4.横暴に呼び出す
午後七時三十分。
俺は明日河家の裏手の道沿いの公園にいた。
無慈悲な表情をつくってメッセージを送信する。
『今すぐ出てこい。十分以内だ』
明日河昴をうっかり奴隷にしてしまい、ヘラヘラとつきまとわれていた。早いとこ追い払わないと、脳が侵食されていくような危機感もあった。さっさと横暴で理不尽な命令をして追い払おうと思い、呼び出したのだ。
こんな時間に突然呼び出す。しかも夕食時。おいしくてあたたかい夕飯を目の前にして外に呼び出されるなんて、悲しいにもほどがあるだろう。実際俺はこのために夕飯が後まわしになり、少々腹が減っている。だからジュースとかおごらせてやろうと思っている。
うん。これは鬼畜の所業。
ニヤニヤしながら待っていると人影が見えた。
昴が走ってくる。思ったよりスピードが出てる。必死な顔をしている。
「おわあ!」
そのまま勢いよく昴に抱きつかれた。
「櫂くん、ありがとう……」
「……え?」
「うん。私、家……いたくなくて……」
「え?」
「ちょっと今、家出たいなあと思ってたんだ……でもほら、夜に出てもすることないし……」
へらりと笑う昴の顔を見て理解する。どうやらすごくちょうどいいタイミングで命令して呼び出してしまったらしい。これでは大失敗だ。単に外に出たかっただけなのかよ。腹立つ。
「……帰れよ」
「え、今来たとこなのに?」
「やっぱいい。気が変わった。俺の思惑と違いすぎてつまらんからやめたんだよ!」
「やだやだ! せっかく会えたんだから」
「んなこと言って、お前、家にいたくなかっただけなんだろ!」
「違うよぉ! 櫂くんに会いたかったの! これは本当だよ」
「どうだか……」
「拗ねないでよ……」
「拗ねてねえし!」
「拗ねない拗ねない」
「ひゃめろ!」
昴は笑いながら俺の頬をかるく摘んでくる。
「ね、ジュース持ってきたから、機嫌直して?」
「子どもか!」
憤りつつも公園のベンチに腰掛けて昴の持ってきたジュースを飲んだ。ファンタグレープ、わりと久しぶり。
「そういえば、腹減ってる?」
「さっき食べたとこだよ」
なんてことだ。この命令で無駄な空腹を抱えたのは俺だけだった。
「……なんで家にいたくないんだよ?」
「櫂くんには関係ないことだよ」
「お前、俺の奴隷なんだろ?」
「うん。そうだよ」
「じゃあ教えろよ」
「……ご主人様の手をわずらわすほどのことじゃございません」
「じゃあおっぱい揉ませろよ!」
「あ、それ却下ー!」
「なにが奴隷だ! どこが奴隷なんだ!」
「だから、なにか命令すればいいでしょ」
「命令しても却下されるんじゃ意味ないだろ! どんなのなら聞くんだよ」
「え、えっと……」
昴がこちらを上目で見てくる。なぜだか頬が少し赤い。
「おっぱいは駄目だけど……キスならいいよ」
「……は?」
「だ、だから、おっぱいは駄目だけど……キ、モゴッ」
予想外の発言に焦って昴の口を自分の手のひらで塞いだ。息を吸う、そして吐く。よし、落ち着いた。
手のひらをどけると、やわらかそうで綺麗な色の形のいい唇が目に入った。しばらく凝視する。ツヤツヤしている。……どんな味すんのかな。いやまて、冷静になれ。これは明日河昴。かつてミミズレースをやろうと思い立ち、俺が苦手なミミズ、それも太った強そうなのをむりくり手のひらに渡してこようとしたアホ。
「……そんなのいらないし」
「あ、傷つくなぁー。本当にいいの?」
「……………………い、いらない」
「あれー? 今少し考えた?」
「うーるさいよ! おっぱい! おっぱいおっぱいおっぱい!」
「恥ずかしい絶叫してないで、少しお散歩しようよ」
「聞けよおっぱい!」
