8.新たなる奴隷志願
放課後、昴に待たされていて、なぜか残っていた雲井と二人で話していた。扉のほうから音がして同時にそちらを見る。
「すいません……失礼します……」
後ろの扉から、垂れ目で黒目がちの、顔はおっとり、体はムチムチ系のグラビアアイドルみたいな姉ちゃんがそそっと入ってきた。両手の拳をぎゅっと握って胸の下で構えるような仕草は顔立ち表情とあわさるといかにも内気な感じだ。
「あなたが木嶋くん……ですか。イメージ通りです……」
雲井が「誰だ?」と目線で聞いてくるので小声で「知らない人だ」と返す。
「木嶋くんが、一年の明日河さんを奴隷にしたとの評判を聞いて……来たのです」
率直に、いやな評判だな……と思った。
「あっ、私は二年の星島蘆花です……」
星島先輩は、思い出したかのように名乗り、ぺこりと頭を下げる。
「雲井原人です」
なぜだか雲井が自己紹介を返した。
先輩はそれにも律儀な感じにお辞儀を返した。
「それで……奴隷持ちの俺になんのご用でしょうか」
「そのっ……」
「は、はい」
「あの、わ、わた……」
緊張して待っていると、消え入りそうな小声が聞こえた。
「私もあなたの奴隷にしてもらえないでしょうか……」
とりあえず、雲井の顔を見た。
「ということだが、木嶋、どうするんだ」
「……引くわ……。なにが起こってるんだよ」
「星島先輩、一体なんでこんなしょうもない男の奴隷に志願しにきたんですか?」
雲井が俺と同様の疑問を口にする。しょうもないは余計だが、話が進まなくなると困るので黙って背中をどつくに留めた。
「そ……」
「そ……?」
雲井と一緒になって顔を覗き込む。
「あの……そういう性癖だとしか……」
シンプルでわかりやすい動機をありがとう。
「でも上級生だし……俺、そもそもそんな素養ないし、二体も管理できないかなぁ」
「二体とか、人を人とも思わない鬼畜発言をさらっとするあたり……わりと素養あるぞ木嶋」
「ねえっての!」
「……でも、それなら木嶋じゃなくてもよさそうっすよね」
たしかに、俺よりこの先輩のご主人様にふさわしそうなドSあるいはヤリチン男なら、校内にいるかはともかくとして、世間にはゴロゴロいるだろう。
「木嶋くんの、その、目つきの悪さとか、すごく……いいと思うので……それにっ」
「それに?」
「そ、そんな評判の人、ほかにいません!」
たしかにいない。校内で評判の奴隷持ちの男は、俺以外にいない。いたら引く。評判だけ聞くとすごい鬼畜野郎みたいな印象なのには同意する。
「先輩、この男は明日河さんを奴隷にしてすぐ、おっぱいを触らせろと命令したゲスクズ変態なんですよ。考え直したほうがいいですよ」
その通りだが、そう言葉にして言われるとゲスい印象が増す。しかし、星島先輩はひるまなかった。
「わ、私、おっぱいだって……さわらせられれ……しゅ!」
「えっ、本当に?」
「木嶋、お前誰でもいいんだな……」
雲井が思いのほか冷たい目で睨んでくる。
「そういうわけでもないけど……ただで触れるなら普通気になるだろ!」
「ただとか言ってる時点でドクズだな。俺は奴隷はご主人に一途であるべきと思うぞ……」
「お前の普通じゃない感想はいらん! ていうかまた俺が奴隷になってるじゃねーか!」
「そのゲス思考っ! 最高だと……思います」
「ゲスっていうか、今のは普通だろ!」
「俺は普通とは思わんな……」
「だから雲井はそもそも普通じゃねーから! お前が普通を語るなんて百万年早いわ!」
「ゲスです! 素敵です!」
全員頭がおかしすぎておのおののコメントが噛み合わず、カオス。
「わ、わた、私っ、明日河さんに比べても大きさは負けてないはずだと……ぜぜぜひっ」
