第1章 死にたくなかったのに死んでいた(8/15)
「自分の目を、自分が見ることはできない」
そんな言葉を、どこかで聞いた気がする。
哲学的な意味だったのか、視覚構造の物理的限界だったのか、今では思い出せない。
ただ、今の俺にはそのどちらでもない、もっと厄介な意味でそれが刺さっていた。
──昨日、あの黒い穴の中から俺を見ていた“眼”。
それが自分自身の目だという予感。
それは論理でも証明でもない。ただ“確信”だけがあった。
「……俺は、いったい何を見ていた?」
問いは、宙に溶けた。
宿を出ると、まだ薄曇りの空が広がっていた。
町は平穏そのものだった。
朝市の準備に追われる人々、焼きたてのパンの香り、子どもたちの笑い声──
すべてが、異常の“対極”にあった。
それでも、俺の中では世界が変わっていた。
目の奥が疼く。視線の端に“あの黒”がちらつく。
もう見えはしない。けれど、そこに“ある”ことだけは、理解できる。
俺は何かの“装置”の中にいる。
そんな感覚が、日増しに濃くなっていた。
◆
その日の午後、小さな事件が起こった。
「助けてくれぇええ!」
悲鳴とともに、若い男が路地裏から転がり出てきた。
後を追って現れたのは、二人の男──
いずれも皮鎧にナイフを持ち、血走った目で男を追っていた。
周囲の人間がざわつき、逃げ出す。
俺は、立ち止まったまま、それを見ていた。
「くっそ、どこ行きやがった、あの野郎……!」
「“例の場所”に近づきやがって……口封じが先だな」
その言葉に、俺の中で何かが点火した。
“例の場所”。
あまりに曖昧で、それでいて意味深すぎる単語。
──奴らは何かを知っている。
追われていた若者は、俺の足元にすがりついた。
「た、助けて……! 頼む……っ!」
その目には、明らかな“真実”が宿っていた。
嘘を吐いている目ではない。
俺を騙そうとしている人間の目ではない。
──なら、やることは一つだ。
俺は、足元の若者に小さく囁いた。
「目を閉じろ」
次の瞬間、俺の掌がゆっくりと宙をなぞる。
何の呪文も、何の詠唱もない。
ただ“力”があった。
それを、解放した。
──空気が震える。
「な、なんだ……っ!? 身体が、動かねえ……!」
「がっ……あああ……っ!」
悲鳴が、断末魔に変わった。
二人の男は、まるで首の骨を抜かれたかのように、膝をつき、崩れた。
一切の外傷はない。
だが、完全に“終わって”いた。
若者は、目を見開いたまま俺を見た。
「……あんた、いったい……何者なんだ?」
俺は答えなかった。
言葉にするには、まだ何も分かっていなかったからだ。
俺は、“俺が何者であるか”をまだ知らなかった。