おっぱいは俺の話を聞く余地もなく、自分の顔に手のひらでパタパタ風を当てると、さっさと先を歩き出した。しかたないのでついていく。
「なー奴隷、奴隷」
「なぁに? ご主人様」
「奴隷らしいことしてみせろよ」
「そういうのって、そっちが考えて命令するものじゃないの?」
「……特にないんだよ」
「あー、でも、そうだね。櫂くんは優しいから、思いつかないかな」
「はぁあ? お前どういう思考回路してんの? 優しいやつは奴隷にしたりしないだろ」
「呼び出すなら、自分の家の前にすればいいのに、わざわざ私のほうの家の近くまで来たでしょ」
「え……」
「櫂くんは性格的にそこまで酷いことできないかなと思ってたけど……三年経ってもやっぱり変わってないね」
「え、お前それで奴隷になるとか即答したの?」
昴はちょっとこちらを見て含み笑いをした。
「……まぁちょっと……おっぱいは予想外だったけど。櫂くんも男の子になったんだね」
こいつ……。完全にバカにされてる。
だいたい俺は小学生のころから十分に男の子だった。そのころは俺がそこそこ上品だったのと、お前が女体を保持してなかったから目の前で発露しなかったにすぎない。
「それにさぁ、十分以内って……結構余裕あるし……本当に困らせたいなら櫂くんの自宅前にするか、一分以内とかにすればよかったのに」
「……言われてみればそうだな。次からそうする」
「櫂くんはしないよ」
「するって!」
「しませーん」
「するってのバカ! ケチバカおっぱい!」
「うーん、じゃあ私が奴隷らしく、なにか考えるよ」
「そうだそうだ。その無駄にテストの点のいい頭を使って捻り出せ!」
昴はちょっと考えて、おもむろに俺の手を取り、それからぎゅっと握った。
「……なにこれ」
「あの……て、手を繋いであげる」
大変奴隷らしくなくてけっこうだな……。
「櫂くん、手、固くなったね」
「……はぁー」
力が抜けて、そのまま歩く。こいつの手なんて子どもの頃から何度も握ったことがある。
手は小さくて温かくてやわらかいけど、おっぱいはもっと、この数十倍はやわらかくて温かなはずだ。まったく知らないけど、一般常識的に考えて、そのはずなのだ。
「あ、コンビニ行こう」
歩いていたらコンビニが見えたので、なんとなく入った。店内をぐるりと一周して、昴が新商品のお菓子を指差して「これ、美味しいよ」「こっちはいまいち」だとか聞いてもないのに教えてくれる。
「アイス買う? 私美味しいの知ってるよ」
「俺はいい……」
「あー、櫂くん昔からお腹弱いもんね」
「うーるさいよ……」
なんでいらんことばかり覚えてるんだ。
コンビニでは昴がお菓子を買った。
こいつは昔から飯だの菓子だのをバクバク食うのに太らないという謎の体質だった。でも、チョコを食いすぎて鼻血が出たりしてた。そのまま血だらけでゾンビのフリをしながら追いかけてきた。そういう猛烈なバカだったのに。
「櫂くん」
「なんだよ」
「本当に……キス、しなくていいの?」
「………………い、いらないって」
「そっかぁ、残念」
夜の道をペタペタ歩いた。空には月が出てるが、たまに雲で隠れる。夜風が頬にあたって、少し冷静になってきた。
おっぱいは駄目だけど、キスはいいのか。……いいのか。
え、しておかなくていいんだろうか。
「な、なぁ、……そこまで言うなら……」
「あ、雨かも! そろそろ帰ろっかー」
昴が空を見ながらでかい声でそう言って、こちらを見た。
「あれ、櫂くんなんか言いかけてた?」
「なにも! なんもねえよ!」
この女……わざとやってないか。本当腹立つ。
絶対しない。こんなやつとキスなんて、頼まれでもしなければ絶対にしない。
……そう、向こうから頼むなら考えてやってもいい。