第八話 オオカミの男
群れを離れた狼は、一体どこへ向かうのか。
家族も仲間も、離れてしまえば遠い昔の思い出になってしまう。振り返った先には、雪原の上に自分一人の足跡だけが点々と続いている。
吹雪の中。
俺はこの世界にはぐれてしまった。
視界を覆う激しい白い暴風。この世界のことなど何も知らない俺は、先の見えない旅が始まったことに簡単に絶望した。
震える身体を引きずって、見つけた洞窟に逃げ込んだ。
轟轟と鳴り響く自然の暴力を洞の中でぼうっと眺めながら、冷たささえ感じなくなった自分を慰めるように抱き締めて死を受け入れていった。
その時だった。
「……?」
音が消えた。
もう死んでしまったのかと疑うほど、また新しい世界にでもやってきたのかと錯覚するほど、あまりにも一瞬で吹雪が止んでいた。
俺の足跡を辿って、近寄ってくる影があった。
「あ」
見てはいけないものを見たことに気づいた。
本能的に感じ取れた。
その感覚に理解が追いついた時には、既に遅かったのだ。目の前には、『そいつ』がいた。そのドス黒い影の中でも際立って目立つ『黒い眼』で、じっと俺のことを見つめていた。
孤独な死にかけの狼を、舐め回すように物色していた。
「人間。なるほど」
喋った『そいつ』は、俺の目と鼻の先にまで『見てはいけない眼』を近寄せてくる。
溶ける。
こいつと眼を合わせていると、ドロドロと自分の全てが消えていく。
見てはいけない。だがもう、見ないでいることはできない。
呼吸を忘れ、瞬きを忘れた俺に、『そいつ』は口を引き裂いて満足そうに笑った。
「いい。いいぞ小僧。お前にしよう。お前に決めたことに何の意味も理由も因果もない」
「……ぇ」
ぐちょり、と聞いたこともない音が俺の右目から咲いた。右眼をくり抜かれたのだ。声など出なかった。あまりの激痛に声など上げる余裕がない。
そして、動けない。『そいつ』から意識を外せない。
それほどまでに、『そいつ』はバケモノだった。
圧倒的な災厄だった。
「俺様の気まぐれに、お前を選んでやろう。小僧」
ニタニタと笑う『そいつ』は、自身の『右眼』をもくり抜いてみせると、俺の空っぽな眼底に押し込んできた。
筆舌に尽くしがたい激痛に思わずのたうち回ると、全身に血が巡っていくことを理解する。
寒さを感じない。
いや、寒さそのものが消えてしまったような、そんな奇妙な感覚。『そいつ』はもう、そこにいなかった。
「なん、なんだよ……」
そこには、いなかった。
右眼に手を添える。感じる。ああ、絶対にそうだ。『そいつ』は今、ここにいるのだ。
俺の『右眼』に、心音を感じる。
生き物の音を。
災厄の息吹を。
「――ねえ、クロ。ねえってば」
「……ああ。すまん」
依頼人の走らせる馬車の中、睡魔に落ちていたクロの肩をさする。なかなかの凸凹道、ガタゴトというよりもガタンゴトンと揺れる車内で、この男は爆睡していたようだ。
「どうしたの。酔った?」
隣で覚醒したクロの顔を見れば、初めて見るほどに大量の汗をかいている。
冷や汗だろうか。
心配する私を一瞥したクロは、包帯の下の右眼を押し潰すように掌で押さえつけていた。
「なんでもない。少し嫌な夢を見た」
「なら、いいけれど……」
「もうつくのか」
「らしいわよ」
対面に座っている依頼人の竜人、レオナルド・ブラハムに視線を投げる。彼は頷くと、小さなカーテンを開いて隠れていた小窓をあらわにする。
窓の先には、ラティオス国内最大の湖たるハインライン湖が水平線のように広がっていた。日差しを受け止めてキラキラと輝く水面の上に、自由を体現するように水鳥が飛び回っている。
さらに、その先に見えたのは、崖上に立つ大きな赤いレンガ造りの古城だった。
「あれか」
「ああ、後五分ほど辛抱して欲しい」
クロの問いかけにレオナルドが端的に答える。随分と立派な住まいだ。服装や立ち振る舞い方からも品を感じられたが、どうやら良いところの貴族のようだ。
「仕事は効率的にしたい。すまないが、依頼内容を改めて話してはくれないか」
