。
フィオナは無意識に背筋を伸ばした。
「……えっと、あなたは?」
「わらわはノクス。学院長シグレ殿より、直々に命を受けて参った使者じゃ。そなたら二人を守ってほしいと頼まれてのことじゃな」
シグは軽く肩をすくめる。
「見た目で判断するな。こいつは俺よりずっと魔術に長けてる」
「ほほう、シグよ……まだわらわを“こいつ”呼ばわりするか。相変わらず口が悪いのう」
軽口を叩く二人の背後――店の外気がわずかに揺らめいた。
ノクスの金色の瞳が一瞬、扉の外に向けられる。
「……ふん、つけられておるかもしれんな。移動は急ぐぞ」
そう告げると、彼女の杖先に淡い紫の光が灯った。
店の空気が一瞬、張り詰める。
フィオナはティーの手をぎゅっと握りしめた。
「ノクスさんの言う通り、早く行こう。何があるかわからないから……」
ティアナは少し緊張しながらも、声を震わせずに告げた。
その時、シグはノクスに向き直り、静かに言った。
「二人のことは頼んだぞ。慎重に見守ってやってくれ。」
ノクスはゆっくりと頷き、杖を軽く振って答えた。
「そうじゃな、一度わらわの住処にて様子を見させてもらおうかの。そのあとは……うーん、どうしようかのぉ?」
シグは微笑みながら指をくるりと回し、魔術を唱え始める。
「なら、その扉を住処まで繋げてやろう。」
蒼い光が指先からほのかに放たれ、空間が揺らぐ。
店の扉が微かに震え、向こう側へと繋がる道が現れた。
ノクスは驚きを隠せず声をあげる。
「ほぅ?お主、そんなことができたのか?まだまだわらわの知らない一面を見せてくれるのだな。」
そして、小声で告げ口するように続けた。
「今度その魔術、こっそり教えてくれないか?」
シグは軽く手を振りながら笑って言う。
「ほら、行った行った。冗談言ってる暇はないぞ。」
ノクスはむっとした表情を浮かべ、子どものように頬を膨らませる。
「ちぇー、もう。早く行くぞ!」と勢いよく扉を開け、二人を促して奥へと進んでいった。
シグはティアナとフィオナに振り返り、穏やかな声で言った。
「あいつはああ見えても頼りになるやつだ。これからもきっと、お前たちの力になるだろう。」
そう告げると、シグはゆっくりと背を向け、店の奥へと消えていった。
ノクスは扉の前で振り返り、二人に声を掛けた。
「早く入れ。急ぐぞ。」
その言葉に促され、ティアナとフィオナはノクスの住処へ足を踏み入れた。
ノクスは扉をくぐり、先に進む二人を部屋へと案内する。
部屋は暖炉の火が優しく揺れ、落ち着いた空気に包まれていた。
重厚な木製家具や壁に飾られた古びた絵画が、長い歴史を感じさせる。
「ここで少し休め。おもてなしに紅茶を入れてきたぞ」
ノクスはそう言うと、杖の先に淡い紫色の光を灯し、素早く魔法で茶器を温めた。
間もなく、甘い香りを漂わせた蒸らし立ての紅茶が、三つのカップに注がれテーブルに置かれた。
ティアナとフィオナはその心遣いに少し驚きながらも、静かに感謝の意を示す。
ノクスが椅子に腰を下ろすと、真剣な眼差しでティアナを見つめた。
「異変のこと、詳しく聞かせてほしい。学院長も心配しておられる。お前の身に何が起きているのか、知る必要があるのじゃ。」
ティアナはゆっくり息を吸い込み、異変の内容を言葉にした。
感じてきた違和感、魔力の暴走、そしてあの夜の混乱――。
彼女の声にはわずかな揺れがあったが、ノクスはじっと最後まで耳を傾けていた。
話し終えると、フィオナも静かに頷きながら言った。
「私も力を貸すつもりです。ティーちゃんを守り、異変の原因を突き止めたい。」
ノクスはゆっくり頷き、言葉を選びつつ口を開いた。
「そうだな。今後の方針を決めねばならぬ。異変の拡大を防ぎつつ、原因を探るためにも、我々は連携を取る必要がある。」
三人はしばらく沈黙し、思いを巡らせる。
外の風が窓を揺らし、暖炉の火が揺らめく音だけが静かに響いていた。
「まずは情報収集だ。学院の資料と、異変が起きた現場の調査が必要だろう。…だが急ぎすぎても危険だ。」
ノクスの言葉に、ティアナもフィオナも深く頷いた。
「ここからが正念場ね……私、絶対に諦めたくない。」
ティアナの決意が静かに、しかし確かに場を満たした。
ノクスは微かに微笑み、杖を軽く叩いた。
「よし、我々の戦いはこれからじゃ。備えよ。」
ノクスは二人の話を聞き終えると、ふむ、と短く息を吐いた。
「わらわも情報を集めよう。だが――」
金色の瞳が二人を射抜くように見つめる。
「今はまだ、そなたらがこの場から離れるのは危うい。外の状況が完全に読めぬ以上、余計な危険は避けるべきじゃ。」
ティアナは一歩前に出た。
「でも……私たちも何かしたいんです。学院に行くついでに、図書館で調べてみたいんです。」
横でフィオナも強く頷く。
「そうそう!手をこまねいてるのなんて性に合わないもん。」
ノクスはしばし二人を見つめ、それから小さく笑った。
「……全く、血の気の多い弟子たちよ。よかろう。その代わり、わらわが保護術式をかける。これで多少の魔術的攻撃は防げるはずじゃ。」
