迷走辛苦
昭和43年(1968年)元旦、吉岡昇平は群馬の実家で、家族と一緒に正月を迎えた。母、信子が作ってくれた御節や雑煮や鮭の酒粕煮などをいただき、父、大介、兄、政夫、弟、広志と4人で、お屠蘇を飲み、家族全員で、新年を祝った。皆がこうして明るく会えるのは何より健康が第一だった。昇平の実家は貧しいながら、兄、政夫が後を継ぎ、姉、好子が前橋に嫁ぎ、昇平も広志も家から離れ、就職し、貧苦から解放され、昇平の両親は安堵の時を過ごしていた。昇平にとって、両親の明るい笑顔が見られることは、この上なく嬉しかった。何時もなら中山高志や森木圭一、川島冬樹、小池早苗あたりから、電話があるのだが、今年は誰からも連絡が入らなかった。従って昇平は兄弟で神明神社に初詣でに行った後、一人で家の前の九十九川の畔を散策したり、祖父の墓参りなどして過ごした。2日目は帰省していた清水真三に会い、松井田の『下町食堂』に行き、金井智久、小野克彦と合流し、簡単な新年会を楽しんだ。高校時代の思い出話が多かった。男女共学だったので、女性との思い出話も出たが、昇平は聞き手に回った。中島雪子、小池早苗、中沢珠美の話が出たが、素知らぬ振りをして聞いた。皆、嫁さん探しを考え始めていた。高校時代、近くの映画館『松映館』や『文化劇場』で日活、東宝、大映、東映、松竹などの映画作品を観て大人になった仲間たちは、今や結婚を考えるようになっていた。そう考えれば昨年の暮れ、昇平に見合い話が届いたのも不思議な事ではなかった。だが昇平にとって結婚は、貿易商への道や作家への道が見つかるまで、後回しの事柄だった。昇平は、早く東京に戻り、自分の仕事をしたかった。そして1月3日には東京都目黒区の『春風荘』に戻った。『春風荘』の昇平の靴箱の上の小引出しには、郵便受けから取り出された年賀状が、いっぱい詰まっていた。昇平はアパートの管理人石川百合ママに、新年の挨拶をして、磯部せんべいを手渡してから、『202号』室に入り、年賀状を確認した。尾形憲三代議士、矢野五郎秘書、王育文先生、木下徹先生などの他、『モエテル』の仲間や高校時代の友人や寺川晴美、小池早苗、中沢珠美、林田絹子、小野京子といった女性たち及び『オリエント機械』の若手から沢山の年賀状が届いていた。昇平は、それらの年賀状を読み、今年も頑張らなければと励まされた。4日は何時もより遅く『オリエント機械』に出勤した。浅野陽子や向井静子たち女性の多くが、和服姿で初出勤していた。午前10時、大食堂で磯部社長と大野副社長の年頭の挨拶があり、その後、正午から社員全員集合の新年祝賀会となり、昇平は酒を飲み、料理を口にしながら、田中や宮里、越水、原田、日向たち、若手と雑談した。昇平たちにも、金子、大塚、若林といった後輩が出来、『オリエント機械』の年初めの祝賀会は活気に溢れるものとなった。祝賀会が終わると、麻雀をする者、ボーリング場に行く者、酒を飲みに行く者、喫茶店に行ってお喋りする者などと、あちこちに分散した。昇平は田中と今里と越水との4人で、武蔵小杉の喫茶店『ブラジル』に行き、新年の抱負を語り合った。昨年末に辞めた三浦照男の話が出た。彼は『オリエント貿易』の合成樹脂部の支援を得て、プラスチック成型の会社を設立し、『オリエント機械』とそれ程、離れていない所に工場を構えるとの越水からの話だった。越水正勝は三浦照男と同じ『N大学』工学部の出身で、『オリエント貿易』の藤木澄夫と親しく、あらかじめ三浦の代わりに『オリエント機械』に途中入社して来た設計者なので、三浦のことを詳しく知っていた。田中俊明は、越水から、そんな三浦の話を聞き、ちょっと不満を漏らした。
「アメリカまで出張させてもらって、半年足らずで辞めるなんて、僕には出来ないね」
昇平も同感だった。だが三浦と親しい越水の手前、昇平は、心と別の事を言った。
「でも、三浦さんには三浦さんの考えがあるのだから、仕方ないよ。彼はそういう生き方をする人なんだよ」
「そんな奴に、会社の若い女たちが憧れたりするから、嫌になっちゃうよ」
「浅野さんが、夢中らしいよ」
越水の言葉に昇平は、びっくりした。昇平は、それを聞いて、友人、船木省三と浅野陽子が付き合いを止めた理由が分かった。浅野陽子の事を、船木は予想外に飛んでいる女で、計算高いと言っていたが、本当のようだ。そこで女性の話になり、田浦係長が向井静子と付き合っているとか石坂房子には社外に恋人がいるなどという話になった。田中が昇平に訊いた。
「ところで、吉岡。1階の営業部や総務部に、女性社員が多いが、お前は誰かと付き合っているのか?」
「いや。誰とも付き合っていないよ。俺は社内の女性とは深い付き合いをしないことにしているから」
「そうだよな。吉岡には社外に沢山、女がいるからな。小野さんは元気か?」
小野京子を知る宮里が昇平に訊いたので、昇平は素直に答えた。
「うん。元気だよ。去年、ダンスに行ったよ。宮里はどうなんだ。水木さんとは?」
「まだ時々、会っているよ。しかし、勤め先がお互い離れているからな。たまにしかデート出来ないよ」
そんな宮里と昇平の話を聞いて、田中と越水が羨ましがった。
「吉岡。そんなに知り合いの女がいるなら、俺たちにも紹介してくれよ」
「そうは言ってもな、宮里と同じで、皆、遠い所に住んでいる女たちばかりで駄目だ。だから、会社から離れた、ここら近辺で女探ししようじゃあないか」
「それは良い考えだな。それにはどうすれば良い?」
都会育ちの田中は、真剣な顔をして、昇平と宮里に訊いた。水木皆世と上手く行っている宮里は昇平の顔を見るだけで、その提案をしなかった。そこで昇平は言ってやった。
「そんなの簡単さ。ここら辺は会社から離れていて、ガールハントに好都合だ。春になったら、俺が、その極意を教えてやるよ」
「本当か?」
「ああ、本当だとも。ここの近くには『日本電気』や『聖マリアンナ病院』がある。そこの女子社員や看護婦に声をかければ、直ぐひっかかる。多摩川の鮎釣りと同じさ」
昇平が、そう言って笑うと、他の3人もワッハッハーと笑った。昇平の会社勤めは、このようにして、今年もスタートしたが、営業部の仕事は年初の客先への挨拶回りから始まり、多忙を極めた。そんな時に思わぬ不幸の知らせが跳び込んで来た。1月9日、『東京オリンピック』の陸上競技マラソンで銅メタルを獲得した円谷幸吉選手が、自衛隊体育学校宿舎の自室で家族宛ての遺書を残して自殺したのだ。それと同じ日だった。同人誌『新生』の仲間の青木泰彦から連絡があった。羽島流一の恋人だった岬百合香が、昨年末、森先生の葬儀の次の日、秋川渓谷の温泉宿で自殺していたという知らせだった。青木は今後、『新生』をどうするのか、21日の日曜日に会員全員が集まり会議するので、昇平に必ず参加するよう昇平に伝えた。昇平は青木に了解の返事をしてから、何故、森秋穂先生や岬百合香が自殺したのか理由が分からず、あれやこれや悩まされた。だが『オリエント機械』の仕事は、そんな昇平の個人的な出来事とは関係無く、次から次へと跳び込んで来た。『オリエント機械』の営業部の各担当の守備範囲は、一応、決まっていた。岡田課長は若手3人をまとめる役目の他、関西、中国、四国、九州の客先を担当した。田浦哲也係長は、静岡、名古屋といった中部地区を担当した。宗方博臣は東北、北海道を担当した。昇平は関東、甲信越地区を担当した。昇平の客先は多いが、『オリエント貿易』の営業マンと同伴で営業活動をするので大丈夫という経営者の考えで、沢山の客先を担当させられた。その為に昇平は『オリエント貿易』の担当者たちから、引っ張り凧の毎日だった。その上、困ったことには岡田課長が担当する四国の『OK工業』が昨年末、埼玉県の東松山に新工場を建設し、岡田課長に、その手助けを依頼されてしまった。機械メーカーの営業というのは、機械販売だけでは無かった。機械を販売した後も、その機械の面倒を見なければならず、不具合が発生すると、技術サービス部の高野課長や小川係長、原田隆夫、日向卓也、藤井敏久、金子孝昌らを連れて、現地に出張し、一緒に作業しなければならなかった。工学的知識に乏しい上に、華奢で不器用な昇平は、客先での現場作業に一苦労した。だが現場で一緒になって汗水流す昇平に製造部の技術サービスの連中も組立ての連中も皆、親切にしてくれた。新年の挨拶回りは20日までに一応、終了しので、昇平はホッとした。
〇
1月21日の日曜日、昇平は同人誌『新生』の会合に出席する為、谷中の喫茶店『カヤバ珈琲』に行った。ドアを開け、中に入ると、幸子ママが暗い顔をして、2階に上がるよう合図した。2階に上がると、広い座敷に同人たちが根本久三副主幹を中心に集まっていた。全員が集まるまで、それぞれ、ヒソヒソ話をしていた。昇平は青木泰彦と石田光彦の座る近くに座り、会議が始まるのを待った。ほぼ全員が集まり定刻になると、根本久三副主幹が口を開いた。
「去年12月26日、森先生が亡くなられました。また同人の岬百合香さんが、29日、先生の後を追うように亡くなられました。まずは1分間の黙祷をしましょう。黙祷!」
昇平たちは根本副主幹の言葉に合わせ1分間の黙祷を行った。黙祷を終えると、また根本副主幹が話した。
「私は年末に同人誌『新生』の主幹の森先生と、同人の岬百合香さんの突然の死を知らされ、本当なのかと疑う程、真に驚きました。このことについて、私は副主幹として、今後どうすれば良いのか悩んで参りましたが、今年になって、主幹のいなくなった同人誌の会を続けて行くべきか否かの決断を迫られ、本日、ここに会議を開かせていただいた次第です。本日のこの会議で、同人誌『新生』の会を、このまま続けて行くか、会を解散するか、各人の意見を聞きたいと思います。忌憚のない意見を聞かせていただき、今後について、最終的に役員と相談して決断したいと思っています。鵜川さんに司会を、土田さんに記録をお願いします」
この根本副主幹のご指名により、鵜川八郎が司会を務め、会議が始まった。まず古谷紀正が質問した。
「12月初めに春季号の原稿を提出しましたが、それは、どうなるのですか。春季号は発行するのですか?」
その質問に根本副主幹が答えた。
「それについては今日の会議の結果により、最終的に役員で決めます。印刷会社には、一時、ストップをかけています」
「苦労して作品の原稿を提出したのですから、私は春季号を発行してもらいたいです」
古谷紀正の質問に続いて橋口勇吾が意見を述べた。
「私は、古谷さんの言うように現在、同人の方々が投稿した作品を掲載した『新生』を発行すべきだと思います。春季号にするか、休刊号にするか、廃刊号にするかは、これからの意見で決めましょう」
「そうですね」
鵜川が、そう答えて頷くと松本典子が険しい顔をして言った。
「それは良いですが、森先生の亡くなられた『新生』は、森先生からの発展基金の支援を失い、会を継続して行くには資金的に、とても苦しくなります。従いまして、もし春季号を発行するなら、次号に掲載を望む人に掲載料の前払いをしていただかないと、発行は無理であることを、会計係として報告させていただきます」
「掲載料の前払いですか?」
「はい、そうです。でなければ同人費をアップするか、新しいスポンサーを見つけるしか方法がありません」
松本典子の発言は尤もな意見だった。同人誌を発行し、会を運営して行くには、同人会費だけではやって行けないことは確かだ。単なる同好のお茶飲み会とは違う。
「後払いでは駄目ですか?」
今回、投稿した伊藤勇斗が、松本典子に訊いた。
「駄目です。会の継続が決まっても駄目です」
「そうですか。では今回の投稿を私は取り下げます」
それを聞いて、詩人の神崎千香が発言した。
「今まで、小説より詩作品の掲載料の方が割高であることを容認して来ましたが、これから同人費が上がったり、掲載料が上がったりしたのでは、これ以上、私たち詩人は協力出来ません。『新生』を小説作品を中心とした同人誌とし、私たち詩人は『新生』とは別に、詩や俳句、短歌を中心にした詩誌を発行しようかと思います」
「それは『新生』から離れるということですか?」
「小説と詩歌の世界とでは表現形式が異なります。ですから、この際、分岐した方が良いのではないかと?」
「分裂では無く分岐ですか」
「はい。離婚では無く、別居です」
神崎千香が、そう言うと、皆が笑った。司会の鵜川八郎も笑った。すると彼女は、目を吊り上げて怒った。
「何が可笑しいの。私は真剣なのよ。どうなの青木さんたち、若い人の意見は?」
神崎千香に訊かれて、青木泰彦が慌てて発言した。
「今までの皆さんの話を聞いていて、このままでは次回の同人誌発行は中止にした方が良いのではないかと思います。それに今まで印刷を依頼して来た『尾久印刷』は、森先生の縁故で、印刷、製本代が高すぎます。印刷先を変更するとか工夫が必要です」
「そんなこと言ったら、次回の同人誌を発行出来ないわよ」
会計の松本典子がふくれっ面をした。するとワイワイ、ガヤガヤと意見が交錯し、交通整理が出来なくなった。そこで、根本副主幹が言った。
「諸々の意見、有難く拝聴しました。本日の皆さんの御意見を、土田さんが速記されておりますので、それらを参考に、会を続けるか終わらせるか役員で相談して、最終的報告をさせていただきます。本日の会議は、これで終了することに致します」
こうして、『新生』の『カヤバ珈琲』での会議が終わった。同人の何人かが、森先生の御自宅に、線香立てに行こうなどと口にすると、根本副主幹や松本典子が、それを制した。夫を亡くした夫人は夫が自殺した事で、文学仲間を極度に毛嫌いしているという事だった。従って昇平は青木泰彦、石田光彦、山形茂子たちと、池之端の居酒屋『吉兵衛』に行き、自分たちの今後について話し合った。男女10人足らずで、飲み食いしながら今日の会議を振り返った。まず青木泰彦が、今日、羽島流一が欠席した理由について話した。
「皆、知っているかと思うが、羽島君は、自殺した岬さんと恋仲だった。将来、結婚するつもりで付き合っていたらしく、岬さんの死は羽島君にとって、予想外の出来事だったようだ。それだけに彼の精神的衝撃は計り知れない程で、まさに茫然自失、虚脱状態だ。だから今日の会合に出席するよう伝えたが、欠席した。羽島君には、文学的才能がある。多分、彼は『新生』が継続することになっても、『新生』の同人から脱退すると思う」
「えっ。そんな」
伊藤勇斗が、そう言うと、一瞬、皆が押し黙った。すると青木泰彦と石田光彦は、あらかじめ相談していたのであろう。青木泰彦に代わって、石田光彦が今後について昇平たちに言った。
「そこで我々は、今日の会議で神崎さんが発言されたように、『新生』から脱会し、小説グループと詩歌グループに分けて、同人誌を発行し、このメンバーを中心に、自由交流しようと思っている。どうだろうか?」
「それって、新しい文芸グループを立ち上げるということですか?」
「そうだ。戦前の人たちの文学論から離脱した新しい文学の出発だ。大衆も出版社も、斬新な文学を求めている」
石田光彦の言葉に神崎千香が、同調し、付け足すように言った。
「そうよ。詩歌の世界においても同じよ。旧来の形式主義や耽美主義の詩歌から脱却した作品を私たち若き詩人たちで世に送り出すのよ」
昇平たち若手は石田光彦や神崎千香の情熱的な言葉に感動を受けた。こうして『新生』の若手の考えは、『新生』を離れ、新しいグループを形成する方向へと進んで行った。結果、『新生』の同人会は春季号も発行出来ず、解散することになった。昇平は、書きかけの小説の投稿先を失い、愕然とした。そこで昇平は自分の作品を採用してもらおうと、新宿区にある『S文芸社』の編集部宛てに手紙を出した。
〈 謹啓
貴社、益々、ご清栄の段、心よりお慶び申し上げます。
さて、この度、小生、吉岡昇平、ここ数年来、都内の同人誌会員となり、刻苦研鑽、文学に励んで参りましたが、その同人誌の会が潰れて、精魂込めて書き上げた作品の発表の場を失ってしまいました。その為、出来上がった作品を何とか世に出したいと、その発表を夢見る日々を送っております。
しかし文壇に知人のいない小生には、その発行を実現する術もなく、かと言って、大学を卒業して2年しか経っていないサラーリーマンの小生の給料では、自費出版も出来ず、毎日毎日、何とかならないかと、焦るばかりです。そこで、この筆を執った次第です。
以上の文学を愛する小生の状況を鑑み、血と涙の結晶ともいうべき昇平の作品を読んでいただき、情ある貴社にて刊行していただけないものかと思っております。作品の梗概は、平安時代の貴公子を主人公にしたもので、その誕生より逝去までの数奇華麗な生涯を描いたものです。
近く原稿をお持ちし、詳細内容について説明に上りたいと思っています。
ご都合の良い日を、2,3日、教えて下さい。その日に合わせて、貴社にお伺いします。
身勝手な依頼をして申し訳ありません。ご返事をお待ちしております。
切に切に、お願い申し上げます。
敬具
吉岡 昇平 〉
『S文芸社』の編集部が、どんな反応を示すか分からないが、『リラの花咲く山荘』の後に書き上げた長編小説を、何とか活字にしたいと昇平は心から願った。
〇
昇平は『オリエント機械』に勤めながら、『S文芸社』からの返事を待った。だが、梨のつぶてだった。『S文芸社』には同様な無名の小説家志望の青年からの手紙が、毎日のように舞い込んでいるに違いなかった。昇平が『オリエント機械』の営業をしながら、『S文芸社』の返事を待つうちに、2月が過ぎ去り、あっという間に3月になった。そんな或る日の午後、昇平の担当客先の『ID石油化学』の創設者、出光佐三会長が新設した『ID石油化学』溝ノ口研究所に最新鋭のテスト機、数台を納めた機械メーカー『オリエント機械』を見学したいと、車2台で部下を連れてやって来た。出光会長は社長職を退き、ゆとりが出来たのであろうが、迎える側としては平静ではいられなかった。もと貴族議員で日本の石油業界を牽引する実業家の来訪だ。磯部社長、大野副社長、遠藤常務、伊藤部長、岡田課長が勢ぞろいして出光会長を出迎えた。昇平は出光会長に随行して来た部長や課長と一緒に、狭い工場内を案内した。幸いにも昨年、第2工場が完成して、少しは工場らしくなったが、30分足らずで、工場見学は終了した。その後、あらかじめ予約しておいた綱島駅近くの割烹『和田兼』に出光会長たちを案内し、接待を行った。『和田兼』の女将は、日本で指折りに入る有名な実業家を迎えるとあって、何時もより念入りに化粧をし、昇平たちが、一行を連れて行くと、2階の床の間付き和室に一同を案内した。その接待席に磯部社長、大野副社長、遠藤常務、岡田課長の4名が出席し、出光会長たち4名を接待した。残念なことに昇平は、その席に参加させてもらえず、控えの部屋で、出光会長のお抱え運転手たちの接待をした。昇平は控室で出光会長の人柄などを訊いた。運転手は出光会長が自分たちを大切に思ってくれる人であること、徹底的に自分の目で確かめる人であること、社員を愉快に働かせてくれる人であることなどを、小さな声で話してくれた。昇平は、それを聞き、出光会長の愛と厳しさに溢れる人間味の深さに感激した。そんな出光会長の話を聞いているところへ突然、遠藤常務が血相を変えて、部屋の襖を開け、昇平に向かって手招きした。
「こっち、こっち」
その合図に昇平は急いで立ち上がり、部屋から出て、遠藤常務と向き合った。
「はい。何でしょうか?」
「大変なんだ。出光会長が、料理を載せた小さな竹籠を、ムシャムシャ食べちゃったんだ。俺たちの手前、苦痛をこらえているようだが、何かあったら大変だ。女将をここに呼んでくれ」
「は、はい」
昇平は、動顛している遠藤常務の話を聞き、その場で大声を出して女将を呼ぶわけにも行かず、奥の調理場への廊下を走って、女将を呼びに行った。
「ママ、大変なんです。ちょっと来て下さい」
「どうしたの、吉岡さん。そんなに慌てて」
「兎に角、遠藤常務の話を聞いて下さい」
女将は何事かと小走りで遠藤常務の所に駆け付けて、遠藤常務に訊いた。
「何か不手際でもありましたでしょうか?」
「料理を乗せた籠だ。それを会長が食っちゃった。大騒ぎになるといけないから、医者に連絡して、直ぐに来るよう手配してくれ」
「えっ。籠ですか?」
「そうだ。小さな竹籠だ」
すると女将が、腹を抱えて笑った。遠藤常務も昇平も笑い事ではないと、顔をしかめた。女将は笑いを止めると、和服の襟を整え、遠藤常務に応えた。
「遠藤さん。心配御無用です。あの籠は細切りにした昆布を使って竹籠風に編んだ物です。ですから食べても問題ありません。築地の料亭で腕を磨いた板長が丹精込めて作ったものですから」