「う、うん。その大盤振る舞いが逆に少しこわいです……」
「とっ……とりあえず……どうぞっ!」
「えっ」
突然手首を掴まれて、そのまま無造作に、巨大な乳にむんずとあてがわれた。
むにゅ。
ブレザー、おまけにシャツと下着越しだというのに、それは十分すぎるボリュームによって大きな存在感と破壊力を持って俺の脳天を直撃した。
「どっ……どうですか! 木嶋くん! 私のおっぱい……どうですか?! これで加入が許されますか!」
「お、おい、木嶋、どうした……どうしたんだよ……」
ぐわん、と目の前の空間が歪み、遠くから星島先輩と雲井の声が聞こえた。
「これが……おっぱい」
自分の発した「おっぱい」の声が脳内で巨大な音量でエコーとなり「……っぱい」「……ぱい」「……い」と何度も響きわたる。
「ダメー!」
そこへ勢いよく扉をガラガラと開けて叫び入ってきた女子生徒がいた。これは……俺の、おっぱい触らせてくれない奴隷一号。幼馴染みで、優等生の……あれ、この人誰だっけ……それより……手が、やわらかくて……やわらかいよ……。
「大変だ! 木嶋の瞳がうつろだ! 明日河さん! がんばって呼びかけるんだ!」
「櫂くん! 櫂くん! 戻ってきてー!」
「あ、あ、……う、ん……やりゃか……るばフ……」
「櫂くんの奴隷は私だよ! 正気に返ってー!」
昴が俺の頬を勢いよくばっちんばっちんと打って、手を先輩のおっぱいから引き剥がす。やっと意識が現実に返ってきた。星島先輩の声が聞こえる。
「明日河さん、大丈夫です。私は奴隷二号で十分だから……落ち着いてください」
「ひ、ひえぇ! 櫂くんが二台持ちなんて、そんなのやだ、やだー!」
昴が慌てふためいて混乱した声をあげる。
時間経過によって手の感触の余韻が薄れ、だいぶ自我をとり戻してきた。
俺は流れで昴のご主人様になっただけなので、ガチM奴隷の管理はちょっと難しい気がする。ていうか、この先輩は特に無理な気がする。
そう思う理由として、少し気になることがある。
「先輩、ちょっと、上脱いでくれませんか」
「え……は、はい!」
真っ赤になったあと、やにわに表情をきらめかせた先輩が、モジモジとブレザーを脱いだ。そのままシャツのボタンに手をかける。
あれ?
ブレザーだけのつもりだったんだけど……。
とりあえず目を細めてじっと見つめる。
「櫂くん……?」
「……」
「櫂くん!」
昴が再度俺の頬をべちこんと打った。
「痛い! ……あ、シャツは結構です。先輩、腕見せてください」
「え、腕……ですか?」
ボタンを全部外し終わり、興奮した顔で前を合わせていた先輩が拍子抜けした顔で袖をまくりあげた。
「さっきからチラチラ見えてたんですけど、そのー、手首とか腕にめっちゃたくさん痕があるのが……とても気になるんですけど……」
先輩の腕には、ものすごい量の自傷痕があった。古いものは傷が塞がり、新しめのものは生々しく、最新と思われる新鮮なものには包帯が巻かれている。包帯の先に滲む赤。しかも両腕。
「あ、私……その、自分をいじめるのが趣味で……気持ちよくて、ついやっちゃうんです……てへ」
やはり。ドM的な動機に基づいた自傷痕確認。
この人の奴隷志願はおそらく自分を嫌な環境におきたいだけなんだろう。あっても困るが俺自身には興味もない。いつか理想のご主人に出会うまで、この人は自分がご主人様で自分が奴隷なんだろう。これは相当の上級者。プロのリストカッター。
この人を奴隷にしても別に害はないと思う。