「ああ。『請負人』。あなたには、私の娘にかかっった魔法を―――『心を失う魔法』を請け負って欲しいのだ」
「ふむ」
クロは懐からスキットルと言われる携帯容器を取り出すと、中の液体をごくりと飲み込んだ。
独特な香りが周りに漂う。
ハーブのような香りだ。だが、若干アルコールのようなものも感じる。
(道中、クロは頻繁にこれを飲むのよね。中身、そう言えばなんなのかしら)
ぼんやりと、つい容器をみつめてしまう。
レオナルドも大事な話の最中に酒でも飲まれているのかと疑問に思ったようで、訝しげな視線をクロに向けていた。
「ああ、いやすまない。薬だよ」
詫びを入れたクロに、レオナルドは制するように手を出した。
「分かるとも。ライカを飲んでいるのだろう。いやなに、かなり強力な痛み止めだ。飲みすぎれば鬼のような幻覚剤にもなるから、なかなか手に入れられるものではないのに、と不思議に思ってな」
「なんだ。やけに詳しいな。レオナルドさん、あんたひょっとして医者かい」
クロは少し目を見張ると、もう一口『ライカ』と呼ばれる痛み止めの薬を飲んだ。
レオナルドは少し照れくさそうに笑う。
「いや、しがない魔術師でね。お隣のエルフのように魔法が使えるわけではないのだが、治療魔術の方で昔は国家研究所に務めていたのだよ。特に、魔法や魔術の使えない者たちにも有効な、魔法薬の研究開発が専門だったのだ」
「こりゃたまげた。学者様だったとは」
「よしてくれ。もう引退の身だ」
クロは続けて容器に口をつけようとする。
レオナルドは、その魔法薬を握りしめて止まないクロの腕を引っ掴んだ。
「あなた、それ以上はよしなさい。とうに通常の摂取量の倍は超えている」
「気遣いはありがたいが、こうでもしないとあんたの娘さんは助けてやれんよ」
「……そうか。正義ぶってすまない」
クロの敵意も不快も表さない淡々とした言葉に、レオナルドは眉根を寄せて手を下ろす。
クロは、ごくりとまた一口飲み込んで続ける。
「いや、元プロなんだ。仕方ないさ」
クロの表情は、いつだって変わらない。どうでもいい、という顔をしている。
彼は自分で言っていた。
自分は器で、自分に意味はないと。本当に、『右眼』のためだけに動く機械のようだ。
そんなクロの空虚な瞳をバツが悪そうに見つめたレオナルドは、恐る恐るといった様子で尋ねる。
「それほど危険な域までライカを飲まねばならないとは。あなたの力の代償なのか、『請負人』よ」
「代償というより、こうでもしないと気が狂って死んじまうってだけさ。これ以上詮索するな。話を元に」
「……そうだな。いや失敬。娘にかかっている『心を失う魔法』だが、これを四つ解いて欲しい」
「四つ?」
眉を潜めたクロに、レオナルドは深く悩ましげに答えた。
「ああ。四姉妹それぞれが、心を失ってしまっているんだ。娘四人に魔法がかけられている」
正門に馬車が止まる。
振り返れば、断崖絶壁にかかる柵の向こうに、ハインライン湖の絶景が広がっていた。門をくぐると、何人かの執事やメイドが丁寧に頭を下げてくる。綺麗に手入れのされた庭園が広がっていて、中央には大きな噴水が湧き出ていた。
「ねえ」
私はレオナルドの後ろに続くクロに小声で話しかけた。
「魔術ってなに。魔法とは違うの」
「なんだ。知らんのか」
クロは横に並んだ私を一瞥し、レオナルドの背中を見つめながら語ってくれた。
「魔法とは生来宿した力のことをいう。お前さんのようなエルフ族は、生まれながらにして魔法が扱える才能、血筋を持った存在だ。魔力もたんと身体の中で生成されるからな」
「魔術っていうのは?」
「術、と言われるほどだ。『理論』によって力を発揮する。正しい手順、ロジックによって行使すれば、魔力を持たない者でも魔法のような力を発揮できる」
「なるほど。その魔術のエキスパートが、レオナルドさんってことよね」
「そうなるな。魔法薬開発のためにラティオス国の国立研究所で務めるほどだ。この国に魔術魔法専門の国立研究所は一つしかない。魔術師としては最高峰の腕を持つんだろうさ」