杖の先が淡く輝き、二人の身体を薄い光の膜が包む。
光はすぐに消えたが、肌の奥にわずかな温もりが残る。
「これでよし。術式は三日は持つはずじゃ。……それまでに必ず戻るのじゃぞ。」
二人は頷き合い、急ぎ学院へと向かった。
◇ ◇ ◇
学院に着くと、二人は寄り道もせず、まっすぐ図書館の大扉を押し開けた。
高い本棚が静かにそびえ、かすかな紙の匂いが漂っている。
扉をくぐった瞬間、フィオナの目がきらきらと輝いた。
「うわぁ~……たくさんの本が並んでるなぁー」
フィオナの声が小さく響く。
「そうだねー」
ティアナも周囲を見回し、胸がわずかに高鳴る。
――それから十五分後。
机に突っ伏したフィオナから、小さな寝息が漏れていた。
「すやぁ……」
「ちょっとー!寝ないでよ!」
ティアナが肩をゆさゆさ揺らす。
「んにゃ? ママ、あと五分~……」
「ママじゃないからー!耳つねっちゃうぞー」
「いたたたた!!やりますやります!!」
慌てて顔を上げるフィオナ。
「ほら、次はこれお願いね」
ティアナは分厚い本をどさっと目の前に置く。
「は~い……」
渋い顔をしつつも、本をめくり始めるフィオナ。
ふと、ティアナが眉間にしわを寄せた。
「……うむむむー」
「どうしたの、ティーちゃん?」
フィオナが首をかしげる。
「この本に書かれてるの……前にフィオナちゃんが見せてくれた日記……いや、魔法の本? あれに似ててさ」
「おー、貸してみて! この天才フィオナちゃんが見てさしあげよう!」
胸を張り、得意げにページを受け取るフィオナ。
「なんでそんな満足げなの……」
「えぇ~っとー、なになに~……ふむふむ……」
ページを繰る指先がやがて止まった。
「どう? 何かわかった?」
ティアナが身を乗り出す。
フィオナは目を丸くして顔を上げた。
「ティーちゃん!!」
「なにっ?!」
「この本、すごいよ!!」
「何がすごいの? わかるように話してー」
「えーっとね、まずウィステリア地下都市について詳しく載ってて」
「ふむふむ」
「その中央に流れてる魔法の泉?みたいなのが、地下の安定を担ってるんだって」
「ふむふむ?」
ティアナは無意識に唇を噛む。
「それでね、その泉は数百年に一度、溢れるかもしれないんだって」
「え? もしかして……今回のことに当てはまる?」
声がわずかに震える。
「かもしれないねー! 凄いね! この本どこで見つけたの?」
フィオナは興奮気味に本を抱えた。
「あっちの暗いとこで見つけたよ」
「えっ……もしかして奥の禁書庫?」
「え?! あれ、そうなの? 鍵とか付いてなかったよ!」
ティアナが目を瞬かせる。
フィオナは本を閉じ、辺りをそっと見回した。
「これ、読んでるとこバレたら大変かも! 早く返しに行かなきゃ!」
「そうだね!! 早く行こう!」
二人は顔を見合わせ、息を合わせて席を立った。
足音を忍ばせ、図書館の奥へと進む。
背の高い書架を抜けると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
薄暗い一角――禁書庫。
重い扉は、やはり鍵など掛かっていない。
ただ、誰も近寄ろうとしない独特の圧が漂っていた。
ティアナは小さく息を呑み、そっと本を棚に戻す。
「……よし、元通り」
フィオナは周囲をきょろきょろと見回し、ほっと息を吐いた。
「ばれないうちに帰ろっか」
「うん……」
二人は足早にその場を離れ、やがて図書館の扉を押し開ける。
外の陽光が、緊張でこわばった肩をゆるめてくれた。
「ふぅー、朝に来て良かったねー。人も少なかったし」
ティアナが笑みをこぼす。
「ほんとねー。しかもあんなピンポイントで良い本見つけられるなんて凄いなティーちゃん!」
フィオナは軽くティーの頭をぽんぽんと撫でた。
「えへへー、もっと褒めてくれてもいいんだよー」
「今日はご機嫌だねー……じゃあ、アイスでも奢っちゃおっかな?」
「いいじゃん、一緒に食べよー!」
二人は並んで学院近くの小さなカフェに立ち寄り、カラフルなアイスを手に笑い合った。
甘い冷たさが、図書館での緊張をすっかり溶かしていく。
やがて、学生寮の前に到着。
「じゃあ今日はこのへんで。調べたこと、あとでノクスさんにも話そうね」
「うん!」
部屋に戻る足取りは軽かったが、胸の奥では先ほどの本の内容が静かに波紋を広げ続けていた。
――きっと、ノクスに報告すれば何かが動き出す。
小さく手を振り、二人はそれぞれの部屋へと戻っていった。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
皆さんの応援や反応が、物語を紡ぐ大きな励みになっています。
これからもゆっくりですが、楽しみながら物語を紡いでいきますので、どうぞ見守っていただけると嬉しいです。
また次回、お会いできるのを楽しみにしています。
皆さまの感じたことや想いが、密かに私の創作の糧となっています。
気が向いたときにでも、そっと思い出していただければ幸いです。