第1章 死にたくなかったのに死んでいた(3/15)
宿の部屋は、木製の床と粗末なベッド、洗面器のような水桶、それだけだった。
だが不思議と不便はなかった。
むしろ、東京の1Kマンションよりも広く、落ち着きすら感じられた。
殺風景ではあるが、清潔で、誰の気配もない。
これが「最初の夜」だった。
シーツの縁を指でなぞりながら、俺はぼんやりと天井を見上げた。
転生。
その言葉が、いまだに現実味を帯びない。
──だが現実は、そこにあった。
“向こう側”の現実は、俺が死んだ瞬間にリセットされた。
手帳も、スマホも、パソコンも、上司も部下も、融資案件も、不正な送金データも──
すべては、失われた。
まるで「なかったこと」のように。
「……カンストね」
ぽつりと呟いて、俺は起き上がる。
誰もいない部屋で、誰にも聞かせることのない独白を始める。
「神の手違いで、全ステータスが最大値。体力、魔力、知力、器用さ、運──全部、最強。なんて、分かりやすいジョークだ」
苦笑を漏らす。
笑っているのは、俺の表情だけだった。
心の奥には、確かな“寒さ”があった。
まるでこの世界そのものが、氷点下の水槽のように感じられる。
それは、空虚の感覚だった。
──強さを与えられて、何になる?
──生まれ変わったところで、何が変わる?
「誰も、俺に期待してないし、俺も誰にも期待してない」
その言葉は、まるで何度も反芻した台詞のように、口から自然とこぼれ落ちた。
◆
翌朝、俺は村の広場で、“あれ”を見た。
子どもが、犬に襲われていた。
いや、犬などという生易しい存在ではない。
黒く、巨大で、獣臭い。牙の長さが腕ほどある。目は赤い。
明らかに“異世界の生物”だった。
周囲の村人が声を上げる。誰も近づけない。
誰もが腰を抜かし、悲鳴を上げ、逃げ惑う。
だが、その中に、俺はいた。
「……ああ、もう、面倒くさい」
俺は小さくため息をついた。
足が勝手に動いていた。
頭では止まれと言っているのに、身体が“あの頃”のように動いてしまう。
──銀行の現場で、トラブル処理を担当していた頃と、まったく同じだった。
「やれやれ……」
ゆっくりと近づきながら、俺は右手を上げた。
思い出すまでもなく、力がそこに“ある”のを感じていた。
「一撃でいい。動きを止めるだけ。簡単な話だ」
小声で呟いたその瞬間──
俺の指先から、黒い閃光が走った。
音がなかった。
時間すら、止まったかのようだった。
獣の身体が、静かに、崩れ落ちた。
村人たちの沈黙。
子どもが、ぽかんとした顔で俺を見ていた。
誰も、何も、言わなかった。
俺だけが知っていた。
それが、ほんの“0.1%”の力だったことを。