「そ、そうなのか。竹籠かと思って慌てたよ。じゃあ、俺も戻っていただいて良いんだな」
遠藤社長は、そう言って接待部屋に戻って行った。その遠藤常務を見送ってから、女将は昇平にウインクして奥に消えた。昇平は控室に戻り、出光会長たちと自分たちの料理の献立が、全く異なることを意識しながら、再び2人の運転手と会話した。出光会長たちへの接待が終わりに近づくと、女将が控室に来て、運転手に、車を店の前に横付けするよう伝えた。昇平は2階から1階に降り、玄関で、出光会長たちと、磯部社長たちが降りて来るのを待った。そして出光会長たちが玄関に降りると、昇平は女将が用意してくれていた寿司折を車に乗り込む4人に手渡した。黒塗りの専用車が走り去ると、遠藤常務が両手を挙げて、大きく安堵して、昇平に言った。
「吉岡君。出光会長には全く驚かされたよ。あれから部屋に戻り、俺が籠をムシャムシャ食べたら、他の連中も、籠を食べたよ。あの会長は、何でも分かっている。本当に凄い人だ」
昇平は、遠藤常務が感心するのを聞いて、運転手が出光会長は徹底的に自分の目で確かめる人だと言っていたのを思い出した。出光会長は自分の会社が機械を発注している会社が、どんな会社で、どんな人物が経営しているのか、自分の目で確かめに来たのだ。昇平が、このような営業の仕事に振り回されている間に、『オリエント機械』の社内は大変だった。岩崎総務部長や工藤製造部長が辞めることになり、昇平より以前に集団就職で入社し、製造部で働いていた数人が辞めることになっていた。その為、4月から新年度を迎えるにあたり、人事異動なども計画されていた。昇平の身近なところでは、一緒に営業の仕事をして来た田浦哲也係長が『オリエント貿易』に戻ることになっていた。その代わりに『オリエント貿易』から1名、派遣されるが、誰が派遣されて来るかは不明だった。また受付係をしている浅岡陽子が3月いっぱいで辞めることになった。寿退社との噂だった。3月28日の木曜日、その田浦係長と浅岡陽子の送別会が綱島の『福龍亭』で行われた。受付係をしていた浅岡陽子は、総務部所属であったが、総務部の部屋と離れた営業部の部屋の一角に席を置いて来客の応対をしていたので、営業部員のようなものだった。だから営業部として、田浦係長と一緒に送別会のメンバーに加えた。『福龍亭』は岡田課長をはじめ、営業部のメンバーが接待に利用している馴染みの店で、ここでは岡田課長が大将のようなものだった。接客する女将は何事も岡田課長から指示をいただいた。料理が運ばれて来て、飲み物が行き渡ると、岡田課長が送別会を取り仕切った。岡田課長が自ら司会を務め、伊藤部長が、2人の健康と前途のご多幸を祈る送別の言葉を述べ、皆で乾杯した。その後、田浦係長が、『オリエント貿易』に戻っても、『オリエント機械』で学んだことを大切に、職務に精励すると謝辞を述べた。続いて岡田課長が浅岡陽子に挨拶を求めると、彼女は涙ぐみ、一言、お世話になりましたと言っただけだった。そこで昇平は、彼女に言ってやった。
「もう、良いじゃん。最後なんだし、これから仕合せになりますと言っちゃいなよ」
すると皆が拍手し、浅岡陽子は今後について喋った。
「では、お言葉に甘えて言います。私は皆さんご存じの三浦照男さんと5月に結婚します。仕合せになります」
陽子は満面に笑みを浮かべ、お別れの挨拶をした。送別会は料理が出終えたところで、向井静子が田浦係長に、昇平が、浅岡陽子に花束を渡し、お開きとなった。『福龍亭』を出ると岡田課長が宗方主任と昇平を飲みに誘った、宗方主任は、ちょっと渋い顔をしたが、上司からの誘いなので、昇平と一緒に岡田課長に従い、綱島から武蔵小杉に移動し、バー『オリーヴ』に行った。元住吉に住んでいる宗方主任にとって、自分の下車する駅を通り越して、その先の武蔵小杉に飲みに行くのは、好ましからざる事のようだった。昇平には途中下車なので気にならなかった。岡田課長は『オリーヴ』の弥生ママたちに歓迎されると、殿様気分になった。だが心の中は複雑だった。30歳になったというのに、まだ独身だった。結婚したいと思っているのに、気に入った相手を捕まえることが出来ないでいた。自分の前の席で仕事をしている向井静子に好意を抱いているのに、部下の田浦係長が、静子と付き合っていると気づいていたので、岡田課長は、自分の気持ちを口に出せないでいた。向井静子は静子の方で、岡田課長の気持ちを知りながら、30代の岡田課長では無く、20代の田浦係長や昇平たちに興味を抱いていた。社内での男女関係が、そんなであることに気づきながら、岡田課長は弥生ママや奈々たちを横に座らせ、宗方主任に言った。
「浅岡ちゃんが、三浦君と結婚するなんて全く気付かなかったよ」
「そうですね。私も、最近、2人が恋仲だと知りました」
「俺はてっきり、吉岡君の友達と付き合っているのだと、思っていたよ」
岡田課長は、そう言って昇平を睨みつけたので、昇平は慌てて否定した。
「岡田課長。それは誤解です。僕の友達は、浅岡さんに横浜を案内してもらっただけです」
「本当に、そうかな。そうには見えなかったけど。女の気持ちは分からねえ」
岡田課長が、そう言ってぼやくと、弥生ママが笑って言った。
「岡ちゃん。昔から女心と秋の空と言うでしょう。女は水物なの。ちょっと甘い誘い水があれば、そちらの方へ流れて行くのよ」
「ふーん。そうか。じゃあ、静ちゃんは、どうなんだ。彼女にも恋人がいるのか?」
岡田課長は宗方主任と昇平に訊いた。宗方主任も昇平も、どう答えたら良いのか困惑した。2人が黙っていると、岡田課長が2人を睨みつけて返事を求めた。
「どうなんだ?」
そう追及され、宗方主任が恐る恐る答えた。
「はい。向井さんは、田浦係長と付き合っていたようです。しかし、田浦係長が東京の機械部に戻るので、その後、どうなるか分かりません。それに彼女は設計の若い連中とも付き合っていますから・・」
「そうか」
岡田課長は腕組みした。昇平は岡田課長が向井静子に好意を抱いていて、遠藤常務が、2人を結び付けようとしているのを感じていた。だが、向井静子は、その気にならなかった。戦後に生まれた彼女たちは、戦後生まれの男性たちを求めていた。日活映画や東宝映画に影響されてのことだった。
「ところで吉岡君は社内に彼女がいるのか?」
「いません。青白い顔をして、客先を飛び回っている僕のことなど、彼女たちの眼中にありません。彼女たちは、一緒にボウリングゲームをしたり、ドライブに行ったり、海に泳ぎに行ったり、山にスキーに行ったりする男性に魅力を感じているのです」
昇平が、そう答えると、昇平の横に付いている関口ゆかりが、昇平の考えに同調する発言をした。
「そうなのよ。最近は、石原裕次郎や小林旭や加山雄三のようなプレイボーイがもてるのよ。女をかまってくれない仕事人間は駄目なの」
「そうかなあ。真面目に働く男でなく、そんな女をチヤホヤする遊び人を夫にしたら、後々、困ると思うのだが。なあ、宗方君」
「は、はい。そう思います」
結婚をしている宗方にとって、そんなことはどうでも良かった。早く妻が待っている家に帰りたかった。世間の荒波を越えて来た木村弥生ママは、同席しながら3人の男の心中を見抜いていた。岡田課長が悪酔いせぬように弥生ママは誘導した。
「岡ちゃん。貴男は働き者で真面目過ぎるからもてないのよ。でも私たちのような世間を分かっている女たちにはもてるから、安心しなさい」
「じゃあ、ママ、俺と結婚してくれるかい?」
「良いわよ。もっと通ってくれたらね」
弥生ママの言葉に岡田課長はワッハハと笑った。武蔵小杉の夜は長かった。昇平が岡田課長たちと別れて、『春風荘』に帰ったのは深夜過ぎだった。
〇
4月1日、月曜日、『オリエント機械』は新年度を迎え、午前9時から、2階の大食堂に全社員を集めて朝礼を行った。総務部の浜田課長が司会を務め、社是、社訓を唱和し、式次第に従い、まずは磯部社長が挨拶し、続いて大野副社長が挨拶した。その後、新任の田口総務部長、多賀製造部長、林原係長の新人3人が紹介された。田口部長は『М銀行』、多賀部長は『KH重工』、林原係長は『オリエント貿易』の出身で、よろしくお願いしますと順に挨拶した。それに続いて、新入社員、大卒男子2名、高卒男子5名、高卒女子3名の全10人が社員の前に横一列に並び、名を呼び上げられた。その後、新入社員の代表、野坂和也が入社式の挨拶を読み上げた。それが終わると遠藤常務が本年度の目標などを社員に説明し、社員一丸となって頑張ろうと、全社員に激励の声をかけて、新年度最初の朝礼が終った。それから昇平たちは営業部の部屋に戻って、伊藤部長の訓示を受け、岡田課長が女子社員たちにも分かるよう、4月からの客先担当の変更を伝えた。
「先月いっぱいで、田浦係長が『オリエント貿易』に戻ったので、今月から全国の客先を私と宗方君と吉岡君の3名で担当します。今まで以上に負担がかかり大変ですが、女子社員の皆様にも、その分、協力をお願い致します。今まで、田浦係長が担当していた大阪、名古屋、静岡地区の担当を3名で分担します。私が大阪地区、宗方君が名古屋地区、吉岡君が静岡地区です。よろしくお願いします」
この考えを宗方主任と昇平は、先週、武蔵小杉のバー『オリーヴ』で、岡田課長から伝えられていたので、別段、驚かなかった。ところが女性たちは、『オリエント貿易』から出向して来た林原係長が、営業部に配属になるものと思っていたらしく、びつくりした顔をした。そこへ総務部の浜田課長が、その林原係長と、新入女子社員、添田汐里を営業部に連れて来て、2名を営業部メンバーに紹介した。
「皆さん。今日から総務部で働いてもらう、営業部に関係する2名を紹介させていただきます。ご存じの方もいると思いますが、『オリエント貿易』から来られた林原さんです。今月から、営業部から提出してもらっていた製造機械の棚卸計算を林原さんにしていただきます。吉岡さん、引継ぎをお願いします」
「は、はい」
「よろしくお願いします」
『オリエント貿易』から出向して来た林原武士は、営業部一同に深く頭を下げた。昇平は『オリエント貿易』に出張した時、仕事が終わり、麻雀メンバーが足りなくて、経理部に所属していた、林原係長に参加してもらい麻雀ゲームをしたことが何度かあり、彼とは顔馴染みだった。林原係長の紹介を終えると、浜田課長は女子社員、添田汐里を紹介し、彼女の仕事の席が、営業部の一角にあることを教え、向井静子や宮本知子に、社長室、役員室、応接室などへの接待指導をお願いした。浜田課長は、その挨拶を終えると、林原係長と、1階奥の総務部の部屋に戻って行った。向井静子と宮本知子は、受付席に1人座らされて戸惑っている添田汐里に、今まで浅岡陽子がしていた来客名簿への記入の仕方、社長、副社長の出社時刻、退社時刻の記録、お茶の入れ方などを教えなければならず大変だった。だが彼女たちは優しく指導した。彼女たちだけではない。営業部の男たちは客先担当が増え大変だった。そこで昇平は、まず『オリエント機械』の棚卸方法を、午後1番で林原係長に説明した。第1工場と第2工場に林原係長を案内し、組立て中の機械を目視で確認し、完成度を毎月末、棚卸表に%で記入し、浜田課長に提出すれば良いと教えた。但し、仕入れ材料の内容と数量及び出庫数については、資材部が担当しているが、正確でないようなので、在庫管理方式を検討すべきだと提案した。昇平からの説明を受けて、林原係長は、とても喜んだ。昇平の悩みは、静岡地区の営業だった。田浦係長と全く引継ぎをしていなかったから悩んだ。『オリエント機械』にとって静岡地区は厄介な地域だった。理由は、大阪、名古屋、九州、北海道などには、『オリエント貿易』の営業所があり、日頃、その出張所の営業マンが客先と接触していた。しかし、静岡地区は『オリエント貿易』の東京本社の営業マンが担当してはいるものの、僻地扱いで、客先から声がかからない限り、担当者が訪問しなかった。田浦係長も大阪、名古屋の担当者と同行する仕事を優先し、静岡地区を軽視扱いしていた。新幹線新横浜駅建設の計画があるが何時、完成か分からず、静岡地区への出張は新幹線電車を使えず、移動するのに時間がかかり、不便だった。だが担当になったからには、出張せねばならなかった。そこで昇平は伊藤営業部長に、静岡地区の挨拶回りに同行してもらいたいと要請した。その昇平の要請に、かって『オリエント貿易』の合成樹脂部にいた伊藤部長は社内にいて社内会議に出たり、部長席で報告書を読んだり、書類や伝票に承認印を押したりしているのも良いが、たまには出張したかったらしく、昇平の依頼を快く引き受けてくれた。昇平は、上司に同行してもらえることになり、大喜びした。昇平はまず、田浦係長が担当していた客先の他、考えられる静岡地区の顧客リストを作成し、遠方の浜名湖以東の浜松から磐田、掛川、島田、藤枝、静岡、富士、沼津と横浜方面に向かって移動して来る挨拶回りの計画を立てた。その初回の挨拶回りは伊藤部長と品川で待ち合わせして、東海道本線の電車に乗り浜松まで行き、そこから遠州鉄道の電車に乗り替え、岩水寺の客先『岩水化成』に行った。そこの技術担当の岩淵課長は、昇平が新入社員の時、高野課長や小川係長たちと現場作業に出張した折、窓口担当だったので、昇平の事を覚えてくれていて、直ぐに社長室に案内し、山崎社長と伊藤部長との会談をセットしてくれた。山崎社長は、今まで布袋製品を製造販売して来たが、これからは繊維部門を縮小し、プラスチックフィルム製品の製造販売に傾注する計画でいると話してくれた。そして、増設機械の見積書を提出して欲しいと伊藤部長に依頼した。伊藤部長と昇平は喜んだ。『岩水化成』での挨拶を終えると、昇平たちは浜松に引き返し、浜松から磐田に移動し、岩田にあるフィルム製造会社に挨拶して、1日を終えた。昇平は掛川辺りで1泊して、次の挨拶回りを続けても良いと思ったが、伊藤部長は『岩水化成』の山崎社長から見積依頼をされたので、直ぐに帰って見積作業をすべきだと昇平に指示した。そんなこんなで、昇平は多忙な新年度を迎えることになった。
〇
目まぐるしく新年度を迎えたのは昇平だけでは無かった。『モエテル』のメンバーたちにも変化が生じた。互いに、自分の勤務する会社への忠誠心が強くなり、大学生時代の仲間との交流機会も希薄になり始めていた。昇平は『モエテル』の下村正明から、久しぶりに電話があり、4月19日の金曜日、銀座の『パリシェ』で会合があるからというので、都内への出張を作り、その日の夕刻、喫茶店『パリシェ』に行った。昇平が2階にある『パリシェ』のドアを開け、店内に入ると、何と10人程が集まっていた。会合では手塚と細木が中心になって語り、5月の連休に皆で何処かへ旅行しようという話になっていた。ところが仲間の中に勤務先での環境の変化があり、かってのような集団行動に参加出来ないという仲間が出て来て、旅行の話はまとまらなかった。『アスカ工業』に勤める久保厚志が連休明けから静岡工場勤務になり、東京から静岡に移動するとのことだった。『ロリアン化粧品』に勤める船木省三も、『ロリアン化粧品』の札幌営業所開設の為、連休後、北海道で働くことになっていると話した。昇平と松崎利男は5月の連休に帰省して、墓参りすることになっていて、5月の旅行には参加出来ないと、旅行の誘いを断った。それを聞いて、小平も、梅沢、菊島、安岡たちも、5月の旅行に乗る気でなかった。すると岩野義孝が、新しい提案をした。
「皆、それぞれに勤務先などの都合により、『モエテル』の会合や旅行に参加出来なくなって来ている。でも僕は学生時代の友情の絆を大切にしたい。どうだろう。皆で友情を継続する為に、自由に集まれる遊び場を作っては?」
「遊び場?」
「うん。気が向いた時、皆が自由に集まれる所」
岩野のその言葉を聞いて、松崎が質問した。
「ということは、自分たちの集まる飲み屋でも経営しようっていう考えか?」
「まあな」
岩野が、そう答えると、小平義之が岩野に訊いた。
「美代さんと共同経営でも始めようというのか?」
「まあ、そんなところだ」
岩野に代わって手塚秀和が答えると、都庁勤めの梅沢哲夫が、大反対した。
「それはいけないよ。夜の商売に手を出すなんて、勤め先に知れたら首になるよ。僕は反対だよ。下町の喫茶店程度なら、まだ良いが・・」
梅沢が反対すると菊島も小平も安岡も反対した。昇平は下村や船木たちと黙って仲間の会話の成り行きを聞いていた。と突然、細木逸郎が提案した。
「そういうなら、宿泊旅行などに利用出来る健全な憩いの場所を考えようよ。たとえば吉岡の小説に出て来るような軽井沢の山荘のような憩いの場所を・・・」
昇平は、細木逸郎の提案を聞いて、びっくりした。突飛な事を考える男がいるものだ。すると、その考えに手塚や岩野が同調した。
「それは良い考えだ。夏は避暑や登山に、冬はスキーに行ける場所があると良いな」
「そうだな。ホテルや旅館に泊まらず、安い費用で遊びを楽しめる場所があると良いよな」
「俺たちメンバーの友情の証としての記念館。それを建てよう。結婚して生まれて来る子供たちを連れて行ける高原の記念館。そんなのがあると良いな」
「そんなの夢の夢だよ」
「いや。夢と思ってはいけない。僕たちには普通の人と異なる『モエテル』で培ったチャレンジ精神が備わっている。夢を夢とは思わず、実行に移してみようじゃあないか」
細木は雄弁だった。その細木の言葉に岩野も手塚も大乗りになり、久保までもが賛成した。昇平は困惑した。自分の小説の山荘は、富裕層の所有する山荘だ。貧乏人の自分には考えられない夢だった。久保は同席していた安岡に確認した。
「安岡君は、どう思う。1人、年間3万円負担し、ローンを組むんだ。メンバー15人集め、年間45万円の返済をして行けば、何とかなるのではないかな」
久保の考えに対し、安岡は慎重だった。
「うん。それぞれが給料もアップして行くし、年間45万円のローン返済は可能だ。でも土地購入や記念館の建設などのローンを組むには、20%以上の頭金を支払わなければならない。4、5年かけて頭金を貯めてからでないと無理だよ」
「うーん。そうか」
皆、夢をくじかれ、ガクンとなった。それでも岩野、手塚、細木の3人は湧き上がる青春の夢を諦めようとはしなかった。大学を卒業し、若さに溢れる3人組は山荘建設に夢を抱いた。手塚が皆を牽引するように言った。
「でも、夢を諦める訳には行かない。今度の連休、俺と岩野と細木で、ドライブがてら、物件探しに行って来るよ」
5月の連休でのグループ旅行は、そんなことで、1部のメンバーだけが出かけることになった。喫茶店『パリシェ』での会合が終わると、皆で焼き鳥屋『鳥ぎん』に移動し、酒を飲んだ。その後、家に帰る者と飲みに行く者に別れた。梅沢、船木、松崎、菊島、安岡たちが帰るというので、昇平も彼らと一緒に帰ることにした。すると手塚や小平、下村が、口をそろえて言った。
「吉岡。何時も顔を出さないのだから、たまには付き合えよ」
「そうだよ。たまには酒でも飲もうぜ」
「銀座のバーには、小説のネタが沢山、転がっているぜ」
昇平は手塚たちに、そう言われ、何時も一緒に帰る梅沢や船木にさよならし、『モエテル』の呑み助たちに付き合うことにした。手塚たちの馴染みのバーは『銀座三越』の裏の薄暗い通りにあり、小さな鈴蘭形のランプが、バー『アモーレ』の看板を照らしていた。昇平は手塚たちに連れられ、『アモーレ』に入った。その店はカウンターバー形式で、先客2人がいるだけだった。そこへ『モエテル』のメンバー6人が入って行ったので、ママの平原美代は大喜びした。カウンター内の接客女性は美代の他、3人いて、皆、美人だった。昇平と下村は、その3人のうちの1人と会話した。黄色いワンピースを着た彼女、松浦真理子は何処か長嶋選手と結婚した亜希子夫人に似ていたので、昇平がそのことを口にした。
「真理ちゃん。亜希子夫人に似ているって言われない」
「ええ、時々、そう言われるの」
彼女は笑って、そう答えた。それから、個人的な話になり、昇平は下村と同じゼミで学び、将来、貿易商になるのが夢だと語った。そして、質問した。
「真理ちゃんは昼間、何しているの?」
「えっ、私、私は赤坂の経理事務所で働いているの」
昇平は真理子が赤坂の経理事務所で働いていると聞いて驚いた。経理事務所の仕事を終えてから、『アモーレ』に働きに来るとは頑張り屋だ。昇平たちがそんな会話をしていると、美代ママが手塚たちに、今日の会議がどうだったかと訊いているのが耳に入った。
