32.文化祭 二日目
文化祭、二日目もぼんやりしていた。
たまに忙しそうにしている昴を目にした。
一生懸命な感じだが、相変わらず、あまり楽しそうには見えなかった。
正午をまわったころだった。
廊下で突然ミニスカメイドに手を取られて、引っ張られた。
すぐ近くの、荷物置きになっている空き教室にひっぱりこまれた。扉をバンと乱暴に閉めた昴は、両手を壁に手を着いて俺を中に封じ込めた。
「昴、お前顔色悪いぞ」
「大丈夫」
「いや、帰ったほうがいいと思うぞ」
「まだ、このあと軽音部があるから……」
少しふらついているし、顔色も悪い。
「そんなときにこんなとこいていいのかよ……」
昴はその問いには答えず、青い顔で絞り出すように言った。
「櫂くん、昨日、星島先輩とずっとまわってたの?」
「ずっとじゃないけど……いくつか」
「……そう」
「……」
「櫂くん、やっぱり私と付き合って欲しい」
「……」
なんでまたこんなタイミングで、とは思ったが、今までにない真剣な顔だったので、茶化すことができなかった。
「なんで」
「付き合ってたら、櫂くんはあんなふうに星島先輩と話したりできないし……」
昴の焦点が話をするなという、思ったより極端なポイントに絞られていたからびっくりした。
「お前と付き合ってたら、話すのも駄目なのか?」
「そうだよ! ほかの人と話したら浮気になるから!」
「……その基準だとお前だって誰とも男と話せなくなるけど……無理だろ。話しかけられても無視すんのか?」
「私のはただのクラスメイトとか知り合いとかだもん!」
「俺だって先輩はただの知り合いだろ。自分はよくて、俺だけ自分が信用できないから禁止するってことか?」
「……だって! 私がいろいろがんばってる間に……櫂くんが……」
「俺が?」
「とられちゃう……」
「……なにをそんなに……妄想たくましいな……」
「櫂くんはズルいから……」
「……なんでだよ」
「櫂くんはいつも、なんだかんだ、私がすごくがんばってやってることを……自然に超えるんだよ」
「そんなことないだろ」
「ううん。櫂くんは私とはやりかたが違うけど……家族関係だって、きちんと正面からぶつかったから、今悪くないわけだし……。学校も、私みたいに優等生のふりなんてしなくても、どんどんそのままの櫂くんを認めてくれる人が増えていってる」
「……」
「そのうち、可愛い彼女だってできちゃうよ……」
昴は唇を噛んで悔しそうな顔をした。
自分でも頭に血が上って、冷静さが取り戻せない感じになっているんだろう。興奮で息が荒い。
「櫂くん、付き合ってよ……彼氏になって、私といつも一緒にいてよ!」
「お前、彼氏になったらなんでも言うこと聞かせられるもんだと思ってないか?」
「なんでもじゃないかもしれないけど……彼氏なら……私のものでしょ?!」
「俺は……今のお前と付き合う気はない。付き合っても、絶対うまくいかない」
「うまくいくようにするって!」
「無理だって! 無理やりうまくいくようにしようとする時点で、もうそれはうまくいってないんだよ!」
昴はずっと焦って、大きな変化を要求しているように見えた。
付き合ったらきっと幼馴染みの延長ではなく、模範的な恋人として振る舞うことを求められるだろう。ここ最近の態度を見ていてもそれは確実だ。
俺はそのすべてには対応できるとは思えない。無理をして疲れて、それに対してぞんざいに対応するようになり、衝突する。そして破綻して完全に縁が切れるだけだろう。
そう思うのは両親を見ているからだ。
母は一時、夫婦関係を変えようとやっきになっていた。夫婦での時間を要求し、愛情と優しさを目に見える形で要求した。変化が見られないと、それに怒って状況は悪化した。
母の求める変化はどれも、よくできた夫ならば対応できる類のものだったが、父にとっては少しばかり細かく、行き過ぎていた。こうなるともう、相手を変えたほうが早い。
父もまったく対応する気がないわけではなかった。けれど、毎日の生活のことだ。話し合った直後に軽い変化は見られても、根本が変わらない限りそれは続かない。父は悪人ではなかったが、きちんとした善き夫、善き父の素養がない人間だった。
