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境界を超える少女の物語  作者: Sekhmet
第6章

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【6-2】影の降る街

 空気は厚く、街に冷たい風が吹き始めていた。森の向こうで嵐がうねる前触れのように、通りの人影は普段より少なく、ざわめきもわずかだ。

 広場の片隅では、赤毛の猫耳少女――ザラが声を張り続けていた。

「街から出るな! 外は危ない、何かが迫ってきてる!」

 だが人々は足を止めず、耳を貸そうとしなかった。

 人間に近い容姿をしていても、頭の耳と揺れる尾がけもみみの血を物語る。ある者は「災いの種だ」と眉をひそめ、またある者は「可愛いだろう」と微笑む。しかし恐怖に覆われた今の街では、理性よりも疑念が勝ってしまう。

 母親は子を抱き寄せ、商人は荷車を押して通り過ぎる。言葉は届かず、ザラの眉間には苛立ちと諦念が刻まれていった。

「もう、勝手にしろ!」

 吐き捨てるように叫び、彼女は広場を飛び出した。人の姿のままでは力は足りない――それでも、迫り来る危機を見過ごすことなどできない。


 その直後、悲鳴が風に乗って届く。声のする方に目を向けると、親子が森の縁で魔獣に追われていた。この距離では間に合わず、今の力では攻撃も届かない。

「……間に合わない!」

 焦燥と決断がザラを突き動かす。耳と尾が伸び、筋肉が隆起する。獣化した体は力強くしなやかで、人間では及ばない速度と破壊力を手に入れた。親は突然現れた獣人に恐怖を覚え、魔獣と同じ存在と認識するが、子供の瞳には助けに来てくれた英雄の姿として映る。

 獣化したザラは、迫る魔獣に立ち向かい、鋭い爪で応戦した。その後、親子は命からがら城門まで駆け抜け、兵士に息を切らしながら「魔獣と獣人に襲われた」と報告する。子供は言葉を探すが余裕はなく、ただ震える手で獣化したザラを指差す。兵士は混乱しつつも、街に知らせを広めることとなった――これが嵐の前触れであり、街の運命の始まりであることを、誰もまだ知らないまま。


 兵士の報告は瞬く間に伝令によって城内へと駆け巡った。

「魔獣が現れた! 城門前で交戦中!」

 叫びが重なるたび、街に広がるざわめきは恐慌に近いものへと変わっていく。広場に集まっていた人々が一斉に振り返り、逃げ惑う者、子を抱きかかえて門から遠ざかる者、呆然と立ち尽くす者――混乱は瞬く間に拡散した。

 鐘が打ち鳴らされる。重々しい音が石畳を揺らし、人々の胸を震わせる。

「非常事態! 全員、指定の避難路へ!」

「急げ! 立ち止まるな!」

 兵たちが声を枯らし、必死に群衆を押し流す。

 だが、混乱の渦は容易に収まらない。噂が噂を呼び、「魔獣に加えて獣人まで攻めてきたのか」と恐怖が膨れ上がっていく。

 その最中、まだ小さな子どもが震える手で門の方を指さし、母親の背にしがみついた。誰もがその方向を一瞬見てしまう。

――そこには、魔獣と渡り合う漆黒の影。牙を剥き、獣の咆哮を返すザラの姿があった。


 年若い兵士が剣の柄を握りしめながら呟く。

「……あれが、本当に我らの味方なのか?」

 しかしベテランの兵士長が鋭く首を振った。眉間に深いしわを刻み、遠くの戦闘を見据える。

「待て……よく見ろ。あの獣人は魔獣を『こちらに向かわせていない』」

 若い兵士の目が見開かれる。確かに、ザラは魔獣の進路を巧みに遮り、街から逸らすように立ち回っていた。

「それに……」兵士長の声が低くなる。「もし敵なら、なぜ一人で戦っている?魔獣と協力すれば我らなど容易に……」

 その時、ザラの咆哮が響いた。それは怒りでも憎しみでもなく――何かを『守ろうとする者』の叫びだった。

 疑念が小さな火種となって広がろうとしたが、それを打ち消すかのように、さらなる魔獣の咆哮が大地を震わせた。

 人々の足が一斉に動き出す。恐怖が、彼らを避難路へと駆り立てた。

 誰もがまだ知らない――この瞬間が、街全体を戦場へと巻き込む始まりであることを。

 兵士たちは剣を抜く代わりに、混乱する民を必死に押し流していた。

「老いた者と子どもを先に! 手を取り合って走れ!」

「道を塞ぐな! 荷車は置いていけ!」


 叫び声が飛び交い、群衆は波のようにうねる。泣きじゃくる子どもの声、物を落とす音、足音と悲鳴が折り重なり、城下の広場はもはや戦場に近い様相を呈していた。兵たちは盾を前に掲げて人々を守る壁となり、時には突き飛ばすようにして避難路へ押し込んでいく。

