ニーチェはやっぱりロマンチスト
名前は『井上』って言うらしい。歳は知らないかな。多分、同い年だと思うよ。聞かれたから「十六」って言っといた。僕は歳を教えるのに抵抗もないし、脅迫だとも思ってない。だから素直に答えた。まだ若いしね。歳なんてものは、ケースバイケ―スでいいと思うね。その場、その場で、しっくりくる数字を言えばいいんだ。だれもそれ以上は聞いてこないさ。
井上はさ、少しヒステリックなんだ。僕の言うことなすこと全部に、なにか言いたげな表情をする。そのくせ何も言ってこない。僕は困っちゃったね。初めて顔を見たときなんて、この世のすべてに怒っていみたいで、可哀そうにって思った。話していても、世界を恨んでるのがひしひしと伝わってきて、なおさら可哀そうにって思った。
多分、口に出てたんだろうね。
「その可哀そうにって、止めてください。絶対、思ってないですよね」
彼女は本気で怒っていたね。だから「可哀そうに」って言っちゃった。本当に思ってるんだけどなあ。
井上と話していたら、ふと思ったんだ。
「カルヴァン派の予定説ってあるだろう。それによると、君は救済されるべき人間なんだ。だから大丈夫、それは決定事項さ。ほら飛び立つんだ、君の未来は明るい、なにをやっても上手くいく。怖いものなんてなにもない。君は世界を愛している」
こんなにも息苦しくないのはいつぶりだろうね。いつのまにか、僕は呼吸が上手になってたんだ。自分に言い聞かせるように言ったよ。こんなこと、僕も言われたかったなって。
連絡先を交換すると、僕は急いで階段を駆け下りたね。まさか、こんなことが起きるなんて、だれが予想できただろうか。渡辺さんを探していたら、僕が渡辺さんになっていた。なんて気持ちの悪いことを言ってるんだろうと思うけど、事実だからしょうがない。
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いてる――あれは、まさにこのことだね。深淵とは、きっとボーイミーツガールのことだったんだね。ニーチェはやっぱりロマンチストだったんだ。
僕は渡辺さんで、井上が僕なんだ。
そして僕が渡辺さんで、渡辺さんには、誰かがいた。
僕に用意されてたのは、まぎれもないボーイミーツガールだった。だって渡辺さんは、僕にとって間違いなく運命の人だったから。でも渡辺さんにとって、僕は運命の人ではなかった。渡辺さんには、ちゃんと別の運命の相手がいたから。
「君は運命の人だけど、僕は運命の人じゃないみたいだ」
どっかの失恋ソングで出てきそうな歌詞が、自然と頭に浮かんだよ。この歌は、絶対に誰にも聴かせられない。これは、バレてはダメなんだ。知られちゃダメなんだ。このボーイミーツガールは、もう井上のものだから。
僕はこれから、井上の運命の人になる。
自分が運命の人なんて、こっぱずかしくて本当はやってられないけど――もう決定なんだ。
僕が大事にしてたものを、井上にあげる。申し訳ないなとは思うよ。壊れてるんだから。それでもさ、大事に抱えてきた分だけ、愛着みたいなものが沁みついてる。必死に練習した曲があって、それを井上に披露することになる。
ラウンドワンは、渡辺さんの十八番だったんだと思うよ。
だから僕が披露するのは、別の曲。
僕にしか奏でられない音がある。
大丈夫かな、音は出るかな。
明日、井上は夏祭りに行く。