「皆さん、出資に賛同してくれたの?」
「堅物がいて、思うように行かなかったよ。サラリーマンが水商売に手を出すなんて、無茶だとさ」
「私、新宿の店の計画を進めちゃっているの。何人かで良いから協力してよ。手塚さん、岩野さん、お願い」
美代ママは2人に手を合わせた。だが手塚も岩野も苦笑いするだけで、良い返事をしなかった。昇平たち同様、真理子も、その会話を耳にしていたのだろうが、気づかぬ振りをして、昇平と下村に、ウイスキーの水割りの追加をしながら、会話を続けた。
「吉岡さん、恋人いるの?」
昇平は、突然、真理子にそう訊かれ、一瞬、戸惑って返事した。
「いないよ。女性とは縁が無くて・・・」
「嘘でしょう」
「本当にいないんだ。仕事が忙し過ぎるんだ。営業の仕事で、相手のデートの希望と嚙み合わなくて、何時も、振られっぱなしだ。今は諦めている」
「諦めては駄目よ。人は支え合い生きて行くのだから。素晴らしい相手を見つけないと・・」
「成程」
昇平は、分かったような振りをした。『アモーレ』の女たちは、皆、明るい顔で、『モエテル』の男たちとの接客に努めた。相手の考えに自分の思いを加え、会話に花を咲かせた。昇平は、その夜に働く彼女たちの明るさの中に深い暗闇が潜んでいるように思えてならなかった。
〇
昇平にとって、『オリエント機械』の仕事と創作活動、脚本の校正のアルバイトと3足の草鞋に近い日常は、大変、だった。『オリエント貿易』の営業マンとの麻雀や飲食での付き合い、『オリエント機械』の上司や同僚との麻雀や飲食の時間は、時間の浪費のように思われたが、昇平は周囲の人たちとのコミニケーションを大事にした。人との付合いの中には得られる貴重な情報が沢山あった。3人行えば、必ず我が師ありと論語にあるように、周囲の人たちと何か一緒にやると、必ず見習うべき良い手本や、やってはならない悪い手本を学ぶ事があった。それが営業の仕事でも役立つと昇平は感じていた。特に『オリエント機械』の上層部は麻雀が好きだった。仕事を終えてから、遠藤常務、田口部長、石本部長、多賀部長、岡田課長、高野課長、三橋課長たちの誰かが、綱島の雀荘『竹藪』で麻雀をしていて、メンバーが足りないと昇平に声がかかった。同期の田中も宮里も麻雀が出来るのだが、賭け事が嫌いなので、『竹藪』には顔を見せなかった。雀荘『竹藪』はお客がいれば、深夜営業のみならず、明け方まで営業した。まさに雀のお宿みたいな雀荘だった。昇平は、そんな雀荘でのゲームを終えて、『春風荘』に帰ってから、木下徹先生の脚本の校正を行い、フラフラ状態になったりした。だが、月末の日曜日になると、脚本の校正作業を何とかし終えて、午後に夏目綾香先生と待ち合わせの恵比寿の喫茶店『銀座』に行った。先に店に入り、コーヒーを飲んでいた綾香先生が、昇平の顔色を見て心配した。
「吉岡さん。顔色、悪いわね。大丈夫?」
「はい。大丈夫です。遅れて済みません」
「気にしない、気にしない。では、食事でもしながら、話をしましょう」
2人は、それから向かい合わせになって食事をして、自分たちの近況を話した。綾香先生は木下徹先生たちの劇団計画に参加し、社交ダンスと違った舞台での踊りの研究に夢中になっていると話した。昇平は『オリエント機械』の営業マンが1人減り、自分の守備範囲が広がり、現在、請け負っている木下徹先生の脚本校正のアルバイトが苦痛になって来ていると話した。そして、もし許していただけるなら、このアルバイトを友人にバトンタッチしたいと告白した。すると綾香先生は、ちょっと困った顔をして言った。
「そんなに忙しいの。木下先生も私も、『テアトル・エコー』の立ち上げで忙しいの。大変なのは分かるけど、協力してよ」
「でも、約束が守れなくて、迷惑をかけることになったら、大変ですから」
「ううん。貴男の代わりの人でも良いけど、私、貴男にお願いしたいの」
「僕が紹介しようとしている仲間は僕より、ずっとユーモアの描ける男です。木下先生の脚本に肉付け出来る奴です。彼に相談しますので木下先生に、僕の意向を伝えて下さい」
「困ったわねえ。ねえ、何とかならない」
「兎に角、会社での仕事が増えて、あっちこっち出張しなければならず、大変なんです」
「分かったわ。木下先生に吉岡さんの近況を説明してみるわ」
「よろしくお願いします」
昇平は、そう言って、赤ペンで校正を終わらせた木下徹先生の脚本を綾香先生に渡した。綾香先生は、その原稿を受け取ると、脚本の校正代5千円を昇平に渡しながら言った。
「お疲れ様。これから家に帰ってゆっくり休養してね。次回の時、たっぷり癒して上げるから」
昇平は彼女の妖しく頷く表情を見て、心臓が止まりそうになった。尊敬している綾香先生の口から出た言葉とは思えなかった。昇平は今回も綾香先生に喫茶店代を支払ってもらい、喫茶店『銀座』を出て、恵比寿駅前で綾香先生と別れた。綾香先生は不思議な人だ。その翌日、天皇誕生日、昇平は部屋の片隅のダンボール箱に投げ込んでおいた下着やパンツ、靴下などを洗面器で手洗いして、軒下に干した。その後、座敷箒で部屋掃除をし、『ナイアガラ』に昼飯を食べに行く準備をした。そんな最中に、1階の管理人の石川百合ママが、階段の下から昇平の名を呼んだ。
「吉岡さん。吉岡さん。電話ですよ。電話がかかって来ていますよ」
昇平は、その声に即答した。
「はーい。今、行きます」
昇平は急いで階段を駆け降りた。
「女の人からよ」
「はい」
昇平はピンク電話の所で立っている百合ママから、受話器を受け取って相手を確かめた。電話の主は林田絹子だった。
「吉岡さんですか。林田です」
「ああ、林田さん。こんにちは。どうしたの?」
「昨日、スズちゃんの家に泊まったの。今、学芸大駅前で、スズちゃんと食事をして、こらから、帰るところ。吉岡さん、どうしているかなと思って、電話したの」
「何だよ。声をかけてくれれば、出かけて行って、食事を一緒にしたのに」
「でも、休みの日に、突然、食事に誘ったら迷惑じゃあないかと思って」
その通りだ。なら何で電話して来るのだ。昇平は電話をかけている絹子の姿を想像した。傍に畑中鈴子がいて後押しされているに違いない。昇平は不安な気持ちで自分の返しの言葉を待っている絹子の気持ちを察し、明るい声で、彼女に言ってやった。
「迷惑なんかじゃあないよ。声を聴けて嬉しいよ」
「そう。そう言ってもらえて嬉しいわ」
「これから、どうするの。時間があるなら、渋谷まで出て行くから、久しぶりに、渋谷で、お茶でも飲もうか」
「良いの?」
「うん。これから仕度して出て行くから、2時に東横線の改札口で会おう」
「そう。では、渋谷の改札口で待ってるわ」
絹子は、そう言って、電話を切った。絹子が電話を切る音を確かめ、昇平がピンク電話の受話器を置くと、1階の部屋のドアが開く音がして、管理人の百合ママが顔を覗かせ、艶めかしい笑みを浮かべ、昇平に言った。
「吉岡さん。沢山、ガールフレンドがいるのね。でも気をつけなさいよ。この世には悪い女たちが沢山いるから」
「はい」
昇平は赤面し、自分の2階の部屋に駆け上がった。それから財布をポケットに入れ、『春風荘』を出て、『ナイアガラ』でハヤシライスを食べて、渋谷に向かった。東横線の電車を降り、改札口へ行くと、白いブラウスと茶色のチョツキ、茶色のスカート姿の林田絹子が待っていた。その絹子が穿いている縦ラインを強調し、裾に向かって広がる茶色のスカートは、彼女にとても似合っていた。
「お待たせ。あれっ、スズちゃんは?」
「食事してから家に帰ったわ」
「そうだったんだ」
「さて何処へ行きましょうか?」
「そうだな。道玄坂方面に行ってみようか」
昇平と絹子は2階の東横線改札口広場から、階段を降り、『ハチ公』の銅像前を通り、スクランブル交差点を道玄坂方面に向かおうとした。その時、昇平の目に、真向いにある『東宝シネマ』の看板が目に入った。それを目にして、昇平は映画を観たくなった。
「先に映画を観ようか?」
「良いわよ」
「じゃあ決まりだ」
昇平は信号が変わるや、絹子の手を引いて、『東宝シネマ』の切符売り場に行き、入場券を買って、映画館に入った。上映されていたのは『めぐりあい』という映画だった。主役は黒沢年男と酒井和歌子だった。昇平と絹子は、暗い最後部席の後ろに立って、観ていた。だが、幸いなことに、途中で2人組が席を立ったので、そこに行って座り、ゆっくりと作品を鑑賞することが出来た。物語は自動車工場で働く青年、江藤努と、小さなベアリング店に勤める娘、典子が、家庭の問題などあって、破天荒で男らしい努と瑞々しく美しい典子が行ったり来たりする純愛作品だった。努は弟、宏の大学進学問題などで悩み、典子は母の再婚問題で悩み、2人は親しくなって行く。努は自分の誕生日に典子を誘い、工場のダンプカーで海水浴デートを計画した。その帰りの土砂降りの中、ダンプカーの荷台の上での2人のキッスは衝撃的だった。その場面は昇平たち観客を官能的に誘導しようとしたが、昇平は絹子に手を出すのを我慢した。そんな努と典子が家に帰ると典子の母が、バスの転落で死亡。典子は絶望的不運に見舞われた。一方、努は父が定年を迎え、失業。努は一家の生活を背負わなければならず、イライラして仕事場でミスを犯し、鍛造部に配置転換となった。その鍛造部で重労働を科されて行くうちに、努も生きる希望を失ってしまう。その努をベアリング店を辞めて、勤め先を遊園地に変えた典子が励ましたが、何の役にも立たなかった。2人の付き合いは途絶えたが、典子は何時か努が元気を取り戻し、自分のもとに現れる日が来ると信じた。努は鍛造部での高温の中、鉄粉にまみれながら、ハンマーを振るい汗を流すうちに、この金属の強度を高める仕事が会社にとって重要な仕事だと思うようになり、元気になった。そして或る日曜日、遊園地に勤める典子を訪ねた。彼女は一生懸命に働いていた。2人の視線が合った時、2人は大きな感動に包まれた。そこで映画『めぐりあい』は終わった。昇平は、その映画の海水浴シーンを観て、隣りにいる林田絹子とボートに乗って、土肥海岸の砂浜から離れた岩陰に行った時のことを思い出した。映画のシーンに似ているところがあった。絹子も、あの時のことを思い出したに違いなかった。そんな夏の日のことを思い出しながら2人は映画館を出た。それから昇平は道玄坂の『恋文横丁』から右に入ったレストラン『サラマンジュ』に絹子を連れて行った。絹子は、昇平が渋谷に詳しいのでびっくりした。
「吉岡さん。渋谷のこと良く知っているのね」
「まあね」
そう答えたが、この店は大橋花江に連れて来てもらった店だった。絹子は大橋花江のことを考えている昇平の心中など知らず、メニューを見ながら、何にしようか、悩んだ。
「何にしようかしら?」
「何にする?」
「分からないわ」
「じゃあ、適当に頼むけど良いかな」
「お願いします」
そこで昇平は、以前、大橋花江と食べたコース料理を註文した。そのフランス料理を食べながら、昇平は、絹子といろんなことを話した。田舎育ちの絹子は気取っているが素直で無知で、昇平の作り話を信じた。昇平が作家になりたいと希望していることを頼もしいと褒めたりした。昇平は絹子と話していると、嘘でも信じてくれるので、楽しくてならなかった。楽しい食事を終えてから、昇平は道玄坂のラブホテル『ムーンリバー』に絹子を連れて行こうと思ったが,踏み留まった。少女にようなところが残っている純真な絹子を誘惑することは、犯罪のように思われた。そこで昇平は絹子と一緒に山手線の電車に乗り、上野駅まで行って、常磐線のホームで電車に乗る絹子を見送って、『春風荘』に帰った。
〇
3日ほど出勤すると、5月の連休がやって来た。昇平はボストンバックに衣類や土産物を詰め込み、『春風荘』の部屋の鍵を閉め、上野駅から電車に乗り、田舎へと向かった。何時ものことだが、信越線の電車に乗ると、室生犀星の詩が浮かび上がって来た。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれ異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
犀星の詩だけではない。あの長野出身の高野辰之の詩も、昇平の脳裏に去来した。
如何にいます 父母
恙なしや 友がき
雨に風につけても
思いいずる 故郷
志を果たして
いつの日にか帰らん
山は青き故郷
水は清き故郷
昇平にとって、故郷は、頻繁に訪れるべき場所ではなかった。故郷は東京の大学に入学した時、決別した場所だった。高校の卒業式の時、あの講堂で歌ったではないか。
身を立て名をあげ やよ励めよ
今こそ別れめ いざさらば
あの日、故郷に決別を告げたのだ。今や自分は東京人だ。大学を出たものの、社会的地位の低い明日の生活にも困窮している青年だ。どんな顔して故郷に帰れば良いのか。それでも両親や兄弟に元気な顔を見せてやらねばならぬと思うと帰るのが辛かった。電車が埼玉の本庄を過ぎると、緑豊かな風光明媚な景色が、お帰りなさいと言っているようだった。草野心平の詩の一節が、また浮かび、故郷の美しさを再認識させた。
上州の三つの山は 遥かにかすみ
セルリアンブルーの川が流るる
高崎を過ぎ群馬八幡から碓氷川に架かる安中鉄橋を渡ると、美しい紫色の妙義山の頂が連なっているのが見えた。更に、その右の峰々の後方には優しくなだらかな浅間山が微笑んで見えた。やがて昇平の乗る電車は西松井田駅に停車した。昇平は、そこで電車から降りた。改札口では小野克彦が切符切りをしていた。
「お帰り」
「おう。元気そうだな」
「うん。昨日、清水も帰って来たぜ。時間があったら会おうぜ」
「うん。じゃあまたな」
昇平は、忙しそうにしている小野克彦に手を振り、西松井田駅の駐車場で待っている弟、広志の車に乗せてもらい、実家に向かった。高校時代、自転車で何度も潜ったトンネルを通り、実家に着くと、両親と兄、政夫が、昇平たち2人を明るく迎えた。久しぶりの家族での夕食に、昇平は安らぎを覚えた。何故なのであろうか。両親といると、何故か都会で抱き続けていた孤独感が霧消した。そんな実家で一晩寝ると、少年時代に戻ったような気分になった。午前10時には前橋の河合家から好子姉夫婦がやって来て、美味しい刺身料理をいただいた。昼過ぎには家からちょっと離れた所の墓地にある祖父母の墓参りに皆で出かけ、吉岡家の墓に牡丹、山吹、コデマリ、ツツジの花を飾り、線香を焚いた。昇平はその吉岡家の墓に両手を合わせ、可愛がってもらった地中に眠る祖父、慶次郎に、黙して胸の内を告げた。
「昇平は東京で頑張っています。安心して下さい。見ていて下さい。立派な人間になって見せますから・・」
昇平の心は、そう告げると晴れ晴れとした。その墓参りを終えての帰り道、昇平は幼馴染で人妻になった中山理枝が、母親と一緒になって墓参りにやって来るのに出会った。昇平は理枝と視線を合わせたが、直ぐに目をそらせた。理枝も同様だった。理枝は自分に声をかける好子姉と二言三言喋り、深く頭を下げ、すれ違って行った。仕合せそうな顔をしていたので、昇平は安堵した。家に帰ると、家でテレビを観ながら留守をしていた父、大介が、昨日会った小野克彦からの伝言を昇平に伝えた。
「昇平。小野君から、夕方5時から、松井田の『下町食堂』で、中学の仲間が集まるので、参加して欲しいと電話があったぞ。久しぶりだ。行って来い」
「はい」
それを耳にすると好子姉が昇平に言った。
「昇平。私たちは今から前橋に帰るので、私たちの車に乗せて行って上げるよ」
「本当ですか?」
「はい。帰るついでですから・・」
好子姉に代わって、正治義兄が笑顔で答えた。昇平は正治義兄が運転するライトバンに乗せてもらい、松井田の中山道通りの下町の交差点手前で、車からで降ろしてもらった。好子姉夫婦に別れの挨拶をして、『下町食堂』に行くと、小野克彦、金井智久、清水真三、北条常雄の4人が、先に集まり、酒を飲んでいた。小野克彦は父親が中学校の校長になったが母が病身で困っていると話した。金井智久は親戚の照男が入院していると話した。清水真三は東京で働いていた兄が実家に戻り、父親の建具屋の仕事を手伝っているが何時まで続くか心配だと話した。北条常雄は大本山総持寺での瑞生の修行を終え、去年、故郷に戻り、仏道の傍ら、農協に務めているが、二股の仕事なので大変だとぼやいた。昇平は兄が実家に戻り、高崎の自動車販売会社に通っているが、遊びが好きなので心配だと話した。皆、それぞれに悩み事があるみたいだった。それから同級生の話になった。東京から田舎に戻った新井茂吉はノイローゼ状態が続いており、家から一歩も出ないでいるとのことだった。上原敏子は近く年下の村内の男と結婚するという。中島雪子は横川の男と結婚するという。小池早苗はまだ高崎の『F電気』に通っているが、彼氏がいるらしい。同級生たちとの酒席での話は、思い出話なども加わり、終わりを知らなかった。また小野たちは昇平と清水に結婚話があるのではないかと訊いたが、2人とも、まだだと答えた。
「では俺たちが、見つけてあげるよ」
田舎に戻り女にもててる北条常雄が、そう言った。北条が、そんな事を言うので、昇平は北条が東京にいた頃、北条に豪徳寺に住む青野由美という彼女がいたが、どうなっているのだろうと訊いてやろうと思ったが、北条の身に何かまずいことになるといけないので、発言するのを思い留まった。同級生との飲み会は、『下町食堂』が閉店になるまで続いた。その飲み会が終わると、北条常雄が清水真三と昇平を北条の車で家まで送ってくれた。昇平は家に帰ると、待っていた母、信子とお茶を飲み、二言三言話して2階の部屋で眠った。高校時代、『夢の部屋』と名付けて、大学受験の為に猛勉強した部屋での眠りは、まるで雲に乗って昔に回帰する夢のような心地だった。そして目が覚めると、もう東京へ戻る日になっていた。兄、政夫は朝食を終えると、友人に会うからと言って、午前中から家を出て行った。昨日、墓参りで、誕生日祝いをほったらかしにされたので、多分、今日、彼女とデートするに違いなかった。昇平は弟、広志と昼食を済ませてから、両親に東京に戻る挨拶をして、広志の車に乗せてもらい高崎駅に向かった。その道中、昇平は運転する広志に訊いた。
「広志。お前には彼女がいるのか?」
「うん。いるよ。そろそろ、結婚しようかと思っている」
「えっ。まだ早いんじゃあないか」
「うん。相手は早く俺との結婚を決めたいらしい。昇ちゃんはどうなんだ」
「うん、俺か。俺は金が無いから、結婚なんて考えていないよ。それより作家になる夢の方が先だよ」
「本当に作家になろうと考えているんか。それこそ夢で終わってしまうんじゃあないか」
「うん。夢で終わる可能性は大だ。でも挑戦し、ワクワクしていたいんだ」
「ふ~ん。夢が叶うよう応援しているよ。そろそろ、市内だ」
実家を出てから、1時間足らずで、高崎駅に到着した。駅前ロータリーで昇平は広志の車から降り、広志に元気でなと言って見送り、高崎駅の改札口に行った。ゴールデンウイークの最後の日とあって、駅は混雑していた。昇平は何時ものようにコンコースで磯部せんべいの手土産を買い、上野駅行きの電車に乗り込んだ。故郷で連休を過ごし、東京へ帰るお客を乗せた満員電車なので、昇平が座る席など無かった。吊革につかまり、足が痛くなるのを堪えた。そんな窮屈な状態であるから昇平は赤羽駅で一旦、降り、赤羽線に乗り換え、池袋経由で渋谷まで行き、そこから東横線の電車に乗り祐天寺に帰った。『春風荘』の部屋に戻った時は、もうヘトヘトだった。
〇
