36.ボーナスステージ
昴を探しに行った先で山から滑落したあの日。結論から言うと俺はほぼ無傷だった。
暗くてよく見えなかったが、俺の落ちたところはそこまでの高さもなく、途中木の枝があってクッションになったので、打ち身と擦り傷だけだった。かなり運がよかった。
それでも落下の衝撃で気絶して、そこからのことはあまり覚えていない。
全部慌しくて、映画のチャプターを飛び飛びで見ているみたいだった。うっすら覚えているのは昴が泣いていたこと。親も泣いていたかもしれない。だから俺は自分は死んだのだな、と思った。
入院は検査も含めて三日。あっさり退院。
治りきらなかった擦り傷だけ少し痛い。
母親にはもう少しマシな助けかたがあったろうと、泣きながら叱られた。その通りだと思う。
あのとき、もっと落ち着いて動けていれば、こんな大事にはならなかった。
落ちたあとはすぐに、昴が走って人を呼びにいってくれたらしい。
ようするに俺は家出した幼馴染みを迎えにいって、自分だけ無駄に怪我をして、結局向こうに助けられて帰ってきたのだ。アホすぎる。俺はだいたいいつもそうだ。
父親は一度だけ顔を見にきて、元気そうだとわかるとそのあとは来なかった。母親はそのことに腹を立てていたが、俺はあそこまで焦った顔の父を初めて見たので、腹は立たなかった。たまにそのときの顔を思い出す。
昴は何度か顔を見に来ていて、そのときは当たり障りのない話をした。
彼女になるとかならないとかの話も、家族の話も、学校の話もなにもしなかった。ただ、昔からの幼馴染みが会いにきて、病院の入口の自販機のラインナップだとか、ほんとに他愛のない話をしただけだった。
*
退院の翌日。体は健康だったけれど、なんだか学校に行く気になれなくて、俺は学校を休んだ。
一瞬でなにもかもが変わっていたかもしれない経験は、終わって改めて考えるとじわじわと気持ちを揺さぶった。
もしかしたらあそこであっけなく死んでいたかもしれない。そう思うと、俺の抱えていた悩みなんてすべて小さなものに感じられる。今はいろんなこと、自分や他人への憤りに似た鬱屈が綺麗にスッキリ消えている。
ただ、これも、日が経てばすぐ元に戻る感覚なのかもしれない。
だからもしかしたらもうすぐ消えるだろうこのふわふわした非日常に、俺はもう少し滞在したかったのかもしれない。降って湧いた非日常から日常に復帰する前にワンクッション欲しかった。
これはきっと日常と非日常のはざまに降って湧いたボーナスステージ。特別な休日だ。
平日の午前の河原に人はいなかった。近くに一羽だけ鳩がいた。
あまりにのどかすぎて、今、世界にはこの鳩と俺以外誰もいないんじゃないかと思えるほどだった。
「櫂くん」
声が聞こえて目を開ける。
俺の特別な休日に誰かがやってきた。それは、ぼんやりとずっと考えていた相手だった。
「櫂くん、探したよお。そんなフラフラ出歩いて大丈夫なの?」
「退院してるんだからいいだろ。俺は健康だ」
「みたいだねぇ」
「あれ、お前学校どうしたの?」
「えへへ……今日はサボり。櫂くん昨日退院したって聞いたからさ。ちゃんと仮病して根回しして抜けてきたよ」
そう言って、なぜかお土産に缶ジュースを渡してくる。
俺のボーナスステージに訪ねてきた昴は妙にリアリティがなく、自分の願望の作り出した幻のようにも感じられた。
「いやー、いろんな人にめちゃくちゃ怒られたよ。櫂くんは?」
「俺は怪我人だからそこはそっちよりマイルドだったかもな」
起き上がって、河原に向かって石を投げる。
石は水面で、いち、に、さん、と跳ねてぽちゃんと沈んだ。
見ていた昴が足元の石を拾い「えい」と可愛い声を上げて投げた。
いち、に、さん、し、ご、ぽちゃん。
俺より二回多く跳ねた石は、ぽちゃんと沈む。いつも、昔からなにかにつけて、なんでもこうなんだよな。
起こったことはまったくよくはない最低の事態だったが、俺はリセットされたような清々しい気持ちでいたし、昴もなにかふっきれたようにほがらかだった。
「櫂くんのお医者さん……ヒゲすごかったね」
「あぁ……モミアゲと見事に繋がってたな……」
「たまにフォフォッて笑ってた」
「バルタン星人かもしれんな……」
「そういえば顔も少し似てたね」
少し遠くで水面が小さく跳ねて、俺も昴もなんとなしにそちらを見て黙った。
「あのね、櫂くん、私、優等生やめることにしたー」
「……そうか」
「お母さんには悪いけど、好きに生きることにしたよー」
「うん」
「いや、ほんっとーに……櫂くん見てたら、人間いつ死んじゃうかわからないなって思ったから……」
「そうかよ……死ななかったけどな!」
「それは本当によかったよ。櫂くんがしぶとくてよかった。ありがとうね」
「どういたしまして」
「私スマホの充電切れてたから下まで走って、あのときが一番こわかったな……」