「そんな凄い人が飲み過ぎって言ってたけど、それ大丈夫なの」
クロの右手が離さない、ライカの入ったスキットルを指さした。
右手がカタカタと震えているのだ。先ほどから、後ろから見ていた私は手の痙攣に気づいていた。
だが、クロは自覚がなかったのか、小刻みに震える右手を左手でぎゅっと握りしめる。
ライカは懐にしまい、大丈夫だと言って足を早めた。
(心配しただけなのに……)
私までうるさく突いてしまったから、機嫌の悪そうな声だった。
(あれ。なんか怒ってるような声だった。珍しい)
あの虚ろな顔に。
怒りの色が、感情が鮮やかに広がっているのだろうか。
気になった私がその背中を追いかけると、どんと思い切りぶつかる。
よろけた私に目もくれず、クロはじっと庭園隅にあった城内につながる小窓を見つめる。
「……」
「どうしたのよ」
「いや。大丈夫だ」
再び歩き出した彼に続いていく。城内に敷かれた赤いカーペットを城主レオナルドの後に続いて踏みしめていく。
やはり魔術師の家系なのだろう。廊下の壁には『魔法薬研究』といった単語の入った表彰状が、二百年以上前のものから現代レオナルドの代に至るまで、ずらりと画廊のように飾られていた。
竜人レオナルドは魔術師。エルフの私は魔法使い。そんな私たちで解決のできない圧倒的な事象を引き取れるクロは、クロの『右眼』は、一体何の力なのだろうか。
「ついたよ。では、よろしく頼む―――『不幸の請負人』」
レオナルドの開いた扉の先に、『不幸』が待っている。
クロはその『不幸』を、どう見つめるのだろうか。
部屋の中には、四人の少女が食卓の円テーブルを囲んで座っていた。レオナルドが一人一人の簡単な自己紹介を始めてくれた。
長女のアンリ。長い亜麻色の髪を一本に結った彼女は、ぼうっと窓の外を眺めている。
次女のセレナ。セミロングの髪はボサボサで、自分の爪をいじって時間を潰している様子だった。
三女と四女は双子のエリカとエレナ。瓜二つのツインテールの少女二人も、人形のようにピクリとも動かずお互いを見つめ合って座っている。
廃人だった。
狂気の様子に、私は思わず固まってしまう。
「『請負人』のクロだ。お前さんらにかかった『不幸』を請け負いにきた者だ。よろしく頼むよ」
赤いカーペットをぎゅっと踏み込み、クロは一歩前に出る。全員の顔を見渡している。まったく反応の様子はない。
私も遅れて前に出る。
「じょ、助手のフレイヤ・フェルメール。エルフです。よろしくお願いします」
私の挨拶にも全くの無反応。
テーブルには水の入ったコップの一つもない。食事をまともに取っていないのだろう。折れてしまいそうな身体つきであることは四姉妹の着ているワンピース越しにも分かった。
レオナルドは頭を抱えながらため息を吐いた。テーブル周りに余っている椅子を二つ持ってくる。
「すまないね。こんな様子で、質疑応答にならないんだよ。全員が食事もまともに取らず、何の反応もない。壊れてしまっているんだ」
「なに、慣れてるよ。似たような依頼を昔引き受けたことがある」
レオナルドの持ってきた椅子にクロが座ると、私も運んでもらった椅子を頂いて隣に着席した。
「その似たような依頼は無事に解決できたのか」
「ああ。魔族の黒魔法がかかっていたから、それを請け負った。それで済んだ話さ」
「それは頼もしい。早速お願いしたい」
レオナルド自身も椅子を私とクロの真向かいに椅子を持ってきて座り込む。両手をぎゅっと握り締めて、前かがみになってクロを見つめた。
対して、クロは少女たちを一瞥し端的に言った。
「すぐには無理だ」
「……なぜだ」
「レオナルドさん、あんたは魔法薬開発の第一線にいた魔術師なんだろう。分かるんじゃないのか」
「……やはり、そういうことなのか」
「ああ。原因はここにない」
意味の分からないやり取りをしているクロの肩を叩いた。
「どういうこと。原因がない?」
「そうだ」
クロは少女たちを見渡して、落ち着いた声で告げる。
「この子たちに魔法はおろか魔術すらかかっちゃいない。請け負うものが、なにもないのさ」