5月の連休が終わると、昇平は猛烈に忙しかった。先月、伊藤部長と挨拶回りに富士地区に出張した折、立ち寄った『FUフィルム』の研究所の長井弘明研究員から電話があり、多層フィルムコーティングの試験機の設備計画をしているので、技術者を連れて打合せに訪問して欲しいとの依頼があった。そこで昇平は設計の本間英二課長を連れて、富士宮の『FUフィルム』の研究所に行き、テスト機の打合せを行った。長井研究員の希望はアメリカの『イーストマン社』と比肩する印画紙を開発する為のチタンホワイト樹脂を使用して研究するテスト機だと、昇平たちに説明してくれた。その打合せで昇平は研究用途を細かく聞き出し、本間課長は設計者らしく機械仕様の確認を行った。長井研究員から、本計画が『イーストマン社』に漏れぬよう、アメリカの『ドナルド社』の参考図を提供するが、決して『ドナルド社』に、本件の問合わせをしないよう機密保持のサインをさせられた。昇平は打合せ結果を『オリエント機械』に持ち帰り、伊藤部長や『オリエント貿易』の太田部長、山崎次長、藤木主任と打合せした。そして秘密裏に『МS製作所』の上野課長と会い、本件のテスト装置の全体図を作成してもらった。昇平は、その全体図を見ながら、コスト計算をした。推定のドンブリ勘定であるが、それが許されたのであるから、昇平は不思議でならなかった。『オリエント機械』の誰もが新しい機械のコストについて推定することが苦手だった。だから昇平のエイ、ヤッの見積を許すしかなかったのだ。それから昇平は藤木主任と相談し、『オリエント貿易』と『オリエント機械』の連名の機密保持契約書を作成した。そして、昇平は藤木主任と『FUフィルム』の研究所に秘密保持契約書とドンブリ勘定の見積書を提出した。すると『FUフィルム』の江田深継研究所長と長井研究員は『ドナルド社』に行ったこともないのに、『イーストマン社』や『ドナルド社』の技術的情報を沢山、持っている『オリエント貿易』及び『オリエント機械』の藤木主任と吉岡昇平を信頼して、テスト機を発注してくれた。その日本で初めての共押出装置を受注し、昇平たちは喜んだが、『オリエント機械』の設計部は、どうすれば良いのか大変だった。『FUフィルム』の研究所から提供してもらった参考図と、『МS製作所』の上野課長に作図してもらった全体図を参考に、本間課長が中心になり、後輩の機械設計係の滝口係長、宮里敦司と電気設計係の小林係長たちを使い、機械の分解図面や電気図面を描かせた。昇平はそんな『FUフィルム』研究所向けテスト機の他、『岩水化成』からも注文をいただいたので、休む暇がなかった。昇平は早速、『岩水化成』の山崎社長に伊藤部長から電話していただき、岩淵課長に来社してもらい、機械の詳細打合せの後、伊藤部長と高野課長と一緒に、綱島の割烹『和田兼』で、岩淵課長を接待した。『和田兼』での食事の後、伊藤部長に先に帰ってもらい、昇平は岩淵課長と親しい高野課長と綱島の行きつけのバー『カトレア』に岩淵課長を案内した。『カトレア』のママ、金田律子は高野課長から大事な客を接待するのだと予約を受けていたので、来店した昇平たち3人を奥のテーブル席に案内し、小松真由や及川綾乃、瀬戸胡桃をその席に同席させた。高野課長は及川綾乃に大切な客だからと言って、岩淵課長に優しく対応するよう指示した。一同の座る位置が落ち着くと律子ママが頷き、乾杯の合図をした。
「じゃあ、岩淵さんを囲んで、乾杯しましょう」
「乾杯!」
ビールでの乾杯が終わると、高野課長が岩淵課長との出会いと仕事上での結びつきと遊びについて、面白おかしく、皆に語った。岩淵課長は相槌を打ち、舘山寺温泉での失敗談になると、その時のことを思い出したらしく、手を叩いて笑った。そんなであるから、あっという間にビールを飲み干し、飲み物はウイスキーに変った。高野課長と岩淵課長が真由や綾乃と盛り上がっている間、昇平は胡桃に誘いをかけられた。
「ヨッちゃん。1人暮らしなんでしょう。今度、休みの時、何処か温泉に行ってみない?」
「温泉?ここだって温泉だよ。地元の温泉を利用した方が良いよ」
「分かってないのね。知ってる人のいない所が良いのよ」
「うん。でも忙しいので、そんな暇は無いよ。休みの日は1人でいるのが一番なんだ」
「なんで?」
「1人でいる自分が好きなんだ」
「まあ、つまらない人。そんなだと好きな人、出来ないわよ」
「その通りさ。好きな人は皆、去って行く」
昇平は会社やその周辺にいる女性とは、深い付き合いをしないことに決めていた。いざこざが起きた時、上手く行かなくなるからだった。高野課長は岩淵課長と戦友のようにじゃれあって飲んで、仲間に入らないでいる昇平に言った。
「ヨッちゃん。家が遠いんだから先に帰って良いよ。岩淵さんには俺が明日の明け方まで付き合うから・・」
「本当に良ろしいのですか」
「ああ、良いよ。費用は後で、営業に請求するからな」
「はい。では、そうさせていただきます。岩淵課長。私は先に失礼させていただきますので、後は高野さんとごゆっくりして行って下さい」
昇平は、そう言って岩淵課長に深く頭を下げ、席を立ち、別の席にいる律子ママに後の事を頼む合図をした。すると律子ママは別の席から立ち上がり、昇平の所に来て、耳元で囁いた。
「後のことは任せて。胡桃を連れて行っても良いのよ」
「いえ。僕は1人で帰ります。後の事、よろしくお願いします」
律子ママと胡桃に見送られて、『カトレア』を出ると、もう終電近くだった。昇平は急いで綱島駅の改札口に走り込み、ホームに駆け上がり、最終電車に乗って、『春風荘』に帰った。その翌日、昇平は廃刊になった同人誌時代の仲間、羽島流一に電話した。脚本の校正のアルバイトを頼みたいと電話で伝えると、羽島は、その余裕が無いので、青木泰彦に相談してくれと、昇平の依頼を断った。そこで昇平が青木泰彦に電話すると、青木は直ぐに了承し、即刻、新宿で会うことになった。待ち合わせ場所の『紀伊国屋書店』前に行き、青木泰彦が現れるのを待っていると、ジーパン姿の青木泰彦と石田光彦がやって来た。
「おう、久しぶり」
「お久しぶりです。忙しいのに申し訳ありません」
「なあに、俺たちは年中暇だから、思いついた時、何時でも誘ってくれて構わないよ」
「ありがとうございます。では喫茶店に行って話しましょう。何処にしましょうか?」
「うん。歌舞伎町の喫茶店に行こう」
昇平は、石田光彦が勧める歌舞伎町の喫茶店『珈琲西部』へ行った。そこでコーヒーを飲みながら昇平は、『テアトル・エコー』の木下徹先生から頼まれている脚本の校正のアルバイトの話をした。
「僕は今、以前にも話したと思いますが、横浜の機械メーカーの営業部で働いています。この4月に営業マンが1人、別の会社に移動したので、自分の担当地域が広くなり、脚本の校正のアルバイトが出来なくなってしまいました。そこで僕は羽島君がまだ学生なので、彼に脚本の校正のアルバイトを依頼することにしました」
「へえっ、そんなアルバイトがあるんだ」
「はい。脚本家、木下徹先生の脚本原稿の校正の仕事です」
「ええっ、それって本当かよ。木下徹先生って、あのテレビ番組のキノトールのことじゃあないの」
「そうなんです。ところが電話で話したように、羽島君には、今はそんな気になれないからって冷たく断られてしまいました。羽島君は青木さんに相談すれば解決してくれる筈だと・・」
「羽島君が、そんなことを。彼は岬さんが自殺したショックから、まだ立ち直れないでいるんだ」
青木泰彦の言葉に石田光彦が付け加えた。
「あいつ。家から一歩も出ようとしないんだ」
「家から一歩も出ようとしないって、どういうことですか?」
「将来、結婚しようと思っていた岬さんに自殺され、自分の行動に自信が持てなくなったらしい。だが、心理的要因だから、時間が経過すれば立ち直れるだろうよ」
そう語る青木泰彦は、後輩、羽島流一の不幸に同情しながらも、彼が、そんなにも精神的にもろい男だとは思っていないようだった。文学の道を志す者には、どんな逆境にも耐え抜く力強さがあると思っていたから、青木にとっても昇平にとっても、羽島流一の引きこもりは信じられないことだった。昇平が羽島流一の近況を聞いて、茫然としていると、劇作家、木下先生のことを知っている石田光彦が、何故、昇平がそのような有名人と知り合いなのか聞いて来た。昇平は仲介人、夏目綾香がいることを2人に説明した。すると青木が確認した。
「成程。そのダンスの夏目先生っていうのは吉岡君の彼女か?」
「あはは、青木さん。彼女なんかではありませんよ。ダンス教室の先生です。彼女は僕の忙しい状況を木下先生に話して、僕の代役を受け入れてくれる筈です。校正のアルバイト、よろしくお願いします」
「うん。分かった。その夏目先生って、どんなタイプの人?」
「綺麗な人だよ。客観性があって、センスも良く、さっぱりした人だよ」
「そうか。なら早く会いたいな」
青木と石田は、顔を見合わせて、にっこりした。相手が承認してくれれば、何時でも校正の仕事を引き受けてくれると了解してくれた。そこで昇平は喫茶店から出て、公衆電話で『恵比寿ダンス教室』に電話し、綾香先生がいるか確認した。すると綾香先生が直ぐに電話に出た。
「ああ、吉岡さん。どうしたの?」
「はい。脚本の校正を手伝ってくれる友達と新宿で今、会っています。校正の仕事を引き受けてくれると言っています。どうされますか?」
「まあっ、そうなの。私も木下先生に吉岡さんのことを話し、一応、了解してもらったわ。では今から、こちらに連れて来てよ。『銀座』で待っているから」
「はい。では今から、そちらへ参ります」
昇平は、そう答えて公衆電話の受話器を置くと、急いで喫茶店に戻り、3人分のコーヒー代を精算し、青木泰彦と石田光彦を連れて、新宿から山手線の電車に乗り、恵比寿へ行った。喫茶店『銀座』に入ると、何と木下徹先生と夏目綾香先生がテーブル席に座って待っていた。昇平は青木先生の顔を見て緊張し、直立不動の姿勢になって、深く頭を下げた。
「あっ、木下先生。何時もお世話になっております。勝手を言って申し訳ありません」
「なあに気にしなくて良いよ。まあ、突っ立つていないで、座り給え」
「はい。では失礼します」
昇平は、そう答えて、連れて行った青木と石田を席に座らせ、ボーイにコーヒー3個を追加注文した。綾香先生は4人席から立ち上がり、隣りのテーブルの椅子を借用し、5人での打ち合わせ席を設けて、口火を切った。
「では、吉岡さん。2人を紹介して」
そこで昇平は青木泰彦と石田光彦を紹介した。2人が昇平の加入していた同人誌『新生』の仲間であったことを説明し、2人に挨拶の指示をした。青木が先に挨拶した。
「青木泰彦と申します。よろしくお願いします。吉岡君とは廃刊になった同人誌『新生』の仲間で、今は看板書きをしながら小説を書いています」
「ああ、君の小説『蜃気楼』読んだよ。富山湾の風景が見事に描かれていたので、印象に残っているよ」
「ありがとう御座います」
青木泰彦が深く頭を下げ、挨拶を終えたのを見て、昇平は石田に言った。
「じゃあ、石田さん」
「石田光彦と申します。私も『新生』の同人でした。『新生』が廃刊になり、溢れる創作意欲を何処にぶつけようかと悩んでいるところです。普段は古本屋の手伝いをしています。客が少ないので、暇を持て余しています。よろしくお願いします」
「そう。君が石田君か。君の作品『暗闇坂の狂人』も面白かったよ。ちょっと三島かぶれしているけどね」
「三島かぶれですか?」
「うん。愛国的美意識の含有によって魂を浄化させようとしているのが分かる」
「褒められているのでしょうか?」
「ちょっとな」
木下先生は右手の指を円形にして見せて、笑った。それからは文学の話になった。これからの日本文学は何処へ行くのか。戦後文学の潮流を振り返り、文学を目指す自分たちが、これから何を受け継ぎ、何を日本文学の将来像として描いて行くべきなのかを論じ合った。そんな情熱的な男たちを、綾香先生は羨ましそうに眺めた。結果、木下徹先生の脚本校正の手伝いは、石田光彦が中心になって行うことに決まった。喫茶店『銀座』での打合せが終了すると、木下徹先生は、近くの稽古場『テアトル・エコー』へ、夏目綾香先生は『恵比寿ダンス教室』へと戻って行った。昇平たちは喫茶店を出て、恵比寿から新宿に引き返し、『新宿ゴールデン街』のバー『ランラン』に移動した。『ランラン』のママ、花田香織は3人を迎え、大喜びした。江里の友達、玉木則子が休日なので遊びに来ていて、年寄りを相手に楽しんでいたが、昇平たち若者が入って行くと、昇平たちに近づいて来た。だが昇平たちの話について来られず、結局、また元の席に戻った。石田光彦は良いアルバイトを譲ってくれたと、昇平に感謝した。昇平は昇平で、負担になっていた校正の仕事を引き継いでもらうことになり、2人に感謝した。アルバイトの仕事が減り、昇平の負担は軽くなった。『新宿ゴールデン街』での酒は昇平を仕合せな気分にさせてくれた。
〇
アカシアの花が都内にも咲いて、6月になった。昇平は霞が関の超高層ビルが完成し、そこに『三井石油化学』の樹脂事業本部が移転し、機械の引合いがあっので、『オリエント貿易』の郡司耕作係長と自分の上司の岡田課長と一緒に打合せに出かけた。昇平にとって、『霞ケ関ビル』の中に入るのは初めてで、興奮した。何しろ今回の引き合いが大型特殊装置ということで、昇平は岡田課長に記録係として連れて行かれたのだった。エスカレーターで受付まで行き、そこで入館のサインをした。それからエレベーターに乗って樹脂事業本部に行き、応接室で堀田部長と桑原課長に会い、その計画を2人から教えてもらった。昇平は堀田部長たちと岡田課長や郡司係長がやりとりするのを、必死になって記録した。頭の中で客先のいう機械装置の全体図を描き、主仕様を記述した。その打合せは2時間半ほどで終わった。打合せが終わったところで、郡司係長が、もっと背景を知りたいからと、堀田部長に社外での交流をもちかけ、30分後、虎ノ門の麻雀屋で麻雀をする約束をした。昇平たちは堀田部長と桑原課長に見送られ『三井石油化学』の応接室から出て、エレベーターで2階の受付ロビーに降りた。そこの所で岡田課長が昇平に言った。
「吉岡君。俺たち、堀田部長と桑原課長と4人で麻雀をするから、先に帰って良いよ」
「本当ですか?」
「うん。何もしないで麻雀が終わるまで、麻雀屋にいるのも辛かろう。帰って良いよ」
「ヨッちゃん。そうしてもらいな」
「では、お言葉に甘えて、お先に失礼します」
昇平は岡田課長と郡司係長にそう挨拶してロビーの片隅にある喫茶店に移動する2人と別れて、エスカレーターを降り、一日の仕事から解放された。ふと衆議院議員第2会館の『尾形憲三代議士事務所』にいる矢野秘書たちのことが思い出された。そこで昇平は近くの菓子店で手土産を買い、『尾形代議士事務所』に挨拶に行った。一階入口で手続きを済ませ、2階の事務所に顔を出すと、矢野秘書たちが驚いた。
「おおっ。吉岡君。久しぶり」
「お久しぶりです。『霞が関ビル』の客先に訪問した帰りに、皆さん、どうしているかと思いまして。これ、つまらぬ物ですが・・」
「ああ、ありがとう。尾形先生は、今、自民党本部に行っている」
「そうですか。皆さん、お元気なので、安心しました」
「それより、吉岡君、ロサンゼルスでアメリカ大統領候補者、ロバート・ケネディが暗殺されたんだ」
「えっ。ケネディ大統領の弟さんが」
「そうだ。尾形先生は竹下登先生と、その事件の詳細を聞きに本部へ行っている」
「そうですか。政治家の仕事は日本国内の仕事だけではないのですね」
「ああ、大変だよ。我々も外国の事を知らないとな」
それから昇平は船田宗行や古川俊貴を交えて、雑談して、夕刻に、祐天寺に戻った。何時ものように大衆食堂『信濃屋』に入り、夕食を食べた。かって1年前までは、タヌキうどんを食べるのが連日であったが、最近は、給料が上がったので、天丼やカレーライスなどを食べるようになった。そんな昇平を、日頃、見ている『信濃屋』の滝沢夫婦や早坂姉妹は、昇平が会社員らしく成長して行くのを頼もしく見詰めていた。昇平も昇平で、『信濃屋』の盛況ぶりを嬉しく思っていた。また早坂桐子の化粧が姉、藤子より、派手になり、気になって仕方なかった。昇平は、そんな桐子をからかった。
「桐ちゃん。最近、化粧がはっきりしてるけど、彼氏でも出来たの?」
「やだわ。彼氏なんていないわよ。でも劇団に参加したりしているから、ちょつと化粧が濃くなったかもね」
「劇団って、最近、人気になっているみたいだね」
「ええ。テレビなどの影響で、いろんな劇団が出来ているわ。私は、『天井桟敷』という劇団に参加しているけど、いろんな人が入って来て、面白いわよ」
「そういえば、去年、『青森県のせむし男』という丸山明宏主演の『天井桟敷』の旗揚げ公演が、『草月会館』で行われて、その後、『大山デブコの犯罪』という第2回公演が新宿『末広亭』で行われ、週刊誌にも取り上げられ、『天井桟敷』も有名になったよな」
「そうなの。だから私たち、今、第3回目の準備にをしているところなの。丸山明宏主演の『毛皮のマリー』という作品よ」
「へえっ、あの丸山明宏がまた出るんだ。桐ちゃんは、何の役をやるの?」
「裏方よ。横尾忠則先生と高木史子先生の指示に従い、舞台の準備。花屋の仕事みたいなものよ。欠員が出た時の予備役よ」
「でも面白そうだね」
「はい。週刊誌のお陰で観客が増えて、劇団の収益も、上がるようになったみたい」
「そうだろうよ。『天井桟敷』が集客出来ているのは寺山修司の力もあるが、有名な横尾忠則のお陰だ。彼は三島由紀夫と親しく、週刊誌の記者たちが、何時も彼を追いかけるているからな」
「ところが、その横尾先生と東さんが仲が悪くて困っているのよ」
「それは何処でもあることだ」
昇平には他人事であったが、桐子からの話を聞いて、演劇の仕事も面白いのではないかと興味を抱いた。もし『オリエント機械』の仕事で行き詰まることがあったなら、夏目綾香先生に依頼し、木下徹先生の所で使ってもらおうなどと考えたりした。だが『信濃屋』で夕食を済ませ、『春風荘』の部屋に帰って、冷静に考えれば、演劇の仕事は、不安定そのものに思えた。所詮、河原乞食だ。それより、日本の一流会社『FUフィルム』や『霞ヶ関ビル』に入っている『三井石油化学』などとの取引に関係する仕事の方が、安定感があり、自分の将来に希望が持てるのではないだろうか。昇平はあれやこれや迷走した。
〇
迷走しているのは昇平だけでは無かった。月末30日の日曜日、従兄、深沢忠雄から電話があり、何処かで会えないかと言われた。忠雄は何なら『春風荘』まで来ると言ったが、昇平は互いに都合の良い、六本木を選び、午後2時、六本木の喫茶店『アマンド』で会うことにした。約束の時刻、『アマンド』に行くと、既に忠雄がコーヒーを飲んで待っていた。昇平は兄弟のような関係の忠雄の顔を見て言った。
「お待たせ。久しぶり。随分、待たせちゃったかな?」
「いや。家から狸穴坂を歩きで登って来たので、先ほど着いたばかりだよ」
「皆は元気ですか?」
「ああ、元気だ。何にする?」
「アメリカン!」
昇平は近づいて来たウエイトレス嬢に聞こえるように答えた。その後、昇平は『アマンド』の窓際の席から窓の外を見下ろし、六本木通りを車が行き交うのを眺めながら、忠雄が話を切り出すのを待った。忠雄は昇平の前にアメリカンコーヒーが運ばれて来てから、ポツッリと言った。
「俺、転職を考えているんだ」
「転職をですか?」
「うん。大学の先輩が、来ないかと言うんだ。大阪に本社のある商社の東京支社だ」
「何という会社ですか?」
「うん。『CH通商』だ。繊維取引中心の商社だが、現在、海外展開を考えていて、英語の堪能な社員を1人でも多く欲しいって言っているんだ」
「凄いじゃあないですか。僕が英語を喋れたら、行きたいくらいです」
昇平は貿易商社から、声がかかる忠雄を羨ましく思った。自分の貿易商の夢を、先に越されてしまうような複雑な気持ちになった。だが忠雄の顔は暗かった。
「でもな。お父さんもお母さんも、俺の転職に反対なんだ。お前と同じで、俺も田端の萩原俊夫叔父の紹介で『Tインキ』に入社しているだろう。だから辞めることになったら、恩義を裏切ることになると言うんだ。どうしたら良いと思う」
昇平は忠雄が自分に会って打ち明けたかった悩みが、何であるかを知った。昇平も田端の萩原叔父の口利きで『オリエント機械』に入社し、今まで何度か辞めようかと考えた事があった。しかし、思い留まった。とはいえこの世は義理人情だけでは生きて行けない。このことは萩原叔父も充分、理解してくれていた。昇平は萩原叔父に約束させられたことを思い出した。
「昇平君。石の上にも3年という言葉があるだろう。私の紹介で入社したからには、どんなことがあっても、3年間、『オリエント機械』に勤めてくれ。3年間勤めて、そこで目が出ないと思ったら辞めてもらっても構わない。兎に角、3年間は自分の為にも、私の為にも『オリエント機械』で頑張ってみてくれ」
萩原叔父に、そう言われた。3年間は我慢せよと約束させられた。だから『クリエイト機械』からの誘いも、まだ3年間になっていなかったから断った。だが、従兄の忠雄は違う。『Tインキ』に、3年間勤めた筈だ。もし、転職したいと思うなら、転職しても良いのではないか。思いがけない忠雄からの相談であったが、昇平は忠雄の悩みを少しでも軽くしてやろうと、その相談に答えた。
「もう、3年間、勤めたんだから、田端の叔父さんのこと気にせずに辞めても良いんじゃあない。自分の道は自分で決めないと、後で後悔するかもしれないから」
