二十二話 揺蕩う
アリスティアは音を立てないように扉を開いた。月明かりしかささない廊下は薄暗い。見張りの護衛騎士はおらず、ほっと息をついた。
誰にも気づかれないように部屋を抜け出したのが十分ほど前。アリスティアは昼間に歩いた道を急いでいた。
明かりのない道は暗いが、準精霊たちの輝きで事なきを得る。
もう一枚、なにか羽織ってきたほうがよかったと思うが、今さら引き返すことはできない。速やかな移動をするために動きやすい格好をしてきていた。
「――」
泉までやってきたアリスティアはその光景に息を呑んだ。
泉の水面に星空が反射している。そして、準精霊が混ざるように揺蕩っていた。
「先に来たのは、アリスでしたか」
泉の手前、星空を背景にしたシルビアが振り返る。祖母の言葉に、やはりフィリアも手紙をもらっていたのだと確信した。
「話というのは、フィリア令嬢が来てからでしょうか」
他人行儀な言い方にシルビアは悲しげに眉を下げ、ふるふると首を振った。
「いいえ。彼女はここには来ないでしょう。来たとしても、いつになるやら」
ここへと来るまで、アリスティアは誰一人として見かけていない。あとにも先にもフィリアの姿はなかった。
手紙の内容を読み間違え、別の場所へ行っているのかもしれない。
「フィリアは精霊について、どれほど知っているのでしょう?」
「私にはわかりません」
「フィリアと仲良くしていますか?」
言い淀んだところで、シルビアはまた眉を下げた。
「アリスはこのものたちが見えますか?」
シルビアが手のひらを上に向ける。アリスティアの周りを漂っていた準精霊たちがそちらに行き、淡く点滅した。
「み――えない、です」
シルビアはにこりと微笑んだ。
指し示しているものは、準精霊ではない。アリスティアの目に映らないなにか――精霊が、そこにいるのだろう。
準精霊はともかく、精霊の姿など見えるわけがない。精霊術師にはまだ、なっていないのだから。
「あの日の約束を、アリスは守っていてくれているのですね」
「はい。おばあさまとの約束ですから」
「約束と違えたいと、思ったことはありませんか?」
意味がわからず、すぐに返事ができなかった。
「思いませんでした」
シルビアは体の前で重ねている手に、きゅ、と力をこめた。
「どうしてそのようなことを聞かれるんですか?」
正直、アリスティアは約束をしていることは覚えているが、いつ、どうしてその約束を交わしたかは覚えていない。
ただ、決して破ってはならないと深く心に刻まれている。
「いえ、おかしなことを聞きましたね。今のは忘れてください。さて、少し昔話をしましょうか」
シルビアはくるりと背を向ける。水面の反射が、増えた気がした。
「フィリアの父親のことは聞いていますか?」
「絶縁したと、聞いています」
顔をこちらには向けず、こくりと頷いた。
「あの子は……愚かなことをしました」
シルビアの肩が僅かに上がる。息を吐いたのだとわかった。
「アリスは、精霊と妖精の違いはわかっていますね?」
「もちろんです。何度もおばあさまが教えてくれたではありませんか」
「エヴァンは、わからなかったようです」
いやな想像が頭に広がる。
ナトラ帝国では、妖精は悪である。人間をたぶらかし、無邪気な善意で悲しみを産み落とす存在とされている。
いったい、エヴァンという男はなにをしたのか。その答えを聞く前に、シルビアは話を逸らしてしまった。
「知らせを受けたときは私も驚きました。まさかエヴァンに娘がいたなんて、思ってもみないことでした。アリスには、辛い思いをさせたでしょう」
それから、爵位継承権にフィリアが名乗りを上げたことも、同様に驚いたという。
エヴァンはおろか、フィリアは完全にリガーレから手が離れている。シルビアとて、予想だにしていなかったはずだ。
「私は、大丈夫です。マリアンも第二騎士団の騎士たちも、お父さまも私を信じてくれていますから」
それに、と言葉を続けたアリスティアだったが、思わず口を閉じてしまった。不思議そうな顔をするシルビアを見て、アリスティアは意を決する。
「私は、精霊術師になります。おばあさまのように精霊術師になります」
二度、言ってのける。心臓がばくばくと鳴っていて、口から飛び出そうだ。
シルビアは目を見開き、なにもない空間に笑いかけた。淡い輝きたちが戻ってくる。
「楽しみにしています」
その後、シルビアは手紙の意味を教えてくれた。
『月が満ちる日、精霊は星に揺蕩う。輝きのもとで話をいたしましょう』
『月が満ちる日』は満月、『精霊は星に揺蕩う』は水面に映る星とそこに漂う準精霊とのことだ。
「少し、安直すぎたかしら? 笑われてしまったような気がして」
シルビアは頬に手を添えて、恥ずかしそうにはにかんでいた。