母ははたから見てもからまわっていたし、うまくいかないことで余計に高い理想を追っていた。あのころの母は父を真っ当な夫婦の型にはめようと必死だった。
喧嘩が続き、やがて父は疲れてストレスから家に寄り付かなくなり、最後には浮気をして完全に終わった。これが我が家の顛末だ。世の中にはなんで結婚したんだろうと思うようなアホな夫婦がたくさんいる。
自分で言うのもなんだが、俺はわりと刹那的なほうだ。ほかの女に言われたら、絶対ここまで考えないし、すぐ終わるかもな、と思いつつもほいほい付き合っていただろう。
承諾できないのは、昴との関係がそれなりに大事だからだ。我ながら矛盾していると思うが、絶対にうまくいかないものは承諾できない。
もし昴がもういいやと言って、ほかの男と付き合うとしても、腐った男女の醜い最後をほかならぬ昴と経験するよりはマシだと思っていた。あんなのは、絶対にごめんだ。
俺は一丁前に彼女が欲しい気持ちがある。性的なものにだって興味はある。
けれど、それ以上に壊したくないものがあった。
幼い日に教室に置いた忘れものをずっと気にするような、こんなくだらないこだわりの枷が外れないのは、雲井の言うように、俺はどこか異常なのかもしれない。
だけど、きっとみんなそんなもんだ。
普通にしてても、どこかひとつくらいは異常なのだ。そうも思う。
関係は無理やり変えようとすれば破綻する。そして醜く姿を変えていく。俺はそれを見ている。
安易に試して、それが取り返しのつかないものへと変わっていくのだけは避けたかった。
しかし、そんなのは頭の中のモヤモヤした嫌な予感でしかなくて、きちんと言語化もされていなかった。そんな直感に基づいたトラウマのような推測を昴に伝えられるはずもない。昴は昴で、どんどん直情的になっていき、表面的な承諾を要求してきていた。
付き合うというゴールにたどり着けばすべてが解決して、なにもかもうまくいくと信じてるような、そんなかたくなな思い込みに支配されている。
そして俺は自分の持つ、おそらく一般的ではない感覚を伝える言葉をずっと持っていなかった。間違って伝わると結局壊れるから、なにも言えなかった。
それでも、黙って拒絶だけをしていることで、関係は膠着ではなく悪化していっている。こうなると拙くても伝えたほうがいい気はした。
脳のどこにも置いていない言葉を探す。
たぶんきっと、簡単な言葉がなにかあるはずなんだろう。それは考えすぎて煮詰まった頭からは出てこない。
「俺は……昴のことは……」
「じゃあいい」
「えっ」
「もう諦める」
「もうちょっと……説明したいんだけど」
「聞きたくない」
「いや……でも」
「なにを聞こうが、結果は変わらないんでしょ」
「……」
「もう行かなくちゃ」
昴は息を吐き出すように力なくそう言って、さっさと歩き出した。
その背中になにか言おうとして言葉を飲み込んだ。
今なにを言っても言葉はあまり通じない気がした。自分の頭を整理するためにも、少し距離を置いたほうがいいかもしれないと思った。
しばらく廊下でひとり、ぼんやりしていると、雲井が寄ってきた。
「おっ、おっ、木嶋! ちょうどよかった! 明日河さん見にいこう」
「えっ、俺はいいよ」
ついさっきなんやかんやあった直後にのほほんと見にいくのも変な感じだ。しかし、力強い変態によって体育館に連行される。
プログラムの紙を見たが、順番がきても昴は姿を見せなかった。
「あれ、……明日河さんいないな」
「うん」
雲井と顔を見合わせた。
演奏が終わった後、昴が参加するはずだったバンドのメンバーを見かけたので、聞いてみた。
「昴ちゃん、寝不足でかなり疲れているみたいだったんだよね。座り込んじゃってて……直前に保健室行くことになった」
「……え、それでそのあとどうしたの?」
「うちらも自分の番が近くて……急遽ボーカルいなくなったから、そっちどうするかでわちゃわちゃしてて……そのあとはまだわかんない」
「そりゃそうだよな……わかった」
保健室を訪ねたが、昴はもう帰ったあとだった。
校門を出て、ポケットからスマホを出し、手の中で数秒見つめたけれど、結局そのまましまった。
その次の日のことだった。
昴がひとりで家出した。




