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21.もうすぐ、夏休みが終わる


 夏休みも終わりのころ、父親と会っていた。

 とはいっても特に話すことはない。

 思春期の入口のタイミングであれこれあって、俺は少し変わったし、その後しばらく会わないうちに以前どんなふうに話していたかも忘れてしまった。


「櫂くん、今は髪の毛金色なんだね」


「そうだよ」


「うんうん。なかなか似合ってるよ。学校は楽しい?」


「まあまあ」


「そうかぁ」


 この、いつもヘラヘラした父親が本当に俺に会いたいと思っているかどうかはわからない。

 離婚後、月イチで会っていいことになっていた。たぶん、その権利があるのに使わない、会わないという選択をするのが、薄情に感じられるから会っているのだろう。そらぞらしい近況報告の会話にはそんな惰性に似た感覚と、なんとなくの気まずさを感じる。

 立派な父親なんかじゃまったくないくせに、そんなところだけ流されるようになぁなぁにこなそうとするところが最高に嫌いだ。


 昔からなにを考えてるのかわからないぬるっとした父親だった。

 離婚の原因はハッキリとは聞かされていないが、おそらく父の浮気だろう。

 激しい気性の母ではなく、この、どこかのほほんとした温和な父のほうに原因があるというのは、最初は俺には意外だった。そんな主体性はないだろうと心の底では馬鹿にもしていたのだ。


 平和だった家庭が壊れたのはどっちもどっちだったのかもしれない。

 けれど、俺はずっと母親のほうに怒りをぶつけてきた。きっと、糠に釘のようなこの男に、なにも伝わる気がしなかったからだ。

 昔から、優しくしてはくれたけれど、きちんと打ち解けてはいなかった。仲が悪いわけではないが、ずっと、ほんの少しよそよそしさが残っている気がした。

 数少ない海や山に連れていってくれた思い出の中でも、俺はこの人に対して、母よりは距離感を持って接していた気がする。ただ、どこもそんなものだと思っていた。

 それに、父に関してはそれは俺に限らない。

 父は誰かと打ち解けたことがあるんだろうか。そう思わされる人だった。いつだって、誰が相手でも本音で話しているように見えたことは一度もない。今現在どうしているのか知らないが、浮気相手の女と一緒に住んでいるような気がしないのもきっとそのせいだ。


 父は裕福な家の生まれで、母に言わせると苦労を知らない人間だった。ずっと恵まれた環境にいて、進学後親戚のツテで就職をした。

 恵まれた人間には恵まれた人間特有の鬱屈があるのかもしれない。もしかしたらあの、野良犬のような母と結婚したことさえも彼の鬱屈の一種だったのかもしれない。


 俺は幼いころからずっと、当たり前によくある平和な家庭で育っていると思い込んで過ごしてきた。今となってはその平和がどこかぎこちない、かりそめの危ういものだったのははっきりわかるし、その原因がこの父親なこともなんとなくわかる。彼はきっと『普通』がうまくやれない、世間に適応できないタイプだということも。


 そのことは、落ち着いてからずっと考えてたどり着いた自分なりの回答だけれど、それを渦中に気がついていても、俺はやはり怒りを爆発させて母親にぶつけていただろう。

 だからそれを正面から受け止めた母には、少しだけ感謝をしている。


 レストランで一緒に飯を食べて、コーヒーを一杯飲んで解散した。ずっと無言だったわけではないのに、この時間になにを話したかまるで覚えていない。読み終わった途端に内容を忘れてしまう本のような人だ。


 自分はあの人に会いたかったのだろうか。

 別れてからそう考える。なんとなく、会っておいたほうがいいかなくらいの気持ちしかなかった。それは、会いたいとは違う。会いたいというのは、もう少し、相手との空気感に焦がれる気持ちだ。


 ふいに明日河昴の顔が浮かんだ。

 スマホを取り出して、衝動的に電話をかける。


「櫂くん!」


 通話が繋がるなり名前を叫ばれて軽く笑った。


「櫂くん櫂くん、どうしたの? 私だよ!」


 俺なこともお前なことも、最初からわかっている。本当にこいつは……アホだ。


「もうすぐ夏休み、終わっちゃうね……」


「べつに、俺はそろそろ退屈だったからいいかな」


「へえ、櫂くんは高校結構楽しいの?」


「特別楽しくはないけど……家にいても楽しくもないし」


「そっかあ……まぁそうかもね。学校の日があるから休みの日がうれしいしね」


 そこで会話が一度途切れた。

 俺は用事があったわけではないので、特に話題を持っていなかった。隣にいるときは無言でも構わないが、電話ではそうもいかない。


「昴、なんかしゃべって」


「え、なんかってなんだ」


「なんでもいいんだけど……」


 身内相手に妙な緊張と疲れを覚えた。だからなんとなく、こいつの声が聞きたくなったのだ。内容はなんでもいい。


「えっと、お姉ちゃんがトイレのドアぶちやぶって、すっごく開放的なトイレになったー」


「……それはシャレにもならんな」


「大丈夫だよ。トイレふたつあるから」


 そういう問題だろうか。


「あのさ、高校生になって、初めて櫂くんに話しかけたときさ、彼女いるかって聞いたら櫂くんいらねえよって吐き捨てたでしょう」


「うん」


「あれ、昔の櫂くんとは明らかに違う、ガラの悪い返答なんだけど……なんか私、あのときお姉ちゃん思い出して……笑っちゃったんだよね」


「……笑われて、馬鹿にされたと思ったけど」


「ううん。お姉ちゃんも、口は悪くなったけど……根は変わってなかったから、櫂くんもきっとそうだと思ったよ」


 俺は元から昴の姉ちゃんほど優等生ではないし、あそこまで弾けたふてくされかたもしてない。昴にとっては大したインパクトじゃなかったのかもしれない。あのピンクのモヒカンに対抗するインパクトは全裸で登校するくらいしないと得られなさそうだ。


「私、入学式で櫂くんのこと、すぐ気づいたんだ。最初は髪、黒かったね」


「俺は……気づかなかった」


 ただ、存在は認識した。

 昴の言う通り、高校での再会は入学式のときだった。

 入学式のあとの体育館、そこからの移動中、こちらをジロジロ見ている女がいた。でも最初は昴だと思わなかった。やたら顔のいいやつがいるな、俺のことが気になるんだろうか、などとおめでたいことを適当に思っていた。それくらい彼女の印象は変わっていた。


 明日河昴だと気づいたのは、彼女が美少女の優等生として評判になり、その名前をこぼれ聞いてから、やっとだった。

 改めて見つめた。言われてみれば顔の造形はそんな感じだった。

 けれど、俺の頭の中の昴のイメージは当時の動きや性格やしゃべりかたを融合したぼんやりしたもので、あのころ毎日会っていても顔なんてじっくり見ていなかった。造形は似ているなと思っても、印象がなかなか結びつかなかった。


 そのまま継続してちらちら観察するうちに、こいつは俺とはべつの人種だと思った。優等生、パリピ、陽キャ、リア充、そんな学校社会のハイカーストを揶揄して言うような数々の形容詞がぴったりのいけすかないやつ。そしてそいつに俺の昴を奪われたような気持ちになった。


 無邪気で平和な小学生時代から、大人の都合で一転して暗黒の中学時代に突き落とされたこともあり、俺は昴といたあのころを、そして当時の昴を異様に特別視しているところもあった。

 あのころ、ずっと夏休みが終わらなければいいのにと思っていたのは昴がいたからだ。


 時は流れた。

 きっと、俺だけがまだずっと、あの夏休みにいる。




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