「そうだよな」
「ともかく、田端の叔父さんに、ザックバランに相談した方が良いよ。田端の叔父さんは僕に、3年間勤めたら、『オリエント機械』にいようが、転職しようが、その後の事は昇平君の自由だと言ってくれた。だから、忠雄さんに対しても、同じ気持ちでいると思うよ」
「そうか。なら、相談しずらいけど田端の叔父さんに相談してみるよ」
「それが良いよ。麻布の叔父さんも叔母さんも、親戚関係がこじれないかと余計な事を心配をしすぎだよ」
「うん」
忠雄は小さく頷いた。どちらが年上なのか分からない会話だった。昇平は都会育ちの忠雄の事をボンボンから抜けきれないでいると思った。忠雄は昇平に相談してスッキリしたらしく、笑顔で昇平に言った。
「ケーキ食べようよ。何にする?」
「そうだな。ショートケーキが美味そうだから、ショートケーキにしよう」
「俺はモンブラン」
2人は、ウエイトレス嬢にケーキとコーヒーを追加注文して、それから田舎の政夫兄の話や従妹の高子の話などをした。その後、忠雄が赤羽の野口文代叔母と利江叔母の間で、昇平の荒物屋への婿入り話が続いていると話したので、昇平は呆れ返った。
「僕は売り物じゃあないよ」
「そうだよな」
そんな笑い話をしていると、『アマンド』に入って来た男女のカップルが、突然、昇平たちの席にやって来た。
「おう。深沢。元気そうじゃあないか」
「ああ。花木。お前も元気そうだな。今日は何だ。美人を連れて」
「うん。そこの『俳優座』に来た帰りだ」
「そうか。じゃあ、隣りの席に座ったら」
忠雄がそう言うと、2人は昇平たちの隣りの席に座って、紅茶とケーキを註文した。忠雄と花木章吾は鶴ケ丘高校時代の親友だった。共にハンサムで女性の人気者だった。高校卒業後、花木は『N大』に進み、途中から芸能界に足を踏み入れ、忠雄は『М大』に進み、卒業後、『Tインキ』の貿易部で働いていた。忠雄は花木たちに昇平を紹介した。
「祐天寺に住んでいる俺の従弟だ」
「吉岡昇平です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。小説家志望の従弟って君の事か」
「はい。ペンネームは吉岡昇太郎です」
昇平は、ペンネームの名刺を花木たちに渡した。すると花木が忠雄と昇平に紅茶を飲んでいる美人の彼女を紹介した。
「こちらは赤座美代子さん。目下、売出し中で、僕なんかより、起用されていて、将来、大女優になる人だ。応援してくれ」
「赤座美代子と申します。よろしくお願いします」
「深沢忠雄です。こちらこそ、よろしく」
互いの素性を知ったところで、雑談になった。昇平は最近、劇団が増えていることについて語った。すると花木章吾も赤座美代子も、昇平が劇団に詳しいので驚いた。そんな話をしているうちに六本木の辺りの空がぼんやりと薄暗くなり、赤やオレンジや緑色のネオンが灯り始めた。花木章吾が腕時計を見て、忠雄に言った。
「僕たち、これから新宿に行かなければならないので、お先に失礼するよ」
「おう、そうか。じゃあ、またな。頑張れよ」
「ああ、深沢もな」
花木章吾は、そう言って、赤座美代子と『アマンド』を出て行った。2人を見送って忠雄が言った。
「良い女だな」
女に内気な忠雄が、そう口に出したので、びっくりした。昇平から見て、忠雄は花木に負けない色男だった。川内民雄に似て、ツンとしたところがあるが、美男子だった。それが反って、女性を近寄りがたくしているのかも知れなかった。そんな会話をした後、2人は『アマンド』を出て、近くの居酒屋『松清』に入って、酒を飲んだ。忠雄は喜一郎叔父に似て、酒が強かった。だが、彼の転職の悩みは深く、何度も何度も今の会社を辞めても問題ないかと昇平に訊いた。無責任かもしれないが、昇平は言ってやった。
「思ったら吉日。兎に角、田端の叔父さんに正直に話し、辞めれば良いんじゃあない」
「許してもらえるかな?」
「許すも許さないも無いよ。忠雄さんの人生なんだから」
「それに、お父さんとお母さんにも分かってもらわないと・・」
「何、言ってるの。問答無用だよ」
「問答無用?」
「うん。僕が麻布の家を出た時と同じ。突然、家出して、事後報告したのと同じ。相談したら引き止められるよ」
「そうだよな」
「そう。勇気、勇気だよ」
昇平は忠雄の転職を支持した。『松清』の女将は、ぐでんぐでんになっている忠雄を見て、笑いながら言った。
「お客さん。大丈夫ですか。そろそろ終わりにされたらどうですか?」
「大丈夫だよ。平気だよ」
「忠雄さん。もう充分、飲んだし、話もしたから、そろそろ帰ろうよ。麻布の叔母さんたちが心配してるから」
昇平が、そう言うと、忠雄はようやくその気になった。昇平は忠雄に『アマンド』でご馳走になったので、店の伝票を手に上着のポケットを撫でながら、割り勘にするか、全額支払うか考えた。その昇平の姿を見て、忠雄が大声を出した。
「昇平。待て待て。今日、声をかけたのは俺だし、相談に乗ってもらったんだから、俺が支払うよ」
「じゃあ、割り勘で」
「駄目ダメ。俺に払わせろ」
「では甘えて」
昇平は『松清』の飲食代も忠雄に支払ってもらった。それから『松清』の女将に送り出されて、昇平は六本木通りで、タクシーを拾い、麻布の家まで忠雄を送り、そのままタクシーで『春風荘』に帰った。
〇
7月の初め、『オリエント機械』の社員たちに賞与が支給された。伊藤部長が配る賞与袋の各人への厚さは、下っ端の昇平や女性たちより、地位が高くなる人ほど、厚みを増していた。昇平は、自分たちが入社してから、会社の業績が徐々に増しているのを感じた。この賞与の支給日に残業する者は、宿直を除いていなかった。妻帯者や女性たちは特に早く家に帰った。昇平は独身の小川係長や原田隆夫に飲みに行かないかと誘われたが、親戚の家に行かなければならないと言って、その誘いを断った。昇平は綱島駅で、横浜方面へ帰る社員たちと別れ、渋谷行き東横線の電車に乗り、途中、宮里、田中たちと別れ、中目黒から日比谷線の電車に乗り換えて麻布に向かった。六本木で下車し、『アマンド』でケーキを買ってから、狸穴坂を下り、『桜内邸』の前を通り、深沢家に行った。深沢家の一同は、昇平の元気な顔を見て喜んだ。昇平は『アマンド』で買った手土産を利江叔母に渡し、賞与が出たことを報告し、『М銀行』に勤める高子に、2万円を貯金してもらう依頼をした。また利江叔母に田端の萩原叔父に御中元を送ってもらう手配を依頼した。振り返れば昇平にとって、深沢家は第二の家族だった。久しぶりに夕食をいただき、喜一郎叔父と酒を飲み、『A電気』の状況などを訊いた。昇平の知る有線部の人たちは、厚木事業所に移動したという。広沢良夫はどうしているのだろうか。そのうち長井秀雄に確かめることにした。昇平は深沢家で2時間ほど過ごしてから、『春風荘』に帰ることにした。深沢家の叔父、叔母に挨拶し、玄関を出ようとすると、従兄の忠雄が、昇平に言った。
「途中まで送って行くよ」
「1人で帰れるから大丈夫だよ」
「うん。でも都電が無くなって不便になって、1人歩きは寂しいだろうから」
昇平は転職の事を忠雄が、どうなったか話したがっていると察知した。
「じゃあ、途中まで」
昇平と忠雄は深沢家を出ると、森元町を通り抜け、右に燃えるように突っ立つている赤い『東京タワー』を眺め、神谷町へと向かった。その道すがら、忠雄は、田端の萩原叔父に自分の気持ちを打ち明け、8月いっぱいで『Tインキ』を辞め、9月から『CH通商』に勤務することになったと語った。忠雄の描いて来た海外への夢は今や花開こうとしていた。それに比べ、自分の夢はどうなっているのか。昇平は忠雄と『東京タワー』の立つ、丘の上で別れた。坂を下り、神谷町の地下鉄の駅に着くと、同時に中目黒行きの電車が入って来た。昇平は、賞与をもらって浮かれている場合ではないと思った。いろんなことを考えると、『春風荘』に帰っても、眠れなかった。寝不足の日曜日になり、午前中、家計簿をつけていると、電話がかかって来た。受話器を取った管理人の百合ママが昇平に言った。
「女の人からよ」
百合ママは、昇平にかかってくる電話が女性からの電話が多いので、呆れ返っている風だった。電話の相手は大橋花江だった。しばらく連絡が途絶えていたが、懐かしくなったのだろうか。
「どうした?」
「休みの日なのに、午前中から電話して、ごめんなさい」
「久しぶりだね」
「今日、会いたいのだけれど、都合はどうかしら?」
「うーん。3時過ぎなら良いよ。午前中、やることが種々あってね」
「では午後3時に『ハチ公』前で・・」
「うん。分かった。では午後3時に・・」
昇平は、そう約束して受話器を置いた。そういえば、今年になってから、『オリエント機械』の仕事が忙しくて、大橋花江や小野京子に会っていなかった。秋のダンスシーズンになってから、連絡を取り合えば良いくらいに、彼女たちのことを考えていた。昇平は家計簿付けが終わると、部屋掃除を簡単に終わらせ、洗濯物を軒下に干して、『春風荘』を出た。『ナイアガラ』でピラフを食べ、世間話をして、それからゆっくり、東横線の電車に乗って、渋谷に行った。待ち合わせ時刻までに時間があった。そこで交差点の向こうにある『大盛堂書店』に行き、文芸誌『文学界』をを立ち読みした。その『文学界』に同人募集の広告が載っていたので、昇平は、それを買って、『ハチ公』前に戻った。丁度、そこへ大橋花江が、淡いピンク色のブラウスに白っぽいカーディガンを心地良さそうに羽織り、白黒の水玉模様のスカートを風に揺らしながら現れた。大柄で恰好良かった。
「何処へ行きましょうか」
「そうだな。まず喫茶店に入って、お茶を飲みながら、互いの近況でも話そう」
「はい。そうしましょう」
昇平は花江が了解したので、彼女を道玄坂の喫茶店『シャルマン』に連れて行った。店に入り、ボーイにコーヒーを註文し、それから自分の多忙な営業活動の近況を話した。花江は『若菜病院』での状況を話した。
「吉岡さんの知っている『若菜病院』の女性たち、もう数人しかいないわ。貴男が好きだった川北節ちゃんは瀬川先生と結婚して主婦になってしまったし、元子さんは船木さんに逃げられ、別の病院に移ったし、洋子ちゃんも田舎に帰っちゃったから、知っているのは私と優子ちゃんくらいよ」
「そうなんだ。考えてみれば大学生時代に知り合ってから、5年以上も月日が経過しているからな」
「そんなだから、私、九州に帰ることにしたの」
「えっ」
「貴男が結婚しようって言ってくれないから。八女の病院の先生のお嫁さんになるの・・」
「嘘っ。冗談だろう」
「嘘ではないわ。本気よ。貴男がはっきりしないから・・」
「はっきりしないって、そんなこと言われても」
「私も随分、考えたわ。貴男が、有名作家になるまで独身を続けると言う固い意志だから」
「うん。その通り、僕は独身主義者だ」
「私、決心がついたの。船木さんが北海道に行く前に、吉岡には彼女がいるよと、私に言ったから・・」
船木も余分なことを言ってくれたものだ。昇平は、そう言う花江の自分への気持ちに気づいていなかったわけではないが、彼女は年上だし、身長も自分より高いし、実家も九州で遠いし、ちょっと淫乱の気があるし、自分の給料で2人が生活するのは苦しいし、結婚相手として花江が対象外だったことは確かだ。昇平は言い訳をした。
「僕には結婚しようと考えている彼女などいないよ。ご存じの通り、僕は貧しい田舎の次男坊で、道端に放り出された石ころみたいな存在だ。年齢的にも経済的にも、まだ結婚出来る身分では無いよ。君の考えは賢明だ。九州に帰って病院の先生と結婚し、共に頑張れば、仕合せな家庭を築くことが出来る。良かったじゃあないか」
「そう思ってくれる?」
「ああ、心から良かったと思っている。病院の先生の嫁さんになるなら、経済的不安などないから」
花江は昇平の言葉を聞いて、頷いた。彼女は終わった恋を嘆き悲しんでいる風では無かった。自分が婚約することを昇平に打ち明けることが出来たからであろう明るい笑顔になった。昇平はその花江の為にショートケーキを追加注文した。その後。『シャルマン』を出てホテル街に移動し、『ムーンリバー』に入った。部屋に入るなり花江が昇平に跳びつき、吸い付いて来た。昇平は花江の熱いキッスに応えた後、唇を離し、花江のうるんだ瞳を見詰めて言った。
「服を着たままじゃあ、まずいよ」
「なら、早く脱がせて。私、待ちきれないの」
花江は、そう答えて、昇平の衣服を脱がせにかかった。昇平も、それに合わせ、花江の洋服を上から下まで脱がせた。そして素っ裸になった同士、抱き合ったままベットの上に転がり込んだ。こうして花江と一緒にもつれ合っている自分が不思議でならない。『若菜病院』に勤ていた川北節子に振られ、ためらいがちに接近して来た花江にダンスを教えてもらったりして、深い関係になり、欲望を発散させたい時に、互いを利用して来たが、いざ別れるとなると、とてもたまらない複雑な気持ちになった。それ故にか昇平も花江も大胆になった。花江は花開き、昇平の燃える物を受け入れ、我れを忘れ、昂ぶり、喜悦の声を上げた。
「ああっ、もっと、もっと」
その要求は何時も以上に激しかった。昇平は絶頂をコントロールしながら、花江の坩堝を攻めて攻めて、攻め抜いた。
「ああ、吉岡さん。私、行くわ。吉岡さんも私と一緒に行って!」
昇平は悶絶する花江とタイミングを合わせ、腰を激しく前後させ、全精力を花江の中に注ぎ込んだ。花江は狂ったような悲鳴を上げ、昇平の尻を強く引き寄せた。彼女は何もかも吸い取る享楽の女だった。女という生き物は、皆、始原的目的を忘れ、享楽を求めるものなのだろうか。悶え、疼き、叫び、肉体を貪欲に開放し、男の愛液を求めるものなのだろうか。昇平は何故か、花江を傍に置いておきたい気持ちになった。もう1度と要求された時、昇平は頭がボーッとなりそうになったが、最後だと思って尽くしに尽くした。その後、『ムーンリバー』を出て、レストラン『サラマンジュ』に行き、昇平は花江に夕食をご馳走してもらった。食事をしながら、彼女はあっけらかんとして言った。
「九州に出張で来ることがあったら、必ず私に電話してよ」
「はい」
昇平は唖然としながらも、了解の返事をした。こうして昇平と花江はさよならする事になった。決して悲しい別れでは無かった。何処かが中山理枝との別れに似ていた。七夕の日の別れになろうとは・・。昇平は『春風荘』に戻ってから、文芸雑誌『文学界』で同人募集をしていた同人誌『山路』への会員申し込みの手紙を書いた。花江との別れに反発する新しい出会いを求めての手紙だった。
〇
月曜日、昇平は『オリエント機械』の昼食時間、食事を済ますや綱島の『三和銀行』に行き、賞与の一部を銀行預金に入金した。会社に近い銀行に小銭を入金しておくと、緊急時に直ぐ引き出せて便利だからである。昇平の貯蓄は従妹の高子が、バッチリ、丸の内の勤め先『М銀行』に積立てていて、昇平には直ぐに利用出来る資金ではなかった。『オリエント機械』の多くの社員たちも、綱島駅前の『三和銀行』を頻繁に利用していた。その入金を済ませた帰り、昇平は、同じ営業部で机を並べる向井静子と一緒になった。2人になるのは珍しいことだった。何時も、伊藤部長、岡田課長、宗方主任、宮本知子、渡辺桂子、添田汐里たちが周囲にいて、2人になることは無かった。昇平より年下ではあるが昇平より入社が先の静子は、会社に戻る道すがら、昇平に言った。
「たまには何処かで、2人だけでお話しない?」
「何か相談したいことでもあるの?」
「だって、吉岡さん、営業の仕事で飛び回っていて、社内の事、全く分かっていないみたいなんだから、教えて上げないと・・」
「成程。じゃあ、何時にする?」
「岡田課長が出張でいない時が良いわ。私から声をかけるから」
静子は、そう言って笑った。普段、岡田課長が残業していると、用事があるというのに岡田課長より先に昇平が帰れないでいることを静子は知っていた。静子はそんな昇平に興味を抱いているようだった。昇平は会社帰りに静子たちと喫茶店に入ってコーヒーを飲んだりする機会が無かったから、彼女の突然の誘いが嬉しかった。静子から声をかけられた昇平は、喜び、はしゃぎ『オリエント機械』の営業部に戻った。午後からは『SH高分子』から引合をいただいている延伸装置の構造を、設計の越水正勝に教えてもらい、そのコスト計算をした。機械の重量、駆動モーターの容量と台数、組立工数などから算出する昇平のコスト計算方法はドンブリ勘定ではあるが、今まで大きく食い違うことは無かった。何故かといえば、昇平は資材部に出入りしている外注業者に声をかけ、モーターや減速機、ベアリング、ロール類などの原価を聞き出すという越権行為を行い、コスト計算をしているからだった。そのコスト計算は夕方までに終わった。そこで、さあ残業して見積書を作成しようとしている時だった。製造部の原田隆夫が昇平に手招きをして、飲みに行こうと誘いをかけて来た。珍しく岡田課長も帰る仕度をしていたので、昇平はOKの合図をした。集合場所は何時もの居酒屋『綱菊』とのことだった。昇平は岡田課長が帰ってから、待っていてくれた製造部の日向卓也と会社を出て、『綱菊』に行った。『綱菊』の暖簾をくぐって中に入ると、高野課長、三船課長、小川係長、原田隆夫、林原武士が待っていた。何故か昇平は彼らに好かれていた。営業の傍ら、彼らと一緒になって、現場作業をするからかも知れなかった。兎に角、昇平は機械や電気について無知だった。子供の頃、木製の橇や三輪車、飛行機、船などを作り、物作りは好きだったが、金属部品や電気部品のことについては知らなかった。だから営業の仕事が暇な時、現場に出て製造部の人たちと一緒に機械の組立作業に取組み、自分の知識を高めた。そのことが気に入られているみたいだった。『綱菊』の料理は美味しかった。常連客からタミちゃんと呼ばれている女将は、主人と従業員をうまく使い、『綱菊』を繁盛させていた。高野課長以下、『オリエント機械』の連中は、ボーナス後の月曜日とあって、解放感に溢れていた。社内の仕事の話から始まって、政治の話にまで発展した。昨日の参議院選挙で、石原慎太郎、青島幸雄、横山ノックなどタレント議員が当選したことについて、賛否両論が飛び交った。それから女性の話になり、それぞれに好きな女優の名を挙げた。高野課長は佐久間良子、三船課長は若尾文子、小川係長は大空真弓、原田隆夫は浅岡ルリ子、林原武士は松原智恵子 日向浩史は吉永小百合が好みだと言った。昇平は皆が先に名前を挙げてしまったので誰にしようか悩んだ挙句、この前、六本木で会った赤座美代子の名を挙げた。すると皆、首を傾げた。皆、赤座美代子のことを知らなかった。そこで昇平は、本当は松原智恵子が好みだが、林原武士が先に松原智恵子の名を挙げたので、仕方なく、これから活躍するであろう女優の名を挙げたと言い訳をした。女優の話で、盛り上がったところで、高野課長が、これからバー『カトレア』に行こうと言い出した。昇平は人数が多いので、『カトレア』に行くのを遠慮して、家に帰ることにした。林原武士も昇平が帰ると言ったので、昇平に従った。林原は『オリエント機械』に出向して来て、3ヶ月ちょっとなので、まだ『オリエント機械』の社員との付き合いが浅く、『オリエント貿易』勤務時代に麻雀をしたりして親しかった昇平を頼りにしているところがあった。彼は自由ケ丘近くの尾山台に住んでいて、『綱菊』を出てからの帰りは一緒だった。昇平は『綱菊』を出て、『カトレア』に行く高野課長たちと別れて、綱島駅から東横線の渋谷行き電車に林原と乗った。その電車の中で、林原が昇平を誘った。
「自由ヶ丘に行ってみたいキャバレーがあるんだ。1人で行けないから、これから付き合ってくれないか」
「ええっ。自由ケ丘のキャバレー」
「面白そうだから」
「飲み代、高いんじゃあないの?」
「兄貴の話では、そうでもないらしい。チップ代は俺が払うから、付き合ってくれよ」
林原は兄から、そのキャバレーのことを聞いていたらしく、1度、行って確かめたいと言う事だった。林原に懇願されると、昇平は断る訳にも行かず、自由ヶ丘駅で途中下車した。引地俊子の店の前を通り、右折して、少し進むと、林原の念願のキャバレー『キングオブキングス』の看板が、夜光虫のような光を放って輝いていた。林原と昇平は勇気をもって、2階にあるキャバレー『キングオブキングス』に行った。ドアボーイに案内され中に入ると、まるで『コマダンスホール』のように天井でミラーボールが輝き、前方に踊り場があり、舞台ではバンド演奏が行われていた。『オリエント貿易』勤務時代に銀座のキャバレーに行った経験のある林原は、席に座ると、現れたホステスを相手に飲み物を注文し、ホステスたちとの会話に興じた。席についたドレス姿と和服姿のホステス2人が浅井弓子と堀口園子という名刺を差し出した。だが昇平たちはその名刺を受け取り、自分たちの名刺を出さず、苗字だけ名乗った。店内はオリンピック後の証券不良を乗り越え、経済的に活気を取り戻して、裕福になった人たちで活況を呈していた。そんな賑やかなキャバレーの中で、林原が積極的にホステスたちと会話した。林原が和服姿の園子に質問した。