 だが恐怖に駆られた民は容易に従わない。

「どうせ門も突破されるんだろ!?」

「獣人まで現れたって聞いたぞ!」

「この街はもう終わりだ!」


 一方その頃、喫茶店ノクターナでは――

 ティアナたちは既に戦闘の準備を整えていた。ノクスは手にした杖の魔力を確認し、フィオナは呪文書を腰に差している。ティアナも緊張した面持ちで立ち上がり、いつでも動けるよう身構えていた。

外から響く鐘の音と人々の叫び声が、店内の静寂を破り続けている。窓ガラス越しに見える通りでは、荷車を引いた人々が慌ただしく駆け抜けていく。

「時間じゃな」

 ノクスが短く告げる。

「私はまだやることがある。先に行っていてくれ」

 シグが低い声で言った。

 ノクスは一瞬ためらったが、シグの眼差しに迷いがないことを悟ると、短くうなずく。

「分かった。後を頼む」

「任せておけ」

 三人は扉へと向かった。外の混乱が一層激しくなっていく中で。


 扉を押し開けた瞬間、街の喧騒が一気に押し寄せてきた。先ほどまで温かな店内にいた彼らにとって、外の空気は冷たく、人々の悲鳴や足音が耳を打つ。ティアナは思わず身を縮めたが、すぐに気を取り直して前に進む。

 足早に通りを駆け抜ける。だが城壁へと続く大路に出た瞬間、目に飛び込んできた光景にティアナの息が詰まった。


 広場は避難を急ぐ人々であふれ、転倒した荷物や折れた木箱が散乱している。誰もが不安げに顔を伏せ、泣き声や叫び声が重なり合って混乱を増幅させていた。

「……これが、街の今なのね」

 ティアナは唇をかむ。

 そのとき、視線の端に幼い子どもが映った。転んで膝を擦りむいたのか、路地の隅で泣きじゃくりながら立ち上がれずにいる。さらに、荷物を抱えたまま困り果てている老人の姿もあった。人々は皆、自分のことで精一杯で、誰も手を差し伸べられない。

「ティアナ、急がねば」

 ノクスが声を強める。

 確かに、一刻も早く城壁へ向かわなければならない。だがティアナの胸を締めつけるのは、目の前で苦しんでいる人々を見過ごすことへの葛藤だった。仲間を守りたい気持ちと、目の前の小さな命を見捨てられない気持ちが衝突する。


 ティアナは小さく息を吸い込み、決意を込めて叫ぶ。

「先に行ってて!すぐ追いつくから!」

 ノクスは眉を寄せたが、彼女の眼差しが揺るぎないことを悟ると、ただ短くうなずいた。フィオナも迷いを振り切るように走り出し、二人の背は人の波に飲み込まれていく。ティアナは振り返らず、子どもへ駆け寄った。混乱のただ中で、小さな手を取り、声をかける。

「大丈夫、怖くないよ。さあ、一緒に行こうね」

 城壁へ向かう道のりはまだ遠い。けれど、ティアナの胸には小さな決意の炎が燃えていた。彼女にとって守るべきものは仲間だけではない。この街に暮らすすべての人々を救いたい――その想いが彼女を突き動かしていた。


 ティアナは人の流れに逆らいながら、懸命に走り回っていた。

 膝をすりむいた子どもを親のもとへ送り届けると、次に目に入ったのは背を曲げた老人だった。背中にはあまりにも大きな荷袋が乗せられており、歩くたびに体がよろけている。ティアナは迷わず駆け寄り、両手でその荷物を受け取った。

