28.夜の散歩
休日前の夜はだいたいだらしない夜更かしをしているものだ。
しかし、その晩に限ってはたまたま早めに寝ついていた。
とろとろとした眠りに入ったばかりの一番気持ちのいいタイミングにスマホ着信。発信者は明日河昴。
「櫂くん! 私だよ」
「知ってるよ……眠い」
「櫂くん、散歩行こう」
「いやだ。眠い……」
「明日休みなんだし、いいじゃない」
「たのむ……寝かせてくれ……」
「あのね、もう櫂くんちの前にいるよ」
「は!? 悪霊かよ!」
がばりと跳ね起きた。
言われてみれば電話の向こうは外のような雑音混じりだった。
「このバカ! アホ! 時間考えろ!」
「櫂くん、出てくるの早かったね」
慌てて外に出ると薄手のパーカーにショートパンツ、足丸出し。変質者が好きそうなスタイルで昴がそこに立っていた。呆れてものも言えない。
「散歩なんて昼間でいいだろ! 夜中にいかがわしい格好で出歩くのよせよ!」
「いかがわしいって心外な……明日の昼は部活行かないとだし……夜でも櫂くんがいればいいじゃない?」
「……じゃあ電話は家からかけろよ!」
「家からかけたら出てきてくれないかなーと思って……はは」
その通りだったので黙ってにらんだ。
昴はくすくす笑った。
「……でもやっぱり櫂くんは出てきてくれたと思う」
「眠いから出ない! 睡眠第一!」
「だってさ、私のお願いチケット、まるごと残ってたじゃない?」
「あぁ……早く捨てろ……」
「あれ、なんでかなーって、思い出してたんだけど……櫂くん、たいていのお願いは聞いてくれてたから……チケット使う必要なかったんだよね」
昴が歩こうとして、立ち止まる。
「あっ、準備準備」と言って俺の手を取り、かっちりと自分の手と繋いだ。
「よし、準備完了。行こう櫂くん!」
準備とは手繋ぎのことだったのか。
こんな時間でもぽつぽつ電気の点いてる家や部屋はあった。どこかの家では誰かが風呂を使っているらしく、通りすがりに風呂の匂いがした。
「この匂い……お風呂入りたくなるな……」
「お前昔も夕方に人んちからカレーの匂いがするたびカレー食いたいって毎回言ってたな……」
「櫂くんだって言ってたよー」
言ってたかもしれない……。
昼と同じはずなのに、夜の足音は妙に響く気がする。
夜には夜の音がする。夜の匂いもする。
夜の世界にはゆるい夜の空気が流れている。
「実はさー、小学生のころ……やりたかったことのひとつなんだ」
「なにが?」
「夜の散歩……っていうか、夜にも櫂くんと遊びたかった」
「あぁ」
さすがに夜は会っていなかった。
「俺もそれは思ってた」
「え……? うん!」
「なにか言うたびイケメンに口説かれた乙女みたいな反応するのやめろよ。恥ずかしい!」
「恥ずかしいの? うれしくない?」
「うれしくねえよ! 俺はきちんと己を知ってるんだよ! 恥ずかしい!」
「ごめん。ときめいてしまった」
少し歩くと前方にコンビニの看板の灯りが見えた。
「あのねー、コンビニでお菓子買って、夜中に歩道橋の上で食べたりしたかった」
しゃべりながら、前方のコンビニに、そのままの流れで入店した。
昴はお菓子のコーナーに行き、チョコレート、ポッキー、クッキー、順に眺めてからしゃがみこんだ。
「あー、そのころのイメージだとこっちかな」
お値段が安めの、駄菓子をひとつ手に取って見せてくる。
「小学生だとそうだな」
昴がいくつか駄菓子を買い込んで歩道橋に行った。
上まで登ったとき昴がハッと気づいたようにこちらを見た。
「あっ、この歩道橋……!」
「えっ、なんだどうした」
「前世の記憶が……ひゃあぁ〜……吾輩ここで、初めてキスしっ……ひぅぅ……」
「突然照れ出すのやめろよ!」
「私が照れると櫂くんもつられて照れてるもんね」
「ついでみたいに冷静に観察するのもやめろよ……」
「櫂くん、月が出てるよ」
言われて昴の指差すほうを見ると薄い雲の間に月と星が出ていた。
しばらくそれを眺めてから昴を見ると、俺を見ていた。
「なんだよ……」
「なんだろね?」
「月を見なさいよ」
「月よりも櫂くん見てたい」
「星も出てるぞ。見なさい」
昴が笑いをこらえるような顔で、わざとみたいに顔を近づけた。
「見んな!」
半笑いでじっと見てくるので、両手で頭をつかんで強引に星空に向けた。昴がぎゃあーとふざけた笑い声をあげる。
「月、見える見える! いやぁ、すごい月だなー!」
「情感がこもってない! やり直し!」
「やぁ、壮絶に美しい月だ! あんなものは僕らの星にはなかったぞ!」
「どこの星の住人だ。もういい!」
それからなんとなく、また二人黙って欄干から月と星を見た。ふと昴の顔を見ると今度は空を見ていた。
白い横顔は夜に映えて綺麗だった。
「あれ? ……櫂くん、月見なよ」
昴はどこか恥ずかしそうに言った。
駄菓子の入った袋は結局開けられず、夜の風に揺れてカサカサ音を立てていた。
「帰ろうかー。眠くなってきた。櫂くんこれあげる」
駄菓子の袋を渡される。また子どものおつかいのお駄賃みたいなの渡された。
歩道橋を降りて、帰り道をてくてく歩く。
「わ、」
急に自転車が来たので昴の腹に手をまわして歩行を止めた。
なんでこいつこんなに落ち着きがないんだろ。よく言えば好奇心が強くてアクティブだが、悪くいうと慎重さが足りない。
「あ、ありがとう」
「だから無駄に照れるのよせよ……」
「だってさぁ……むっちゃくちゃドキドキするんだよ」
「こんなん昔からよく……」
「昔とは違うもん……」
昔とは違う。
それはもう、疑いようもなくそうだ。
古い記憶、そこに鮮明な新しい記憶が上書きされて、常にゆっくりと更新されていっている。それは、今の状態ではそんなに嫌なものではなかった。
信号待ちで、ほどけていた手をこちらから繋ぎ直す。
少し驚いたのか一瞬だけびくりと体を揺らした昴が、結局こちらを見ないまま、ぎゅっと固く握り返してきた。