「ソノちゃんのイントネーション、東京の人とちょっと違うみたいだけど、出身は何処?」
「私は名古屋よ」
「おお、名古屋ね。金のシャチホコか」
「変なシンボルよね。そう言われると恥ずかしいわ」
「それって考え過ぎだよ」
「考え過ぎってどういうこと?」
浅井弓子が林原に訊いた。すると林原は答えに窮した。
「そんなのソノちゃんに訊けよ」
「ソノちゃん。どういうこと。教えて」
弓子に訊かれると、その子は、弓子を睨みつけて言った。
「ユミちゃん。本当に知らないの。ぶりっ子してるんじゃあないの?」
「ぶりっ子なんかしてないわよ」
「金のシャチホコはね。常に空を向って突っ立っていて、背中にモジャミジャがあって、その下に大きな目玉が2つあるのよ。私の説明で分かったでしょう」
「まあっ、ソノちゃんたら、いやらしい」
そう言う弓子の方が好色の顔をちらつかせ、林原の手を握った。林原は、そんな弓子に寄りかかられ、上機嫌になり、浅井弓子に訊いた。
「ソノちゃんが名古屋出身だと分かったけど、ユミちゃんの出身は何処?」
「私は江戸っ子。江戸川の生まれよ」
「それなのに何故、自由ケ丘?」
「地元で水商売は出来ないわ。直ぐ悪い噂を立てられるから・・}
「成程。それでっ自由ケ丘に」
「そう。『東横学園』に通っていた幼馴染みの女の子が、自由ケ丘は垢抜けた素敵な街だと教えてくれたから、近くに越して来ちゃったの」
「近くって、何処?」
「九品仏よ」
「なんだ。俺が家に帰る途中だ」
「まあ、そうなの。なら遅くまで店にいられるわね」
「でも、ヨッちゃんが遠いから」
「遠いって何処よ」
弓子が昇平に訊いた。昇平は答えたくなかったが、答えざるを得なかった。
「祐天寺」
「なら、近いじゃあない。私、鷹番よ」
堀口園子が、昇平を見詰めて言った。
「近いというのは、電車のあるうちだよ。そろそろ帰らないと」
「折角、来たのだから、そう言わず最後までいてよ」
「これから金粉ショーが始まるのだから。見にやけりゃ損よ」
家が近い林原は2人のホステスにせがまれ、まだ店にいたいらしく、昇平に同意を求めた。
「ヨッちゃん。そうしようよ」
「でも。明日、仕事があるし」
「大丈夫。私が帰る方向が一緒だからタクシーで送って行ってあげるから。延長しなさいよ」
「なら・・」
昇平は3人に口説かれ、最後の金粉ショーまで見て行くことにした。従って、それからもウイスキーを飲みながら、話が弾んだ。ちょっと渋い顔をしている昇平の顔を、まじまじと見詰め、弓子が言った。
「眉間にシワを寄せた吉岡さんの顔って、時代劇の主人公に似ているわね」
「机竜之助かな」
「矢車剣之助よ」
「それは漫画の主人公じゃあないか」
市川雷蔵に似ていると言われると思っていたのに予想外だった。
「じゃあ、俺は誰に似ている?」
林原が女性2人に訊いた。すると園子が答えた。
「わんぱくター坊」
そう言われれば林原の顔は丸顔で、額が広く、『わんぱくター坊』に良く似ていた。そこで傍に立っていたボーイも、ホステスたちと一緒になって笑った。やがて12時になり、前方の舞台で金粉ショーが始まった。金粉を全身に塗った男女が、妖しい曲の調べに合わせ、手をつないだり、抱き合ったり、離れたりして踊った。その男女の絡み合いの舞踏は観客を興奮させ、ホステスたちといる男たちに妖しい期待感を抱かせた。こうして、『キングオブキングス』での時間は終了した。それから昇平は、林原と2人で、『キングオブキングス』の清算を済ませ、彼女たちが指定するガード向こうの寿司屋『鮨銀』の前で、2人が来るのを待った。彼女たちは予想より早く現れ、昇平たちを案内し、『鮨銀』の暖簾を潜った。彼女たちが予約しておいたのか、店に入ると店の主人が、4人の席を顎で合図した。手入れの行き届いた清潔で綺麗な寿司屋だった。店の客は不動産会社の社長、商店街の主人、中年男とホステス、隠居老人などいろいろだった。彼女たちが、まずビールを飲むというので、昇平と林原は、それに合わせた。店の主人と従業員は、今日も良い魚を釣って来ましたねというように、姉御肌の園子に訊いた。
「何にしましょうか?」
「では、ズケからお願いします」
彼女たちは空腹なのかトロやハマチ、イカ、エビ、ホタテ、タコ、アナゴ、ウニ、イクラなど、食べたいだけ食べた。昇平も林原も幾ら支払うことになるのか気が気でならなかった。自分たちは満腹だからと、トロとイカをいただき、お茶で酔いを醒ました。美味しい寿司を食べ終わっると、林原が、おっかなびっくり勘定を確認して、昇平に言った。
「ヨッちゃん。千円で良いよ。後は俺が払うから」
昇平は、ホッとした。彼女たちはご馳走様と言って、先に店の外に出て、男たちを待った。昇平たちが精算を済ませて店から出ると、浅井弓子が林原の腕にしがみついて微笑んだ。
「では行きましょうか」
「じゃあ、また明日」
林原は、昇平に手を振って、商店街を去って行った。昇平は堀口園子と駅前ロータリィでタクシーを拾い、鷹番の園子のアパートに向かった。車が走り出してから、少しして、園子が言った。
「遅くまで付き合わせてしまって、ごめんなさい」
「いいえ。林原さんとの付き合いですから・・」
タクシーは自由ケ丘から都立大駅前を通り、中目黒方面へと走り、園子の指定する駒沢通りの鷹番で停車した。昇平はそこで園子と一緒に下車し、タクシー代を園子に支払ってもらった。
「済みません。タクシー代、払ってもらって・・」
「いいのよ。私、何時もタクシーに乗って帰っているから。必要経費よ。それより、本当に歩いて帰るつもりなの」
「はい。そんなに遠くないですから」
「でも、こんなに遅い時刻、酔っぱらって祐天寺まで歩くの危険だから、私の所に泊まって、ここから会社に出勤しなさいよ」
「でも・・・」
「私は構わないわよ。1人暮らしなんだから」
「そうなんですか。本当に良いのですか」
「良いわよ。いらっしゃい」
園子は、そう言って昇平の手を引っ張り、自分が借りているアパート『鷹番ローズ』の2階の部屋に昇平を案内した。園子の借りているアパートの2階の部屋は6畳間で、その他に3畳の台所とトイレがついていた。昇平は狭い玄関から、恐る恐る部屋に入り感心した。
「立派な部屋ですね。僕の部屋の倍の広さだよ」
「そう。お風呂がついていると良いのだけれどね」
「そうですね」
「でも近くに『千代の湯』があるので、夕方、そこへ行ってから、お化粧をして、着物を着て、電車に乗って、お店に出かけるので、便利よ」
「そうですか」
「布団を敷いてあるけど、敷きっぱなしじゃあないのよ。昼間、ベランダに干して、夕方、部屋に敷いて出かけるの。酔っぱらって、帰って来てから敷くの面倒臭いから・・・」
園子は和服を脱ぎながら,訊きもしないことを喋った。それから昇平に命令するように言った。
「突っ立っていないで、早く上着とズボンを脱いで、布団に入って寝なさいよ。明日の仕事に差し支えるといけないから・・」
「はい。では、そうさせていただきます」
昇平は、そう返事すると、通勤バックを枕元に置き、Tシャツとステテコ姿になって、園子が敷いておいた布団に入り、横になった。1日の疲労が眠気を誘った。ウトウトし出した時だった。和服を脱いで真っ裸になった園子が、灯りをうす暗くして布団に入って来て、1人ごとを言った。
「四葉のヨッちゃん。眠っちゃったかしら・・」
昇平は園子が、そう囁き昇平の股間の物を柔らかな手で弄び始めたので、びっくりした。気づかぬ振りをして堪えに堪えたが、堪えきれなかった。薄く目を開け、園子の淫蕩な顔を眺めた。その顔は獲物を捕らえた美しい魅力ある女の妖しい顔だった。昇平は抑えきれなくなって、自分に向かって悪戯をする園子の胸に、そっと右手を伸ばし、彼女の乳房に触れた。立派な乳房だった。そこで言ってやった。
「まだ眠ってないよ。揉みごたえのあるスベスベしたオッパイをしているね」
「まあっ、起きていたの」
「当たり前だよ。魅力いっぱいのソノちゃんと一緒の布団で、眠れる訳なんて無いよ」
「おほほ。ヨッちゃんも男なのね」
「そうさ。金のシャチホコをいじられ、僕の身体は困惑し、興奮しっ放しだ」
「では、これから、私たちの金粉ショーを始めましょうか」
昇平を見詰める園子の口の辺りに艶美な微笑みが浮かんだ。酒気の残るほんのり染まった園子の誘いは妖しい色香に溢れ、昇平を夢中にさせた。酔いも手伝ってか園子は途中から、疲れている昇平の上に馬乗りになり、露骨なことを口にし、昇平の愛を求めた。昇平は自分の身体の上で上下する園子の身体を受け止めながら、園子の悶えぶりを観察した。園子は足の爪先から頭のてっぺんまで、発情させ、無茶苦茶に燃え盛り、求めた。
「ああ、ヨッちゃん。お願い。もっと強く下から突き上げて。もどかしいわ。そうよ、そう。いいわ、いいわ、いいわよ。火の玉を火の玉を撃ち込んで!」
「うん。分かっているよ。でも、まだまだ楽しまないとね」
「ヨッちゃんの意地悪。私ばかり、何度も行かせるつもり。駄目よ駄目よ。私、いっちゃう」
園子は狂気めいた激しい喜悦の声を上げて、昇平の上で腰を揺すって果てた。昇平は下から砲撃を加えたまま、園子が身体の上から降りるのを待った。こんな事になるなら、『春風荘』に歩いて帰るべきであったと後悔したが、もう遅かった。
〇
7月19日の金曜日、『モエテル』の集まりがあった。『ロリアン化粧品』の北海道支社勤務の船木省三が、東京本社の会議に出席する為、上京したタイミングに合わせての集まりだった。『アスカ工業』静岡工場勤務の久保厚志も、それに合わせ夕方、上京して来た。この会合で、重要な打合せがあると下村正明から連絡を受け、昇平も夕方、銀座の喫茶店『パリシェ』に行った。皆、元気だった。その会合で手塚秀和が皆に説明した。
「5月の連休、俺たちの別荘地を何処にするか、俺と岩野と細木の3名で、長野に行って、あちこち探して来た。結果、戸隠の近くの飯綱に手ごろな物件を見つけたので、そこを購入することに決めた。全員の了解を得ずに、契約したが了解して欲しい」
すると安岡則彦が質問した。
「契約したって、『モエテル』の名前で契約は出来ないだろう。そこのところ、一体、どうなっているんだ?」
安岡の質問に岩野義孝が答えた。
「俺のオヤジに言って、契約してもらった。その土地に俺たちの山荘を建設するが、これから皆に山荘建設の会員になってもらい、毎月、会費を払ってもらい、山荘を完成させようと思っている」
「すると、土地購入は完了しているということだな」
「ああ、オヤジの名義になっているがな」
その岩野の答えに多くの者が疑問を抱いたが、細木逸郎が皆を説得した。
「岩野のオヤジさんは、岩野が可愛いから、俺たちの夢に協力してくれたんだ。土地の名義は岩野のオヤジさんの名義だが、俺たちが自由に使わせてもらえる土地だ。問題は建物だ。以前、話したように、皆に毎月、会費を支払ってもらい、ローンで山荘を建設するつもりだが、賛成して欲しい。良いだろうか」
その細木の確認に対して、反対する者はいなかった。昇平は、貧乏人の自分には、それ程、利用価値があるとは思えなかったが、将来、子供たちを連れて行ける高原の自分たちの記念館を建てようと誰かが言っていたので、それに賛成した。その後、8月になったら、岩野、手塚、細木の3名が長野に行って、建設業者と打合せする計画でいるとの説明があり、皆、納得した。昇平は大変なことになったと思ったが、大学時代の仲間との絆を大切にしようと、彼らについて行く決断をした。話がまとまると、皆で焼き鳥屋『鳥ぎん』に行き、酒を飲み、釜めしを食べて解散した。その後、『モエテル』の呑み助たちはバー『アモーレ』に出かけたが、昇平は金欠病だったので、仲間とさよならし、『春風荘』に帰った。玄関に入ると下駄箱の郵便受けに、文芸誌『文学界』で同人募集していた同人誌『山路』からの手紙が入っていた。同人誌『山路』の立ち上げの第1回会合は8月5日の月曜日の夕方6時半、中野区役所の新井出張所の2階の集会室で行うという通知の手紙だった。昇平は月曜日の会合だが、やり繰りして参加することにした。どんな同人に出会えるか、今から楽しみだった。早く8月にならないかなどと考えたりして、布団を敷いて寝た。次の日曜日、林田絹子から久しぶりに電話が入った。
「またスズちゃんの家に泊まったの。今から会ってもらえますか?」
「うん。良いよ。じゃあ、渋谷で会おう」
「何時が良いかしら」
「そうだな。2時に渋谷の東横線の改札口で会おう」
「そう。では渋谷の改札口で待っているわ」
昇平は時々、手紙で近況報告をし合っている林田絹子と会うのは、何故か気が楽だった。絹子は東京人では無く、地方から出て来た1つ年下の娘で、機転が利かないが、基本に忠実で、安心して付き合っていられた。不機嫌になることもあったが、それは何時も昇平自身の不手際の所為だった。昇平は外出着に着替え、約束の2時に渋谷の改札口に行った。だが絹子の姿が見当たらなかった。畑中鈴子と長話して遅れて来るのだろうと予想し、昇平は同人誌『山路』の主幹、飯塚文昭からの手紙に添付されていた同人誌規約を、彼女が現れるまで、再読することにした。同人会費などは何故か、『中央文学』や『新生』より安いので、どうしてだろうと考えたりした。と、突然、後ろから、肩を叩かれた。振り返ると足踏みして喜ぶ林田絹子の笑顔があった。
「こんにちわ」
「何処にいたの。気づかなかったよ」
「何処でも良いでしょう」
「だって、こうやって改札口で待っていたんだから、何処にいたのか知りたいよ」
「やねえ、トイレに行っていたのよ」
絹子は昇平に追及され、不服そうな表情をした。昇平はそこで穏やかな表情を浮かべて絹子に言った。
「何処に行こうか?」
「そうねえ、たまにダンスに行きましょうか」
「ダンス?今はそんな季節じゃあないよ」
「だって、満腹だから、少し運動しないと・・・」
「分かったよ」
そこで昇平は絹子を渋谷駅の直ぐ近くにあるダンスホール『ハッピーバレー』に連れて行った。大橋花江や船木省三たちと何度も利用した地下のダンスホールは初夏だというのに混雑していた。そこで昇平と絹子は、ブルース、ワルツ、ルンバ、マンボ、ジルバなど好きなだけ踊った。タンゴだけは苦手だったので、タンゴ曲がかかると、休憩した。でも『碧空』、『恋心』、『並木の雨』などの曲はワルツの踊りで楽しんだ。ダンスの後、喫茶店『フランセ』に行き、雑談をした。そこで絹子から転職を考えているが、どう思うかの質問を受けた。
「私、夏休みが終ったら、『NA石油』を辞めて、別の会社に転職しようと思っているの。どう思う?」
「どう思うって。そんな人生を左右するような重大な事を相談されても、何とも答えられないよ」
「そうね。スズちゃんも答えられないから、吉岡さんに相談したらって言うから、今日、会ってもらったの」
「そういうことか。転職先の会社は、どんな会社なの?」
「私の信頼する『NA石油』の先輩が転職した商社で、日本橋にあるの」
「何ていう会社?」
「えーつと、『ⅠZ産業』よ」
「そうか、『ⅠZ産業』なら知っているよ。どちらかというと繊維関係の商社だね」
「どうして知っているの?」
「うん。一部、プラスチック原料も取り扱っている商社だから」
昇平は今度、従兄の忠雄が勤める『CH通商』の近くに『ⅠZ産業』があることを知っていたし、取引先が『ⅠZ産業』から原料を購入していることも知っていたので、そう答えた。
「どう思う。吉岡さんならどする?」
「この選択は、林田さん自身が決断すべき重要案件であり、その道が林田さんにとって進んで行って良い道か、突き進んで行っては駄目な道か、誰にも判断出来ないよ」
「では、どうすれば良いの?」
「それは、君が先輩に勧められて、良い道だと思ったら、その道に移動すれば良い。何処の道を歩くにも苦労はつきものだが、努力すれば花が咲く」
「努力すれば・・・」
「そう。『IZ産業』は商社だ。『NA石油』と違ったことを学ぶことが出来る。つまり、『NA石油』で得た知識の上に、新しい知識を積み重ねることが出来る。それは君の人生において必ずプラスになる。だが努力しなければ、泥沼に向かう道に入り込むことになる。いずれにせよ、転職は君自身が覚悟して決めることだ。僕は反対はしないよ。僕が言えるのは、この程度だ」
「ありがとう、夏休み、栃木に帰り、父に相談してみるわ」
「それが良い。ちゃんと、お父さんに状況報告をしておけば、お父さんも安心するよ」
昇平は、まるで聖人君子にでもなったかのような気分で、絹子の問いに答えた。その後、喫茶店『フランセ』を出て、絹子を上野まで送って行くことにした。大橋花江とのデートの時は、飲食を終えてから、道玄坂の『ムーンリバー』に行ったが、清純さの残る絹子を誘惑してはならないと、昇平は湧き上がる欲望を忌避した。渋谷駅から山手線の電車に乗り、上野駅まで行って、一旦、下車し、地下食堂『さくら』に入り、2人で向き合い天丼を食べ、何かあったら、また会おうと約束した。昇平は、それから常磐線の電車に乗る絹子をホームで見送って、山手線の電車に乗って『春風荘』に帰った。その翌週になると、『オリエント機械』が忙しくなった。客先の工場に夏休みに納入する機械の組立てが遅れ気味なので、多賀製造部長から伊藤営業部長に助っ人の要請があり、昇平が、現場の手伝いをすることになった。昇平はその為。営業活動を一時、ストップして、高野製造課長の下で青柳公蔵、雨谷幸雄、原田隆夫らと、『岩水化成』向けのフィルム製造装置を組立てた。そんな或る日の午後、岡田課長が遠藤常務と一緒に『三井石油化学』に出かけて行った。それを見計らって、向井静子が、組立て現場に来て、昇平に声をかけ、小さな声で耳打ちした。
「今日、6時、『大綱橋』の所で待ってるけど、良いかしら」
「うん。何とかして行くようにするよ」
「きっとよ」
「うん。分かった」
昇平は、普段、机を並べて仕事をしている静子からの誘いを受けて、ドギマギした。組立工場内で機械の組立作業をしながら、どうしたものかと考えた。考えたところでどうなるものでは無かった。素直に先輩事務員の誘いに従うしかなかった。昇平は夕刻5時過ぎに現場作業を終え、6時に綱島駅近くの『大綱橋』に行った。その橋のたもとで、ポパイのガールフレンド、オリーブのように細っこい向井静子が、2段フリル襟の黄色のブラウスと青と白の縦縞模様のスカートを着て、鼠色のハンドバッグを持って、軽やかな格好で待っていた。
「お待たせ」
「早く来られたわね。大丈夫だったの」
「うん。残業届、出していなかったから」
「さあ、どちらに行こうかしら」
「そうだな。会社の連中に見られるとまずいから、ちょっと遠いけど、橋を渡って大倉山の喫茶店に行こう」
昇平は細っこいが美人の向井静子に興味はあったが、彼女が『オリエント機械』の独身社員たちの憧れの的であることを知っていて、彼女に接近することを、ずっと避けて来た。なのに彼女が付き合っていた田浦哲也が『オリエント貿易』に戻ってから、何故か、静子が仕事中に机の下で昇平の手を握って来たりするので、彼女が何を考えているのか確認しなければならないと思っていた。昇平は静子の先に立って、『大綱橋』を渡り、綱島街道を大倉山方面へ向かった。
「遠いわねえ」
「文句、言わないの。会社の人に見られたら大変なんだから・・・」
昇平が、そう言うと、彼女はしばらく黙ってついて来たが、思い出したように遠いわねと文句を言った。そうこうしているうちに、綱島の隣り町、大倉山に到着した。静子が駅前を通り越した所に小さな喫茶店『ポエム』があるのを見つけたので、そこに入った。窓辺の席に座り、コーヒーを註文すると、静子は少し笑みを浮かべ、話し始めた。
「やっと2人きりになれたわね」
「そうですね。営業部には何時も人が出入りしていて、バタバタしてますからね」
「そうなの。でも吉岡さん、頑張っているわね」
「それって、どういう意味ですか?」
「辞めた浅岡さんが言っていたわ。あのお坊ちゃん、何時まで続くかしらって」