「……ごめんな」
「私ね……走ってるときずっと、櫂くんがいなくなった世界を想像してたんだけど……」
「俺も入院中、想像してみたよ」
「どうだった?」
「わりと……普通にまわってた」
「そうなのかなぁ……私は……ぜんぜん想像できなかった。中学のときと似たようなはずなのに……今はもう浮かべようとしても変な感じにしかならなくて……」
秋の風がそよそよと流れていた。
川の音もする。平和な平日の空気。
学校や会社がみんな動いている中、ぽつんと外れてここにいる。
昴は川を眺めていたが、息を吐いて、こちらを見て笑った。
「櫂くん」
「うん」
「櫂くん、好きだよ」
「……うん」
そう告げた昴は満足そうにへへっと笑って、また水面を見た。
「私、なんかずっと焦ってたんだ。早く彼女にならないとって……でも、もうどうでもよくなっちゃった」
「……うん」
「だってさ、櫂くんて……私のこと、すっごい好きだよね」
「なんだそれ」
「なんか、ストンてわかったんだ……。私、櫂くんの性格よく知ってるのに……なんで今まで気づかなかったんだろう」
「……」
「櫂くん私のこと、めちゃくちゃ好きだよね」
「……」
「それに、あんなとこまで迎えにきて……ためらいなく自分より私の命を優先させられるのも、相当……ものすんごく、めちゃくちゃハイパー超絶大好きじゃないと……できないかなーって。櫂くん、相当私のこと好きなんだなぁーって」
「あそう……」
「あれ? 否定しないんだ」
「ふん」
昴はくすくす笑った。
「それで、結局彼女にはしてもらえないのかな?」
「……お前が俺より全部優ってるからな……クソカッコ悪いじゃん」
「え、そうかな」
「べつに勉強とか、運動とか、そういうわかりやすいことじゃなくても……なんかひとつくらいなにか見つけないと……対等になれない気がする」
付き合って自分たちのペースが変わらなかったとしても、周囲の対応は変わるだろう。自分の中の卑屈さは最低限退治しておいたほうがいい。でないと、劣等感が要らぬ波乱を生むことになる。今の俺にはまだその予感がある。そこがクリアできたときが、最適なタイミングじゃないかと思っている。
「俺の自分勝手な都合で悪いが……もう少しだけ待て」
「櫂くんさぁ、慎重すぎるよ……慎重さと完璧さを求めて結局何も動かない人、親戚でいるから知ってる」
「お前がせっかちすぎるんだよ。俺はなんでもかんでも考えなしにやってどれも中途半端ですぐ終わる人を親戚で知ってる」
「いやぁ、恋愛に関しては慎重すぎると逃げられて終わりだよ」
「逃げんの?」
「……私は絶対逃げないけど」
「うん。俺はまだ当分生きるつもりだから……焦って腐らせたくない。慎重にいく」
「うーん……まぁいいか。……そんなにかからないような気がするし」
「……」
「それに……どうせ櫂くん、私以外の彼女作る気ないでしょ」
「未来永劫ないな」
「……」
「なんだよ」
「じ、じゃあいいよぉ。……いくらでも待ってる」
「うん」
二人、小さく笑った。
川は水面がきらきらしている。のどかな河原で話していると、いつの間にか小学校時代の幻影は消えていることに気づいた。もう、この新しい明日河昴は俺の中にしっかりと定着している。
「ねぇ櫂くん、待っててあげてもいいんだけどさー」
「うん?」
「約束に……キスしてよ」
「……えっ」
「今度は櫂くんからね!」
「なんで既に承諾したことになってるんだよ!」
「もうしてもらうことになった! してくれなきゃ待たない、速攻で五人と結婚する!」
「アクティブすぎんだろ!」
「……して欲しい。お願い」
「わ、わかったよ……」
この状況でのこのお願いを断れる人間はあまりいないだろう。
向かい合って座る。軽くおでこをぶつけてから見つめ合った。
「昴、お前……顔、なんとかならない?」
「ど、どういう意味?」
「あまり可愛いと……緊張するから、変な顔しててくれ」
「その言いかた、素直に喜べないし、私は変な顔でキスされたくない」
そう言いながら頬を赤くして、さらに可愛い顔でぎゅっと目をつぶった。
なんだこれ。ヤバい。ゲロ吐きそう。
こんなもん、ある程度勢いがないとそうそうできそうにない。はいどうぞのこの状況でしれっとやれとか恥ずかしすぎる。そんな余裕があるのは歴戦の猛者。
しかし、これは過去に昴がクリアしたミッションでもある。自分だけできないのは……とてもカッコ悪い。
大きく息を吸った。
昴はいつも、俺が少しためらったり、臆したりするようなことを笑いながらやってのけていた。
焦ってどんどん先へ行こうとする。
器用でせっかちで、なんでもできる幼馴染み。
俺はたぶんいつだって、遅れてそのうしろ姿を追いかけるように歩いていた。
だからこれも、追いかけるように。
俺は慎重に、その瞬間を越えた。




