第1章 死にたくなかったのに死んでいた(5/15)
翌朝、俺は静かに荷物をまとめていた。
といっても、持ち物などほとんどない。
昨夜、村人からもらった食料と水袋、それに簡素な旅人用の外套。
この世界での“俺”に備えはない。なにせ、昨日が初日だったのだから。
「どこへ行くんだ?」
声がした。振り返ると、案の定、ガルドだった。
腕組みをして、柱にもたれている。
その目は、まるで“見透かす”ようだった。
「少し歩きたいだけだ」
「逃げるつもりか?」
「……逃げるって何から?」
「自分自身から、だろう」
ガルドのその一言が、まるで針のように胸に刺さった。
だが、俺は笑った。演技ではなく、自然と笑みがこぼれた。
「よく見てるな」
「お前のような奴を、昔見たことがある。──何もかもを背負って、それでも黙って生きてる奴だ」
「そいつは、どうなった?」
「……英雄になったよ。死んだけどな」
その言葉を最後に、ガルドは背を向けた。
歩きながら、振り返らず、ただ一言だけ投げてきた。
「お前がどこへ行っても、お前はお前だ。それを忘れるな」
◆
スレーヴ村を出た道は、ゆるやかな下り坂になっていた。
森が左右に広がり、鳥の鳴き声が時折、風にまぎれて聞こえる。
歩くたびに草が擦れる音がして、靴の裏に土が馴染んでいく。
「……ああ、これは、ひどく“現実的”だな」
この世界が夢ならば、もっと都合のいい演出があったはずだ。
例えば、案内役の妖精だとか、スキル画面だとか、魔王討伐の指令書だとか。
だが現実には、俺はただ歩いているだけだった。
誰からも期待されず、誰の物語にも属さず、ただひとりで。
この静寂は、ひどく懐かしいものだった。
現世でも、そうだった。
銀行の喧噪に紛れて、俺はいつもひとりだった。
昼食は一人でコンビニ。会議では頷くだけ。Excelの海に沈み、残業の山に埋もれ、金を動かしながら、自分の時間を売っていた。
何ひとつ“手応え”などなかった。
だから、死んだのだ。──否、死なされたのだ。
「……いや、違うな。あのとき、何か“見た”はずなんだ」
記憶の端が、妙に曖昧だ。
転生の直前、何かがおかしかった。
事故──ではない。
病気──でもない。
ただ、白くて、冷たくて、乾いた匂いだけが脳裏に残っている。
「死んだ原因を忘れてるって、どういうことだよ」
俺はつぶやきながら足を止めた。
記憶が、まるで白紙になっている。
それは“転生”による副作用だろうか?
だが、妙な感覚がある。
誰かが、記憶を“書き換えた”ような、そんな不自然さが。
──そして、それを認識した瞬間、胸の奥が疼いた。
まるで、そこに“もうひとつの俺”が眠っているかのように。