「へえ、そうなんだ。浅岡さんにお坊ちゃんと観られていたんだ・・」
「だって、そうでしょう。『Tインキ』の工場長の甥っ子で、『М大学』を卒業し、東京から横浜まで通って来るエリート社員なんですから・・」
「それは買い被りだよ。僕は能無しの中途半端人間さ」
「そんなこと無いわよ。機械の注文を沢山、もらって来るじゃあない」
「それは『オリエント貿易』の営業の人たちや我が社の設計部の力のお陰だよ」
昇平は静子に褒められ嬉しい気分になったが、それに甘んじてはならないと思った。彼女が何を考え、何の目的で自分に誘いをかけて来たのか、その本心を確かめたかった。だが彼女は昇平をからかった。
「それだけじゃあ無いわ。私たち女子社員の協力もあるのよ」
「そうだよな。何時も親切にしていただき感謝してます。これからもよろしく」
昇平が、そう言って、頭を下げると、静子はケラケラと笑った。そこで彼女に質問した。
「その後、田浦さんとはどうなっているの?」
「えっ。田浦さんと私のこと、どうして知っているの?」
「浅岡さんから、聞いていたから・・」
「そう。でも田浦さん、本社に戻っちゃって、音信不通よ」
「結婚を考えていたのじゃあないの」
昇平が、結婚の話をすると、彼女は真剣な顔になった。
「私、田浦さんと、喫茶店でコーヒーを飲んだりしてたけど、結婚のことなど考えていなかったわ。知ってるでしょう。斎藤常務が私と岡田課長をくっけようとしているのを・・」
「はい。何となく」
「それに設計の藤井さんや製造の小林さんからも、付き合わないかと声がかかって困っているの」
「そうなんだ」
「それで岡田課長と結婚するの?」
昇平が、そう言うと、静子は首を横に振った。
「いやよ。あんな人。偉そうに威張っていて、細かくて・・」
「でも年上で包容力もあって、経済的にも悩まなくって良いから、結婚相手としては良いんじゃあないかな」
「まっぴらよ」
静子は、そう言い、笑顔で昇平を見た。昇平は彼女の中に救いを求めているような感情が浮游しているのを察知した。昇平の頭の中に田端の萩原叔父が言っていた社内の女に手を出すなという忠告が浮かんだ。面倒なことになるといけないから、如何に美人の彼女に接近されても、彼女の誘いに引き込まれるのはやめておこうと思った。彼女はコーヒーを追加注文し、昇平に言った。
「吉岡さん。結婚のこと、まだ考えていないの?」
「全く考えていないよ。今の自分の給料じゃあ、やって行けないから」
「共稼ぎすれば大丈夫じゃあない」
「そこまで苦労して結婚する必要があるかな」
「ふうん。そういう考えなんだ。つまんないの」
静子は、それから何か楽しいことをしたいと言った。しかし昇平には大倉山での楽しいことなど、全く浮かんで来なかった。
「ここらへんには、ボーリング場もダンスホールも無いよ。一体、どんなことをしたいの?」
「それが分からないから貴男に訊いているのよ」
「じゃあ、レモン通りのレストラン『スマイリー』で食事をしよう」
昇平は以前、入ったことのあるレストランで夕食をすることにした。静子の美しさには魅力を感じているが、じゃあ、セックスでもしようかとは言い出せなかった。昇平は喫茶店『ポエム』を出て、『スマイリー』で静子と洋食を食べた。その後も、彼女が、何処かへ行こうと言ったが、昇平は断った。
「明日も仕事があるのだから、もう帰ろうよ」
「そうね。残念だけど、今日はここまでで終わりにしましょう」
昇平はホッとした。『スマイリー』を出て、大倉山駅まで行き、改札口を入ったところで、菊名に帰る彼女と手を振って別れた。静子と反対側のホームに駆け上ると、丁度、渋谷行き電車が入って来て、その電車に跳び乗った。通り過ぎて行く車窓から見える夜の灯りを見送りながら、昇平は彼女が日頃の憂鬱の中に昇平を巻き込もうとしているのではないかと想像し、不安になった。
〇
同人誌『山路』の会合が8月5日の月曜日、中野区役所の新井出張所の集会室で行われると言うので、昇平は都内への出張を計画し、その帰りに、中野へ向かうことにした。当日の午後、昇平は市ヶ谷にある客先2社に立寄ってから、総武線の電車に乗って中野駅で下車した。そこから商店街を通り抜け、早稲田通りを越え、中野区の新井出所に行った。その2階の集会室のドアが開いていたので、中に入ると15人程が四角に並べられた机の椅子に座って集まっていた。昇平は受付係の男性と女性の指示に従い、出席名簿にサインし、空いている席に座り、出席者を見渡した。中央に座っているサラリーマン風の中年男性が、同人誌『山路』の会長らしく、皆の注目を集めていた。『中央文学』の赤川謙先生や亡くなった『新生』の森秋穂先生とは違って、作家気取りのところが見受けられず、まるで学校の教師みたいだった。会合に参加している人たちは、他の同人誌グループと同様、女性の会員が多かった。定刻の6時半になると、予想した通り、中央にいた飯塚文昭会長が立ち上がって挨拶した。
「皆さん。こんばんわ。会長の飯塚文昭です。お忙しいところ、お集りいただき誠にありがとうございます。今回、文芸雑誌『文学界』に会員募集の広告を出し、皆さんに会員になっていただき、心から感謝すると共に、入会をお喜び申し上げます。お陰様で北海道から九州におられる方まで、会員になっていただき、発起人としては文学を愛する人が、こんなにもおられるのかと感激でいっぱいです。また本日、その文学に熱心な東京をはじめとする関東近県の文学に熱心な皆様に、かくも沢山、お集りいただき、期待以上のスタートとなりましたことは発起人として感無量です。ここで私以外の発起人の方々を紹介致します。こちらが副会長の沢木駿介さんです」
すると飯塚会長に名前を呼ばれたYシャツ姿の中年男性が挨拶した。
「副会長の沢木駿介です。飯塚会長と共に、会を盛り上げて参りますので、よろしくお願いします」
沢木駿介が挨拶して着席すると、飯塚会長が、もう一人の副会長を紹介した。
「もう一人の発起人を紹介致します。詩人の西条麗子さんです」
飯塚会長に名前を呼ばれると、緑色のワンピースを着た背の高い美人が挨拶した。
「西条麗子です。皆さんと協力して頑張って行きたいと思います。よろしくお願いします」
彼女は、そう挨拶して笑みを浮かべた。飯塚会長は、それから、受付にいた男性に目配せして、彼を紹介した。
「もう一人の発起人は会計をしていただくのとになっています添田さんです」
すると机で記録係をしていた添田計夫が頷いて立ち上がり、挨拶した。
「私が会計係の添田計夫です。よろしくお願いします」
発起人の紹介が終わると、今度は出席者各人が、自分の名前と職業、学校などを説明し、自己紹介した。その後、例会日時の話や例会出席は自由意志であり、作品投稿も自由意志であるとの報告があった。また創刊号の原稿締切りが、8月末であると、沢木副会長が皆に伝えた。それから主として太宰治を中心とした作家論などの座談会となった。昇平は若い学生たちの情熱的な作家論に耳を傾けた。それにしても創刊号の原稿締切りが8月末とは性急すぎるのではないかと思った。会合が終わるや、昇平は急いで『春風荘』に帰った。自分の部屋に入るなり、学生時代から、走り書きして来た小説のノートをダンボール箱から引っ張り出して、どの作品を同人誌『山路』の創刊号に掲載して貰おうかと考えた。だがほとんどが長文の作品で、同人誌に掲載するには不適格だった。そこで昇平は、新しく短編作品を書くことにした。だがそれは簡単な事では無かった。現実は厳しかった。『オリエント機械』は夏休み中に静岡の『岩水化成』や世田谷区池尻にある『TK興産』の工場にプラスチックフィルム製造装置を納入し、据付けることになっていて、製造部がてんてこ舞いになっていた。その為、製造部の多賀永助部長が営業の伊藤琢也部長に、助っ人の依頼をして来た。そこで客先担当の昇平が現場作業の手伝いをすることになった。それに伴い昇平は営業活動を一時、ストップして、多賀製造部長や高野製造課長の指示に従い、現場作業に専念することになった。高野課長、小林課長代理、小川係長、原田隆夫、藤井敏久、日向卓也、金子孝昌、雨谷幸雄や外注業者と一緒になって、機械の組立てから配線まで手伝った。また群馬の実家の両親には今年の夏は仕事が忙しくて、帰省出来ない旨の手紙を送った。すると田舎の父、大介から、仕事に専念しなさいと、了解の返事が来た。そして夏休みがやって来ると、設計部、資材部、営業部、総務部の人たちは夏休み休暇に入ったが、製造部のメンバーと昇平たちは真夏の暑さの中、客先の工場に行って、機械の据付工事をしなければならなかった。昇平は『岩水化成』の現地工事を岩淵課長と親しい高野課長に任せ、多賀製造部長と一緒に池尻の『TK興産』へ行って、小林課長代理、原田隆夫、日向卓也、金子孝昌たちと、作業服にヘルメット姿で汗水流し、外注業者を使って機械据付に頑張った。兎に角、大型機械なので、据付に時間を要した。だが『TK興産』の池尻工場は、『春風荘』から渋谷経由で、それほど遠くはなく、昇平にとって幸いだった。そのお陰で現場作業を終えて、『春風荘』に戻って、同人誌『山路」への投稿作品を執筆することが出来た。作品のタイトルを『君知るや我が心を』として、自分の過去の暗部を恋人へ告白する形式の物語を描いた。昇平は8月13日から18日の日曜日までの6日間、夏休みを返上して『TK興産』の工場で頑張った。そうこうしているうちに8月末になり、昇平は小説『君知るや我が心を』を書き上げた。昇平はその出来上がった原稿を、同人誌『山路』の文学会事務所である中野区新井の飯塚文昭会長宅に送付した。
〇
バタバタしているうちに9月になった。昇平は『岩水化成』に納入した機械の検収が上がり、伊藤部長や『オリエント貿易』の浅田泰雄係長と一緒に静岡に出張したり、『TK興産』に納入した機械のトラブル会議に松尾設計部長、村松設計課長と出席したり、『SH高分子』向け延伸装置の受注活動などに奔走し、多忙を極めたが、同人誌『山路』の月例会には、かかさず出席するよう心掛けた。その『山路』の月例会は、中野区役所の新井出張所より、中野駅にもっと近い喫茶店『ロダン』に変更になった。このことは昇平にとって中野駅から近いので有難かった。また会合の日が9月15日の日曜日となり、出席者が20人を超えた。今までの会合は月曜日だったので、都内と東京近郊の会員しか参加しなかったが、今回の会合は、日曜日の午後とあって、遠方からの会員も集まって来た。出席者が20人以上となり、貸し切りの『ロダン』の2階の部屋はムンムンとなった。定刻の午後3時になると、飯塚会長がまず例会の挨拶をした。そして今回、初めての出席者に自己紹介してもらい、その後、顔見知りの昇平たち各人も、自分の名前を初見えの人たちに名乗った。それが終わると、飯塚会長は『山路』創刊号の投稿が予想より少なかったと報告し、8月末までの原稿締め切り日を、9月25日まで延長すると、皆に伝えた。飯塚会長は弁護士という職業柄か何故か文学を共に学ぼうとする教師的なところがあって、毎回、作家をテーマにした話題を提供し、勉強会的な懇談会を実施した。昇平には読んだこともない作家の話など出て、前回はチンプンカンプンだった。今回のテーマはトルストイの『戦争と平和』だった。学生時代、ロシア文学に憧れていた尾形憲三代議士は、このトルストイの名作を読破したと昇平に語ったが、昇平は『戦争と平和』という映画を観たことはあるが、作家を目指しているのに、有名なその作品を読んでいなかった。飯塚会長は名作『戦争と平和』の3大意義について、集まっている会員たちに得意になって語った。
「トルストイの小説『戦争と平和』が世界文学の最高峰といわれているのは、19世紀初頭のナポレオンのロシア侵攻という危機的状況の中の苦難に立ち向かったロシア人の民族性や貴族社会と民衆の心理面の相違を、事細かに描写した1大叙事詩だからです。私はこのトルストイの作品には次の3大意義があると思っております。第1は歴史的意義です。歴史的事件というものは、無数の人民の意志の総和によって決定されるものです。偉人、英雄はレッテルに過ぎません。この作品は英雄の価値の剥奪、偶像の破壊を徹底化しています。第2は哲学的意義です。人生の究極の心理は自己否定でも他人を無視したエゴイズムでも無いと論じています。自己と他人との有機的結合が人生であり、『生』の肯定、『生』に対する信仰を語っています。第3は芸術的意義です。戦争か平和かという相反する思想を登場人物に仮託し、最終的に秩序や統一を目指すアポロ的終結を描き、芸術的に仕上げているところです。皆さんがトルストイという文豪をどう思われているか、お聞かせ下さい」
飯塚会長に意見を求められると、会員たちは、誰が意見を述べるか周囲の様子を窺った。昇平は皆が沈黙しているので、副会長の沢木駿介がトルストイについて、何か語るのではないかと予想したが、彼は一言も喋らず、他の会員が喋るのを待った。そんな周囲の様子を見て、『K大学』の石橋久幸が、飯塚会長に質問した。
「トルストイは年老いて、何故、あんな悲惨な死に方をしたのでしょうか。飯塚先生は、どう思われますか?」
すると飯塚会長は、こう答えた。
「そうですね。80歳を過ぎてから家出して、小さな駅で命を落とすとは、どういうことでしょう。作品に描いた理想的人間の生き方と、実生活における自分の生き方の乖離、矛盾、醜態を嘆いての自殺かもしれませんね」
昇平は飯塚会長の言葉を聞いて、びっくりした。自分の知らないトルストイの死だった。続いて蛭間紀夫が、それに付け加えた。
「トルストイの死はアンドレイ公爵の人生観につながっていると思います。総ての人を愛することは、つまり、誰も愛さないということ。この地上の生活を愛さないということから来ているのではないでしょうか?」
「そうですね。この地上の生活をしなということを善と考えるようになったのかも知れませんね。シレノスの言葉に引き込まれたみたいですね。最善は生まれなかったこと。次善は出来る限り早く死ぬこと・・」
昇平たち会員の多くは、目をパチクリして、3人のやり取りを聴いた。そこへ高橋和利が加わり、更に話が弾んだ。
「私はトルストイが『戦争と平和』で描きたかったのは、軍人、アンドレイのナポレオンに立ち向かう愛国心と大富豪、ピエールの農奴解放思想だったと思います。アンドレイは愛国的名誉欲が強く、戦場に行き、捕虜になり、挫折し、目標を失ってしまうが、ナターシャに励まされ立ち直る。だが、結局は戦場で死んでしまうことになります。ピエールは父の死によって大富豪になるが、何故か物足りなさを感じ、何の為に生きているのか自分探しを始め、アンドレイの後を継ぎ、戦場に出て、これまた敵の捕虜になってしまいます。そこで捕虜兵から、支配されて自由のない状態は、ここでもシャバでも農民の自分たちは同じ事だと教えられ、農民の苦しみを知り、農奴解放を考えようになります。それからナターシャと再会し、結婚し、農民の生活を思いながら仕合せに暮らしたという。ハッピーエンド。トルストイの願望は農民と共に暮らすことだったのではないでしょうか?」
高橋和利は教師だけあって、『戦争と平和』の内容を詳しく知っていたので、これまた昇平たちは感心した。それに負けじと、再び石橋久幸が発言した。
「トルストイは『戦争と平和』の8年後に『アンナ・カレリーナ』を執筆していますが、その間の思想の推移をどう思われますか?」
「トルストイは『戦争と平和』を発表した後も、ずっと生と死を考えていたのだと思います。人の生きるべき道は愛であると・・・」
高橋和利の発言は恰好良かった。すると岩崎広吉が言った。
「皆、格好良い評論をするが、俺は、そう思わない。『戦争と平和』はナターシャとピエールとアンドレーの三角関係の小説、『アンナ・カレーニナ』は不倫をして自殺した女の小説で、いわば大衆小説だよ。だから評判になったのさ。日本の純文学とは、ちょっと違う。俺は、西欧の文学作品より、芥川龍之介や谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫の作品が好きだね」
こうなると、難しいことを話したがる会員が出て来て、私小説芸術論などに発展した。『ロダン』での月例会は、盛り上がったが、飯塚k会長は遠方からの会員がいるので、夜の8時に、一旦、会合を終了した。それから、会合で親しくなった会員と飲みに行くことになった。蛭間紀夫の呼びかけで、石橋久幸、岡本悟史、広松彰人、宮内英武、岩崎広吉と昇平の7人が集まった。中野の商店街の居酒屋『らんまん』に入り、自分たちを『山路』の七人の侍などと言って、酒に酔いしれた。蛭間紀夫が皆に、今日の座談会はどうだったと訊いたので、昇平はオードリ-・ヘプパーン、ヘンリーフォンダ、メル・ファーラーの出演する『戦争と平和』の映画の話をして、物語としては『風と共に去りぬ』も戦争作品としては捨てた物じゃあないと話した。それから個人的な話に移り、蛭間紀夫は作家になる夢を描いて、桐生での教員生活を捨てて、上京したと語った。石橋久幸は『K大学』の教養課程で学んでいて、文学者か大学教授になりたいと言った。岡本悟史は墨田区の印刷会社に勤務していて、校正の仕事をしていると語った。広松彰人は金沢出身で『N大学』の文学部に通っていると話した。宮内英武は渋谷区役所に勤めていて、『文芸首都』の同人であると語った。岩崎広吉は不動産屋の営業をしていると語った。昇平は群馬出身で、横浜の機械メーカーに勤めていると話した。すると蛭間紀夫が自分と同郷だと喜んだ。また石橋と広松は学生同士、大学での講義内容など、意見交換した。皆、酒好きの連中で、『らんまん』の閉店時間の10時まで、互いに切磋琢磨し、同人誌『山路』の会員の中から、有名作家を誕生させようと情熱を燃え上がらせた。そんな思いをしているのは『山路』の連中だけでは無かった。翌週、石田光彦から電話があり、土曜日の夕方、恵比寿で会おうということになった。昇平は『オリエント機械』の仕事を終わらせてから、石田から指定のあった恵比寿の喫茶店『銀座』に行った。店のドアを開けて中に入ると、何と木下徹先生と夏目綾香が青木泰彦たちと一緒に、コーヒーを飲んでいた。昇平は木下先生が同席していたのでびっくりした。木下先生は、昇平を見るなり言った。
「やあ、吉岡君。随分、痩せたみたいだが、大丈夫か?」
「はい。大丈夫です。この夏、客先工場へ行って機械据付の現場工事をしましたので・・」
「営業でも、そんな仕事をするのかね」
「はい。体力を消耗し、5キロ痩せました」
「まあっ、5キロも!」
夏目綾香が驚きの声を上げた。彼女が驚くのも当然だった。重労働の後、ろくな物も食べずに、『山路』への投稿作品の執筆に夜遅くまで取り組んだのだから。
「ところで今日、君を呼んだのは、青山君と石田君を、六本木に連れて行くので吉岡君もついでに連れて行こうと思って・・」
「そうですか。何かあるのですか?」
「我々、劇団の脚本の仕事に貢献してもらっている君たちを紹介したい人がいてね。今から付いて来たまえ」
「はい」
そこで、昇平たち文学青年3人は喫茶店『銀座」を出て、ダンス教室に行く、夏目綾香と別れ、木下先生の後に従い、地下鉄日比谷線の電車に乗り、六本木に移動した。地下鉄六本木駅で下車すると木下先生は3人を、六本木通りの中華料理店『香妃園』に連れて行き、店内の円卓でウーロン茶を飲んでいる2人に声をかけた。
「随分、早いですね」
「うん。早く顔を見たくてね。2人で早く来ちゃったよ」
そう言って、丸顔の中年男が笑った。何処かで見たことのあるような丸顔だった。木下先生は早速、昇平たちに、2人を紹介した。
「有名な熊倉一雄先生と和田文夫先生だ」
「熊倉です」
「和田です。よろしく」
昇平たちは目をパチクリさせた。テレビやラジオで耳にする熊倉一雄の名前を聞いてびっくりしている3人に、木下先生が笑って言った。
「驚いていないで、挨拶しなさい」
そこで3人は青木、石田、吉岡の順に挨拶し、木下先生の指示に従い、円卓の椅子に座り、紹興酒で乾杯後、美味しい中華料理をいただいた。熊倉先生と和田先生は、木下先生に頑張ってもらい、今の『屋根裏劇場』をもっと大きくし、日本の喜劇会を発展させたいので、3人に更に協力して欲しいと依頼して来た。それを聞いて、青木も石田も大喜びした。『香妃園』で『テアトル・エコー』の先生たちにご馳走になって、木下徹先生たちが別の所に移動するというので、昇平たちは『香妃園』前で先生方と別れた。すると、青木泰彦が、これから新宿のバー『ランラン』に行こうと提案したので、昇平は彼らと一緒に、タクシーに乗り、新宿のゴールデン街の『ランラン』に向かった。青木と石田は脚本のアルバイトを手掛けて、今までより収入が得られるようになってか、ルンルン気分だった。
