第1章 死にたくなかったのに死んでいた(1/15)
午前八時三十二分。
駅のホームは、いつも通り、無慈悲なほどに整っていた。
黄色い線の内側に並ぶ黒い靴。顔色の悪いサラリーマン。耳に突っ込まれた白いイヤホン。曇天。湿った風。かすれた構内アナウンス。
すべてが「いつも通り」で、すべてが「死ぬ直前」だった。
それが皮肉でなければ何なのだろう、と俺は思う。いや、思っていた。あの瞬間までは。
人生には、回避不能なターニングポイントというものがあるらしい。
だがそれは、選択肢の提示やドラマチックなBGMとともに現れるものではない。
例えば、白いスーツを着た男が言った。「あなたは死にました」と。
そう言いながら、彼は笑っていた。申し訳程度の神様のように、申し訳程度の神殿のような場所で。
俺の名前は玖城透。
銀行で営業店管理を担当していた、三十七歳の中間管理職。
結婚歴なし、貯金残高二百七十万。趣味はない。友人は遠の昔に絶滅した。親はすでに墓の下、兄弟姉妹もいない。
要するに、どこにでもいるようで、どこにもいないような存在。それが俺だった。
そんな俺が、突然にして死んだらしい。
事故だったのか。病気だったのか。それとも、誰かの気まぐれか。
神様を名乗る白スーツの男は、教えてくれなかった。
ただ、こう言ったのだ。
「あなたは転生先において、全ステータスが最大値で設定されています」
意味がわからなかった。
全ステータス? 最大値? はて、そんなもの、人生にあったか?
彼はさらに付け加えた。
「手違いです。本来なら平均的な能力で転生されるはずが、神のシステムエラーにより、“カンスト状態”での移送となりました」
それは、俺の人生において初めて訪れた“当たり”だった。
だが──俺は何も言わなかった。ただ頷いた。
それが嘘だったからだ。
「カンスト」なんて言葉を聞いた瞬間に、俺の脳裏には一つの映像が浮かんでいた。
それは、パスワードロック付きの金庫。そこに詰め込まれた、俺の“もうひとつの記憶”だった。
「……それでは、良い旅を」
神様は言った。
まるで旅行会社の案内人のように。
その刹那、視界が白く染まった。
目を閉じるより先に、音が消えた。
気づいたときには、草の匂いが鼻を突いていた。目を開けば、空があった。
青くもなく、澄んでもおらず、ただ“広がっている”だけの空が。
俺は死んだ。
いや、死んだふりをした。
──そんな気がした。