第1章 死にたくなかったのに死んでいた(6/15)
歩く速度を落とした。
目に見える景色は変わらない。緑、土、空。風の中に混じる微かな花の匂い。
だが内側では、確実に何かが動いていた。
それは、感情というより“違和感”だった。
「──記憶が、抜けてる」
独白のように、呟く。
転生による副作用ならば、もう少し滑らかに忘れるはずだ。
だが、これは違った。
“端が切り取られた”ような記憶。
継ぎ目が見える。不自然な断裂がある。
意図的な加工の跡──そうとしか思えなかった。
「誰かが、俺の記憶を消した?」
その仮説が脳裏に浮かんだ瞬間、風景の彩度が一段落ちたような気がした。
世界そのものが、わずかに歪んで見えた。
それは、疲労でも、空腹でもない。
“視界の裏側”が引きつるような感覚だった。
俺はそこで、初めて意識的に“目を凝らした”。
すると──見えてしまった。
視界の端、ほんの指先の幅。
その隅に、黒い“点”があった。
木の葉でもなく、影でもなく、虫でもなく。
ただそこに“在る”黒。
「……おかしいな」
その黒点は、俺が目を動かすたびに、ほんのわずかにずれていた。
だが、逃げない。消えない。
まるで“こちらを見ている”ようだった。
(いや、そんなバカな)
首を振って、正面を見た。
黒点は──視界の端に戻った。
まるで“決して中心には現れない”と決められているかのように。
俺は立ち止まる。
深呼吸を一つ。空気は確かに新鮮だった。
だが、それすら信じられなくなっていた。
「幻覚……じゃない」
視界の異常。記憶の欠損。そして、この世界の“整いすぎた構造”。
すべてが、どこか作為的だった。
◆
その夜、小さな町にたどり着いた。
石造りの家々。灯りのともった酒場。犬の遠吠え。
誰も俺に声をかけなかった。旅人など珍しくないらしい。
適当な宿を見つけて、部屋に入る。
水差しで顔を洗い、ベッドに腰を下ろす。
薄暗いランプの光が、壁を揺らしている。
ふと、部屋の隅が気になった。
暗がりのその一角に──“何か”があったような気がした。
俺は立ち上がり、ゆっくりと近づく。
壁、床、そして──そこに、確かに“あった”。
それは、直径五百円玉ほどの黒い点だった。
壁に、ぽっかりと、異常なまでに“黒い穴”が開いていた。
いや、穴ではない。
それは──“闇そのもの”だった。
「なんだ、これは……」
手を伸ばす。
触れられそうで、触れられない。
ただそこに“在る”ことだけは、確実だった。
そのときだった。
──中から、“何か”が俺を見返してきた。
錯覚ではない。
はっきりと“眼”を感じた。
その黒の奥に、“誰かの目”が、こちらを覗いていた。