〇
10月になり、昇平は『SH高分子』から延伸装置の注文をいただいた。このことは『昭和電工』の糸島研究所長と親しい遠藤常務のお陰であるが、設計の越水正勝と営業の昇平が、見積資料作成に頑張ったことも役立っていた。そんな嬉しい受注仕事の一方、『TK興産』に納入した機械装置は、どう改良しても、上手く製品を生産することが出来なかった。昇平は運転操作に苦しむ製造技術部の小林課長代理や原田隆夫らの意見を聞き、金型を新規手配するよう、社内提案した。すると設計の松尾部長が激怒した。だが昇平はフィルムを上に吹き上げるのであるから金型内の樹脂流路を横分岐で無く、斜め上に向かっての分岐にして、マニホールド数を増やべきだと提案した。この昇平の対策案に本間課長や若き設計者、若森君夫も賛成し、解決方法に苦慮していた遠藤常務も伊藤部長も、コストがかかるが、本間課長や若い意見を採用し、問題を解決することにした。そんなこんなで、昇平は林田絹子や小野京子から、たまには会いませんかと連絡があったが、忙しいからと文通で済ませた。ラブレターもどき文章を送ってやれば、彼女たちの心を繋ぎ留めておくことが出来ると、安易な考えをした。社内の向井静子とは、人目を忍び、日吉や大倉山の喫茶店で時々、会って雑談した。また『オリエント貿易』に出張した帰りには、機械部の連中に誘われ、麻雀をしたり、銀座のクラブ『風花』に連れて行ってもらったりした。『風花』のママ、桐本悦子は、上州育ちで、店の名を『風花』と名付けたと昇平に説明し、長いお付き合いをしてねと昇平に依頼した。そう言われても、昇平には銀座のクラブを利用する程の肩書も無ければ資金力も無かった。悦子ママは内村理沙と文学論を交わす昇平との間に割り込んで来て、10月17日にノーベル文学賞の受賞が決まった川端康成の話を持ち出し、『オリエント機械』の営業の仕事の傍ら執筆活動をしている昇平に応援するような発言をした。
「ヨッちゃん。私、何時かヨッちゃんが、立派な作品を書き上げて、芥川賞をいただくことに期待しているのよ。だから時々、『風花』に来て、経済や女性の勉強をしなさい」
「そう言われても、僕は、ここに来られるような給料をもらっていません」
「私から遠藤さんに言って、ヨッちゃんの給料を上げてもらうわ」
「上げてもらえなかったら?」
「それはその時。出世払いよ」
悦子ママは、そう言って笑った。いずれにせよ、20代半ばに達する寸前の昇平にとっては何をするにも、時間と金がかかって、生きて行く事は、辛苦だった。そんな状況下の10月末日、同人誌『山路』の創刊号が出来上がり、飯塚会長から、昇平の所に送られて来た。印刷インキの匂いがする創刊号を手にして、昇平は、胸をワクワクさせた。目次をひめくり、自分の作品『君知るや我が心を』が掲載されているのを目で確認し、まるで絵画展に自分の絵が飾られているような喜びを感じた。その『山路』の月例会が、11月3日、日曜日、中野の喫茶店『ロダン』で行われた。副会長の沢木駿介の司会で、例会が始まり、創刊号に投稿しなかった会員たちに創刊号が配布された。その後、『山路』第2号の原稿締切り日を来年、5月末日にするとの報告があった。また創刊号の合評会を、来年1月から開始するので、掲載作品を読んでおくよう言われた。沢木副会長からの報告が終わると、飯塚先生が中心になり、島崎藤村と宮本百合子の人生観について議論が交わされた。島崎藤村の『春』より、〈私のようなものでも生きたい。私のようなものでも、人生を知りたい〉という文章が興味を引いた。また宮本百合子の『貧しき人々の群』より、〈私の生活に意味のある間は死ねない〉という考え方も分かるような気がした。しかしながら昇平は彼女のプロレタリア作家に移行した人生を好きになれなかった。何故、白樺派的作風から共産主義的思想に偏向してしまったのか。そんなことを考えていると、話題は本題を外れ、川端康成のノーベル文学賞の話題に移行していた。岩崎広吉は三島由紀夫が受賞されるべきだったと喋るなどして、月例会はあれやこれや意見が錯綜し、午後9時に終了した。昇平は、月例会終了後、今回も蛭間紀夫や石橋久幸、岡本悟史たちと、居酒屋『らんまん』に行き、酒を飲み文学論を交わし合った。彼らと一緒に飲んで、川端康成のノーベル文学賞の話などしていると、何故か自分が作家にでもなったような錯覚に陥った。自分の今の姿は『オリエント機械』で働いているが、その実態は吉岡昇太郎が作家になる途上での姿ではないかと、そんな自信を抱くようになった。昇平は、数日後、祐天寺の大衆食堂『信濃屋』に行った時も、早坂桐子に同人誌『山路』を寄贈し、今度、会員になった同人誌『山路』のメンバーとの交流を自慢した。すると彼女は喜んだ。
「新しい同人誌の仲間になれて良かったわね。私、読み終わったら、寺山先生にも読んでもらうわ」
「そうしてもらえると有難いよ。よろしく頼むよ」
「はい。でも、寺山先生は今、大変なの。東先生が『天井桟敷』を退団しちゃって、奥さんともうまく行っていないみたい」
「そうなんだ。誰にも悩みはあるものだね」
「そのことで、一度、相談しに行っても良い?」
「うん。良いよ」
昇平は何の配慮もせずに安易に答えた。すると、桐子はおかしそうに笑った。昇平は『信濃屋』で、サバの塩焼きとほうれん草のツナ和え、それに豆腐と味噌汁の定食をいただき、同人誌『山路』の創刊号を桐子に渡し、夕食代を精算すると、店主の滝沢寛治たちに、ご馳走さんと言って、『信濃屋』を出た。それからクリーニング屋に寄って、Yシャッを受け取り、『春風荘』に帰った。『春風荘』の部屋に帰り、コタツの電源を入れ、一息ついた。それから、下着やパンツ、靴下を洗濯をして、軒下に干した。それが終わると、タオルと石鹸を洗面器に入れて、坂下の銭湯『松の湯』に行った。1日の仕事を終えてからの銭湯の湯気の中で、ポカンとしているのは気持ち良かった。そして、すっきりした気分になって、細い坂道を登って帰ると、『春風荘』の前で、黒い影が立っていた。良く見ると、桐子だった。
「えっ、どうしたの?」
「何よ。相談しに行っても良いって言ったじゃない」
「ああ、そうだったね」
「都合が悪かったら、別の日にするわ」
「いや、まあっ。良いよ。部屋、汚いけど・・・」
「ごめんね」
「良いよ」
昇平は、仕方なく、桐子を『春風荘』の部屋に案内した。部屋に入り濡れたタオルを軒下に干してから、コタツの電源を入れ、コタツ板の上の籠から、ミカンを取り出して、コタツに足を突っ込んだ、桐子に言った。
「ミカン食べなよ」
「ええ、いただくわ」
それから、昇平も一緒にミカンを食べながら、桐子の話を聞いた。桐子の悩みは寺山修司の率いる『天井桟敷』に残るか、東由多加が創設した『東京キッドブラザーズ』に入団しようか迷っているとの話だった。寺山修司の妻、九条映子も迷っているみたいなので、どうしたら良いかというのだ。そこで昇平はこうアドバイスした。
「実態を把握出来ていない、僕が、キリちゃんのこれからについて喋ることは、無責任だが、相談されたので、僕の意見を言うよ」
「お願いします」
「第一に言えるのは、『天井桟敷』が実積を上げ、世に認められ始めているということだ。まだ生まれたばかりのヒヨッコ劇団に参加して、キリちゃんに何が出来るのか疑問だ。第一、ブラザーズという名付け方が僕には気に入らない。兄弟軍団という劇団名だよ。女性の活躍を無視しているように見えるけど・・・」
「でも梶容子さんや小林由紀子さんもいるから・・・」
「そう思うなら、そうすれば良いんじゃあないか。何も僕に相談しに来なくても・・」
「だって、貴男に賛成してもらえたら、新しい劇団に行く勇気が湧くと思ったから・・」
「間違えるなよ。僕はキリちゃんの親でも恋人でもないんだから」
「そんな冷たいこと言わないで。私、本気なのよ」
桐子は、そう言って、突然、昇平に跳びついて来た。昇平は焦った。桐子にキッスされ、抱き付かれ、性器が勃起するのを昇平は止められなかった。自分が望んでいたことでは無かったが、自分を求める桐子の事を乗りかかった船だと考え、桐子の上にのしかかり興奮した。もはや桐子は昇平にとって、『信濃屋』のアルバイト女性では無く、妖艶な女だった。昇平は荒々しく、桐子の下着を剥がし、彼女と接合し絡み合い、燃え上がった。行為に夢中になっている自分を見上げている熱っぽく潤んだ桐子の瞳が、何故か昇平には愛しくてならなかった。良いのだろうか。このまま突き進んだりして・・・。
〇
あっという間に、12月となった。その初日、朝食を済ませた昇平に電話が入った。昨夜、帰りが遅かったのであろう、管理人の百合ママがパジャマ姿で、階下から昇平を呼び、受話器を昇平に手渡した。
「彼女からよ」
「済みません。朝早くから」
「女をもてあそんでは駄目よ」
百合ママは、妖しい笑みを浮かべ、昇平に忠告すると、直ぐに自分の部屋に戻った。昇平は誰からだろうと受話器に耳を当てて喋った。
「もしもし。吉岡ですが・・」
「ああ、吉岡さん。林田です。お久しぶりです」
「うん。そうだね」
「来週のお休みに、お会いしませんか?」
「ううん。来週は予定が入っているから駄目だよ。同人誌の仲間との忘年会があるんだ」
「そう。じゃあ、今日は?」
「うん。午後2時頃なら良いよ。何処で会おうか?」
「そうね。たまには有楽町で会いましょうか」
「それは良いね。では午後2時、地下鉄日比谷線の日比谷駅ホームで待っているよ」
昇平は、絹子と、そう約束して電話を切った。それから昇平は洗濯したり、部屋掃除したりして、外出着に着替え、トレンチコートをひっかけ、『春風荘』を出た。中目黒商店街の中華料理店で、トンコツラーメンの昼食を済ませて、それから中目黒駅前に行くと、『永井商店』の店先に、永井秀雄の姿は見えなかった。彼はどうしているのだろう。そんなことを考えながら中目黒駅から地下鉄日比谷線の電車に乗り、日比谷に向かった。地下鉄日比谷駅で電車を降り、辺りを見渡すと、反対側ホームで、絹子がキョロキョロしていた。近眼なので、昇平が見えないらしい。そこで昇平は反対側のホームに行き、絹子と合流し、地下鉄の駅から出て、銀座の喫茶店『パリシェ』まで歩いた。銀座の柳は葉を落とし、冬の到来に震えていた。『パリシェ』に入って、コーヒーを飲みながら、絹子は転職先『IZ産業』の機械部の話をした。また10月、『NA石油』の畑中鈴子や橋本美智子と『大銀座祭』を観に来て、素晴らしかったなどと、積極的に話した。知り合った頃のしとやかな彼女と違って、遠慮なしに明るく喋る彼女と話していると、昇平は何の飾りも無く気楽でいられた。『パリシェ』でケーキを食べ、コーヒーを飲み終えてから、2人は新橋のダンスホール『フロリダ』に行き、ダンスを楽しんだ。『東京ブルース』、『黒い瞳』、『北上夜曲』、『星の流れに』、『ゴンドラの唄』、『ムーンリバー』、『魅惑のワルツ』、『情熱の花』、『闘牛士のマンボ』、『銀色の道』など、沢山、踊った。踊り疲れたところで、『フロリダ』を出て、新橋から上野に移動して、『アメヤ横丁』で互いの誕生日プレゼントを買った。ネックレスとネクタイ。互いの首根っこを縛りつけておこうという考えのプレゼント交換みたいだった。その『アメヤ横丁』での買い物を終えてから、2人は『不忍池』近くのビルの4階にある洋食レストラン『キクヤ』に行って、ビーフシチユーを食べた。食事をしながら絹子が言った。
「次はクリスマス・イヴに会いたいわ」
「うん。分かった」
その時にならないと先の事は分からないが、昇平は了解した。そして、何時ものように上野駅に行き、常磐線のホームで彼女を見送り、『春風荘』に帰った。翌日、昇平は富士宮にある『FUフィルム』の研究所に出かけ、印画紙用テスト機の納入に立ち会った。ここでの業者管理は厳しかった。高野課長を責任者にして、作業者の1人1人の氏名、住所、血液型を作業届に記載させられた。昇平は江田研究所長と長井研究員に高野課長以下、自分も含めて1週間、工場内で作業する許可をいただき、近くの旅館に寝泊まりして、テスト機の据付作業を終わらせた。その工事を終えて、東京に戻ると、直ぐに、同人誌『山路』の懇親忘年会が、8日の日曜日、中野駅南口正面の料理屋『みかく亭』で盛大に催された。出席者20名。そのうち、宮城県の会員、安倍紀義が遠方から参加するなどして、宴会は熱気を帯びた。安倍紀義は自費出版『コギトの崩壊』を皆に配布寄贈し、昇平たちとの親交を深めた。昇平は安倍の情熱に驚いた。そんな『山路』の忘年会が終わると、昇平の日常は更に忙しくなった。週明けにボーナスをいただいてから、お得意様への年末の挨拶に奔走した。『オリエント貿易』の営業マンや伊藤部長との挨拶回りが多かった。府中で3億円事件が起き、テレビ、ラジオ、新聞などで大騒ぎになったりしていて、客先との話題にも、ことかかなかった。そんな多忙な年末の挨拶巡りをして、昇平が夕刻、『オリエント機械』に戻ると、向井静子が声をかけて来たりしたが、林原武士から、自由が丘のキャバレーに行こうと誘われていたので、静子の誘いを断った。林原は『キングオブキングス』の浅井弓子と親密になっているらしく、昇平と『キングオブキングス』の店に行くや、弓子に跳びつかれた。昇平は賑やかなキャバレーの煌めきの中で、林原たちと一緒に堀口園子と金髪ショーの終わる、閉店まで過ごした。それからは前回と同じコース。『鮨銀』に寄り、美味しい寿司をいただいてから、林原たちと別れ、タクシーで『鷹番ローズ』へ。2階の園子の部屋で一泊。翌朝、『春風荘』に帰った。昇平は下駄箱の上の新聞受棚から自分宛ての手紙と新聞を持って部屋に入り、林田絹子からの手紙を読んだ。その後、川端康成が12日、スウェーデン・アカデミーにおいて、ノーベル文学賞の受賞記念講演で、『美しい日本の私』を語った文章を新聞で読み、涙したりした。12月20日は『オリエント貿易』との営業会議後、綱島の料亭『入船』での忘年会。何時もなら、『オリエント貿易』の営業マンと一緒になって芸者を相手にふざけるのだが、今年は替え歌を唄って、皆を笑わせた。23日の月曜日は新橋の居酒屋『お多幸』で『モエテル』の忘年会。その席で、来春より山荘の建築を開始するとのことで、会費の徴収があったが、ボーナスをもらっていたので支払うことが出来た。翌日、夕方、高野課長たちに『カトレア』に行こうと誘われたが、彼女とデートがあるからと断り、渋谷に行った。東横線の改札口で、林田絹子と待ち合わせして、予約していたレストラン『サラマンジュ』に行った。まずはシャンパンで乾杯し、フランス料理をいただきながら話した。今宵、姉夫婦は自分がいなくて清々しているでしょうと、絹子は姉たちの悪口を言った。食後のデザートを食べてから清算をし、『サラマンジュ』を出て、ダンスホール『ハッピーバレー』に行くと、満員だからということで、ダンスホールへの入場を断られた。
「仕方ないな。今日は、クリスマスイヴだからな。じゃあ、帰ろうか」
昇平が、そう言うと、絹子が眩しく輝く道玄坂のネオンとクリスマスの飾りを観ながら言った。
「あのう。お願いがあるの」
「何?」
「吉岡さんの部屋を見せて欲しいの」
「ええっ。何で?」
「だって、私が作ってあげたカーテンが、どうなっているか、確かめたいの」
「確かめたいって、頂いた時のままだよ」
「本当かしら。私以外の人が作ったカーテンの色に囲まれて暮らしているのじゃあないかと思って」
「緑色のカーテンのままだよ」
「嘘じゃあないわよね」
「分かったよ。じゃあ、見せてやるから、ついて来な」
昇平は、そう言ってから、絹子を連れて渋谷から祐天寺に移動し、本当に『春風荘』の自分の部屋に絹子を招き入れ、部屋のカーテンを見せた。
「どう。変わっていないだろう。僕はこの緑の森のような、カーテンに囲まれ、仕合せに暮らしている」
「そうね。でも部屋の中は乱雑だわね。書物ばっかりで・・」
「まあ、荒さがしばかりしないで、コタツに入りなよ」
昇平が、そう言うと絹子はオーバーコートをハンガーに掛け、コタツに入った。コタツ板の上に置いてあるミカン籠を見てから、その傍に置いてある同人誌『山路』の創刊号を手にして、昇平の作品『君知るや我が心を』が掲載されているのを発見した。そして『君知るや我が心を』を読み始めた。昇平は、ヤカンでお湯をお湯を沸かし、お茶の準備をした。すると突然、絹子が昇平の作品を読みながら泣き出した。目に涙をいっぱい溢れさせ、夢中になって、昇平の作品を読み終えると、昇平を見つめて言った。
「貴男もいっぱい苦労して来たのね。可哀想・・・」
そう言われると昇平の胸に自分の過去に同情してくれる人がいてくれるという実感と共に、理由も分からぬ切なさが湧き上がって来た。同情してくれる人の心が愛しくてたまらなくなった。愛情乞食だった昇平は喜びいっぱいになり、大はしゃぎし、コタツに足を突っ込んでいる絹子に接近して言った。
「分かってくれるかい?」
「勿論よ。貴男のこと、一層、好きになったわ」
「僕も同じだ」
昇平は喜びを抑えられず、絹子を横倒しにして、その上に覆い被さった。絹子は、この時を待っていたかのように抵抗せず昇平を受け入れた。昇平は目を潤ませる絹子を見つめて囁いた。
「愛してる」
「私も」
絹子も、そう呟いた。昇平は絹子の上で身体を揺さぶり、押し寄せる欲望を絹子に注いだ。彼女は唇を噛みしめ、昇平の乱暴を許した。そして行為が終わって、股を広げている絹子の女陰の口から、かすかに、赤いものが流れ出ているのを見て、昇平は、ああっと思った。彼女は辛そうでもあり、嬉しそうでもあった。東京の銀座や新宿、渋谷は賑わっているだろうに、『春風荘』の『202号』室は甘い涙のクリスマスイヴだった。
〇
クリスマスが過ぎると、大晦日まで、幾日も無かった。昇平は年末の挨拶の傍ら、岡田課長、宗方主任、向井静子、宮本知子、添田汐里らと、客先への年賀状を書いた。そして冬休み前の26日、伊藤部長と、このメンバーで、『福寿亭』で営業部の忘年会を行った。ここでの主役は、この店を接待で一番に利用している岡田課長だった。伊藤部長は皆さんのお陰で、『オリエント貿易』から『オリエント機械』に移籍して来て、今までに無い営業成績を上げることが出来、大満足な1年だったと挨拶した。岡田課長は、来年も結束して頑張ろうと、皆を激励した。それから美味しい中華料理を皆でいただいた。『福寿亭』での忘年会は1時間半ほどで終わった。すると、向井静子が昇平に誘いの合図をしたが、昇平は岡田課長がいるからと、そっと断った。その翌日の27日は『オリエント機械』の食堂での仕事納めの忘年会兼納会が行われた。朝から事務所や工場の大掃除を行った後、午後から社員全員が集まり、磯部社長、大野副社長たちの挨拶の後、餅つきをしたりしての酒宴となった。その最中、田中俊明が近寄って来て、宮里敦司、越水正勝、金子孝昌たちが女性たちと横浜に遊びに行くというので、吉岡も同行しないかと誘われた。だが、昇平は岡田課長たちと雀荘『竹藪』で麻雀する約束をしていので、同行出来ないと断った。納会が終わると、職場に戻り、1年間、お疲れ様でしたと、麻雀をしない伊藤部長や宗方主任や、向井静子や宮本知子たちに挨拶して、会社を出て、林原武士や原田隆夫たちと一緒に、綱島の雀荘『竹藪』に向かった。麻雀好きな遠藤常務、多賀部長、石本部長、田口部長、高野課長、岡田課長、三船課長、浜田課長、林原武士、片岡哲人、原田隆夫らと一緒に、雀荘『竹藪』に集まり、昇平は麻雀大会を楽しんだ。大学生時代に覚えた麻雀は、昇平にとって、大学を卒業して、社会人になってからも、勝っても負けても、昇平の1つの武器だった。麻雀が出来ることで、遠藤常務をはじめとする『オリエント機械』の上司たちと親密になり、『オリエント貿易』の連中や客先からも可愛がられた。その麻雀大会を終え、『春風荘』に帰ると、1年間の『オリエント機械』の仕事が終わってホッとした。そして昇平は麻布の深沢家に行ったり、田舎への買い物などをして、2日ほど、都内で過ごし、12月30日、上野駅から信越線の電車に乗って、故郷に向かった。本庄を越えると車窓から、かすかに群馬三山が見えて来た。その三っの山々は、次第に大きく近づいて来て、まるで昇平の帰りを歓迎し、微笑しているかのようだった。
〈 『迷走辛苦』終わり 〉