「私が持ちます!」

 驚いた老人が「しかし……」と口ごもるが、ティアナはにっこり笑い、力を込めて荷袋を抱え上げる。非力に見える彼女の肩にその重みがかかると、人々は目を見張った。


 別の通りでは、避難経路がわからず立ちすくむ若い母子がいた。ティアナは地面に膝をつき、目線を合わせて声をかける。

「避難所はこちらですよ。大丈夫、一緒に行きましょう」

 母親は一瞬ためらったが、その笑顔に押されて頭を下げる。


 さらに、群衆の中で取り乱した青年が泣き叫び、周囲に恐怖を広げていた。ティアナは息を切らしながらも近づき、両手をそっと差し出す。

「大丈夫、みんなで助け合いましょう。あなたも一緒に」

 その声は不思議なほど落ち着いていて、青年の荒い呼吸が少しずつ静まっていく。


 最初は「ハーフの子か?」と冷たい視線を向けていた人々も、次第に態度を変えていった。兵士の一人は城壁へ向かう途中でその姿を見とめ、ぽつりとつぶやく。

「あの子……ハーフなのに、こんなに必死に……」

 母親は涙ぐみながら「ありがとう、お嬢さん!」と感謝を告げ、子どもは「お姉ちゃん、優しいね!」と笑顔を向けた。ティアナの胸に熱いものがこみ上げる。彼女自身の出自がどうであれ、ここで守るべきものは確かに存在している――その実感が力となっていた。


 やがて人々を誘導し終えると、ティアナは汗に濡れた額をぬぐい、荒い息を整えながら城壁へと駆け出した。夕暮れの空が赤黒く染まり、魔獣の咆哮が遠くに木霊している。

 城壁にたどり着いたとき、すでにノクスとフィオナは配置につき、戦いに備えていた。ティアナは石段を駆け上がり、息を切らしながら二人の前に立つ。

「遅いぞ、ティアナよ」ノクスが眉をひそめて言う。

 ティアナは苦笑し、胸を押さえながら答えた。

「ごめん……でも、みんな無事に避難できたと思う」

 フィオナは小さく笑い、肩に手を置いた。

「ティアナらしいわね」

 その言葉に、ティアナは安堵の息をもらしつつ前を向く。もう迷いはなかった。仲間と街の人々、どちらも守りたい――その想いが彼女の心を強く結んでいた。


 城壁の上に立った瞬間、空気が震えるような咆哮が遠くから押し寄せてきた。先ほど聞いたものよりもはるかに大きく、しかも一つや二つではない。幾重にも重なった声が大地を揺らし、街の空気をさらに張り詰めさせる。ティアナは思わず両腕を抱きしめるように胸の前で組み、唇をきゅっと結んだ。


 石垣の上から視線を落とせば、先ほど自分が導いた人々が広場の奥、安全な避難所に集まっているのが見える。泣き声も、慌ただしい叫びももう聞こえない。ただ必死に耐えようとしている姿があった。ティアナの胸に熱がこみ上げる。

「今度こそ……みんなを守らなきゃ」

 隣に立つノクスは、半眼を細めて遠くをにらみつけた。金色の瞳がきらりと光り、風に髪がなびく。

「……これは本格的じゃな。大群が来るぞ」

 そう言いながら、手にした長杖をひねるように持ち上げる。その仕草はまるで水晶球を覗き込むかのようで、杖の先に淡い光が宿った。

「おいシグよ、お主もはよこ――」


 言葉が終わるより早く、ノクスの隣に青白い魔法陣がぱっと浮かび上がった。眩い閃光と同時に、低く響く『キィン』という音が城壁を震わせる。次の瞬間、陣の中心から長身の人影がすっと現れた。

「なっ!? びっくりするじゃろ!!」

 ノクスは飛び上がるように仰け反り、杖を落としかける。驚愕ぶりにティアナも目を丸くするが、現れた人物――シグは涼しい顔で肩を竦めていた。

「すまんすまん、防御結界の媒体選びに手間取ってしまってな」

 その落ち着いた声に緊張が和らぎ、ティアナは小さく息を吐いた。だが次に声をあげたのはフィオナだった。

「なにそれ! 転移魔法!? すごいじゃない!」

 瞳を輝かせ、身を乗り出すようにシグへ詰め寄る。

「まぁ、ちと派手になってしもうたが……間に合っただけよしとしよう」

 シグは苦笑しながら答えた。

 四人が並び立った城壁の上には、確かな力と心が揃っていた。

 押し寄せる魔獣の群れを前にしても、もはや迷いはない。


――その時、フィオナの狐耳がぴくりと動いた。

「音……! 上だよ!」


 夜空を裂く轟音。

 闇そのもののような巨大な翼が影を落とし、城壁を呑み込まんばかりに迫ってきた。

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