十六話 下がる一方
アリスティアは居心地の悪さよりも、心配の気持ちのほうが大きかった。
遡ること十数分前。シルビアの元へ向かうために馬車が二台、月明かりと見送りのランタンに照らされながら公爵家より出発した。
先を走る馬車にはアリスティアとランドルフ、後ろをついていく馬車にはフィリアとリーファスが乗っている。
もちろんマリアンは連れていけず、黒い瞳を潤ませながら別れを惜しまれた。予定では一週間ほどシルビアの屋敷で過ごすことになっているのだが、まるで今生の別れのごとく見送られていた。
「夜は長い。お眠りになられたほうがよろしいのではないしょうか」
無表情のまま、斜め向かいに座る壮年の騎士に言われる。
遠回しに「寝てくれ」と言われているのだろう。眉間に寄せられた微かなしわが、子守りはなるべくしたくないと物語っていた。
「そうさせてもらうわ」
アリスティアは座席に横になる。起きていたとしても窓の外を見ることはできず、会話に花を咲かせられるとも思わない。
かたかたと地面を走る馬車の揺れを感じながら、アリスティアは眠りに落ちていた。
それから、アリスティアはランドルフに起こされた。どうやらシルビアの住む屋敷についたようだ。
森に囲まれた豊かな場所に屋敷は立っている。緑豊かな景色に澄んだ空気。幼い頃に訪れた場所は変わりがなく、懐かしさを覚えた。
「よく来ましたね」
肩の上ほどの長さの白髪、けれど金の瞳は色褪せることがない。白を基調とした淡泊なドレスに身を包んだ祖母が、出迎えてくれた。
「おばあさま、お久しぶりです」
「おばあさま!」
馬車から下り、カーテシーをする間に、フィリアがシルビアに駆け寄った。
「おばあさま、フィリアです。とても会いたかったです」
「ええ、私も会いたかったですよ」
シルビアの瞳が複雑そうに揺れている。ふいに視線をこちらによこしたシルビアと目が合い、アリスティアはもう一度礼をした。
「さあ、こちらに。まずは案内を」
屋敷の周りの森は一部、道が切り開かれていた。正面を除いてそれぞれ、左手に伸びる道は小高い丘へ、裏手に伸びる道は泉へと続いていると説明してくれる。
姿は見えないが、ここには多くの精霊が住んでいる。だから決して、精霊術師の許しがなければ進んではいけないと念押しをされた。
もし精霊術師の意思に反することをすれば、精霊が怒り、その先はあまり口には出せないことが怒るかもしれない。
「ここにいる間は、屋敷の中を好きに歩いて構いませんよ。ですが、鍵のかかっている部屋には決して入ってはなりません。どうしても入りたい場合は私の許可を取るように」
一通り案内してくれたシルビアは指と指を交差させて、バツを作る。子供に言い聞かせるような仕草に、シルビアの中ではまだ自分は幼いままなのだろうとアリスティアは思った。
「ここでは常に、静かに過ごしなさい」
隣で話を聞いていたフィリアがぴくりと反応する。シルビアの穏やかな表情では、どこまで知っているのか読み取れない。
「おばあさま、私……おばあさまと話がしたいです。私は今まで、おばあさまがいることも知りませんでした。おばあさまについても精霊についても、いろいろ教えてください」
ずい、とフィリアが前に出る。
「ごめんなさいね。二人を呼んだのは私ですが、あまり時間を取ることができなくて」
「おばあさまは帝国の繁栄を担う一人ですから、仕方ありません。誓約もあるでしょうから……けれど許されるならおばあさまの都合のつく時間に、伺ってもよろしいでしょうか?」
アリスティアも一歩前に出て、フィリアと肩を並べる。
「ええ、もちろんですよ。待っていますね」
「ありがとうございます」
日時の指定はしてこない。けれどシルビアは「待っている」と言った。やはり話は、手紙で示されたそのときしかしてもらえないのだろう。
「それでは私は部屋に戻りますね」
アリスティアとフィリアは笑顔で祖母の背中を見送る。お付きの侍女と護衛とともにその姿が見えなくなると、フィリアはすっと笑顔を消した。
「どういうつもりよ」
「なにが?」
あっけらかんと答えるアリスティアに、フィリアの目が鋭くなる。それぞれ後ろに控えている騎士の視線などお構いなしだ。
「いつ、おばあさまと話す約束をしたの? 私が話そうって言ったのに、どうして横から機会を奪うのよ」
言ってから、フィリアははっとした顔をする。
「まさか、あなたもおばあさまから手紙をもらったの?」
やはり、フィリアも手紙をもらっていたようだ。内容まで同じかはわからないが、暗号めいた文章から想像はしていた。
「なんの話かしら」
「ちょっと、どこ行くのよ!」
「どこって、おばあさまが好きに歩いていいと言ったんじゃない。私に遅れを取りたくないと考えているなら、その必要はないわよ。だって、ものは逃げないんだもの。フィリア令嬢もおばあさまの厚意に甘えるといいわ」
フィリアの後ろでリーファスはぎくしゃくと腕を動かしている。フィリアをなだめようとはするものの決心がつかないようで、行き場のない手を彷徨わせていた。
ランドルフは我関せずといった面持ちで、この火花を散らすような光景を面倒くさそうに眺めている。
「そうそう。もらった手紙について、それがどんなに些細なものであろうと、そう易々と口外しないほうがいいわ」
アリスティアはにこりと微笑む。
わたわたしていたリーファスがぴたっと顔を引きしめる。いや、引きつらせたというほうが正しいかもしれない。
だが、アリスティアは気にせず続ける。
「それでは、あなたへの信頼は下がる一方よ」
「なっ……」
フィリアは反論しようとするが、うまく言葉が出てこないようだった。
アリスティアはくるりと踵を返す。リーファスには悪いことをしてしまったかもしれない。癇癪を起しかねないフィリアを、押しつける形になってしまったのだから。
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