思うけど、なんかすんごい……こわい。適度に距離がある分にはいいけど、彼女の世界にきちんと踏み込み、その内面に深く触れたならば、そこにはガチで暗く、ねっとりとした重たい闇が潜んでいる気がする。そのときに、ものすごく嫌なことが起こらないとは言い切れない。滲み出る隠のオーラ、闇の世界への波動を感じる。
俺は結論を捻り出した。
「すいません……エンリョしときますぅ……!」
「はい。私は、あきらめません……」
「諦めてくれよ! 素直にこわいんだよ!」
「また来ますね……」
「来ないでよ!」
「すげなくされるのも……はぁっ……たまりません」
拒絶に興奮したのか、いよいよ変態性が隠しきれなくなってきた星島先輩は、紅潮した頬でボタンを開けていたシャツをつかみ、突然左右にご開帳した。
ばばーん。
脳内に音が鳴った。
レースの白い下着からこぼれそうに丸くて、ほんわかふんわりしたふたつのものがそこにあった。肌がつやつやしてる気がする。
「あぁ……ドン引きされてる空気がたまらないし、恥ずかしくて死にそうですっ……あぁああっ!」
星島先輩はひとり大興奮だった。突然のことに、おそらくその場にいた全員が目を見開き、突然現れた胸を凝視した。先輩は恥じらいに身をよじり。恍惚としている。
最初に我に返った昴の手のひらが俺の視界をふさいだ。
「だ、駄目ー! 櫂くん見ちゃ駄目ー!」
混乱しきった昴は半ベソで背後から前にまわって手のひらをブンブンしたりしていたが、やがてハッと気づいたように星島先輩のところに走っていった。そのまま背中を押しておっぱいを先輩ごと教室の外へと連れ出した。
先輩と昴のいなくなった教室で、俺と雲井はぼうぜんと立ち尽くしていた。
「……でかかったな」
雲井がぼそりとこぼしたその言葉に、正面を見たまま力強く頷いた。
*
数分後、俺はようやく家路への道を昴と二人で歩いていた。二人とも、先程の珍事により、やや疲労していた。
「先輩、変わった人だったね……」
変な人っていうか……まごうことなき変態だと思うけど。
「そういえば、昴、なに話してたんだ?」
先輩を教室の外に連れ出した昴は、しばらく戻ってこなかった。
「え……ボタンを留めてあげて……鞄置いてきたみたいだったから二年の教室前まで送っていって、普通に挨拶して帰ってきたよ」
「その対応もすげえな……」
相当ないい子ちゃんか、食わせ者じゃなきゃそんなことできないような気がする。こいつがどっちかは知らんが、たぶん食わせ物のほう。
「いや、私、あの先輩悪い人じゃないと……思うんだよ……」
確かに、あの人は自分の世界に病んでる系なので、自分の言動に酔っていて、無関係な雲井を邪魔にすることもなかったし、昴に対しても敵意のある瞳は向けなかった。たぶん、基本は少し内気なだけでいい人なんだろう。ただ、闇深な変態なだけで。
「悪い人じゃない……けど」
昴はもう一度つぶやいたあとに、立ち止まって俺の顔を睨みつけた。
「……ううー、でもやっぱり私ムカムカする……!」
「えっ」
「櫂くんの、バカ!」
突如叫んだ昴が俺の手を引っ張って、シャツ越しに自分の胸をつかませた。
むにゅ。
ぐわん。脳が揺れる。
続けてもう片方の手をひっぱって、反対の胸をあてがう。
むにゅ。ぐわん。ぐわん。
「バカ!」
昴は再度叫ぶと、走っていってしまった。
気がついたときには通学路の途中で俺はひとり、自分の手のひらをじっと見つめていた。
無意味に手をワキワキさせてみた。
わきゅ。
わきゅわきゅ。
手の中にはもうなにも、なにもない。
俺はなにもない空を何度もつかもうとした。
けれどはかないまぼろしのように、一瞬で消えてしまった悲しい光の痕跡がそこにあるばかりだった。
一瞬の記憶。
かつてそこにあった、やわらかなまぼろし。