2.おっぱいは失敗
なりゆきで明日河昴が俺の奴隷になった。
平然と承諾されたそれに、あとからまた腹が立ってきた。
完全になめられてる。なんで俺がこんな妙な遊びに付き合わされるはめになっているんだ。俺はあいつと関わり合いにはならずに過ごそうと思っていたのに。向こうのペースに呑まれたようで本当腹立つ。
しかし、ちょっと嫌な命令でもすれば、さっさと音をあげるだろう。腹立ち紛れにいやがらせをして向こうからさっさと辞めさせよう。
授業が終わってから、昴の教室を訪ねた。
クラスは知っていたが、訪ねるのは初めてだ。
昴は数人の生徒に囲まれて、どうやら勉強のわからないところを教えてあげているようだった。優等生丸出しだ。周りも美少女で優等生の昴さんすごいや! みたいなキラキラした顔で彼女を見つめ囲んでいる。見ているだけで忌々しい空間だ。
こんなところに金髪の劣等生が呼びに来たら普通はさぞかし嫌だろうと思う。ここはオラついた暴力的な声で呼ぶべきか、それとも最高にヤバい顔をしながら「どんぐり食べる?」とか言って乗り込むべきだろうか。思いを巡らす。
しかし彼女は俺に気がつくとなぜかぱぁっと表情を明るくさせた。
周りのクラスメイトに「私、行くね」と言ってすぐに鞄を持ってこちらへ駆けてきた。
「櫂くん来てくれたんだね!」
「……用事があって」
「うん。用事! 私にだよね? ね?」
やたらとペタペタ俺の肩を触りながら、えへへと笑って言うので、絶妙に張り合いのない気持ちで頷いた。
俺は昴の背中を押し廊下を出て、非常階段へと連れ出した。
「なにか話でもあるの? どうぞ!」
「あぁ、ご主人様の特権を使わせてもらおうと思ってな……」
そう、俺はご主人様だ。王様だ。殿だ。えらいのだ。その俺が命令することは絶対なのだ。
「え、あぁー、そっか! なになに? なにする?」
なんの緊張感も警戒心もなく顔を近づけてきた昴から目を逸らし、とっておきの命令を悠然と言い放つ。
「おっぱいを、触らせろ」
なるべく威厳を込めた口調で言ったつもりだったが、しょせんは「おっぱい」どうしたって響きがぽわんと、あるいはたゆんとしている。格好つけようが渋い発音をしようが「おっぱい」は「おっぱい」でしかない。
昴の口がわかりやすくへの字になった。
そんな人間らしい表情もできるんじゃないか。ちょっとホッとした。ここまで異常なことが嫌がられないというある意味恐怖の事態だったので、ちゃんと嫌がってもらえたと、少し安心してしまった。
安心はしたが、おっぱいには普通に触りたかった。欲しかった人間らしい反応をそこでよこされるのは正直困る。俺はこの命令に関しては、断られて逃げられればよし、触らせてくれるならそれもまた、たいへんよしというスタンスでのぞんでいたが……やはり人間、触れるものなら触りたかった。
昴は「うーん」とうなりながら小首をかしげて上目で俺を見た。なかなか可愛い仕草だったが、それはどうでもいい。
昴は奴隷になるのは即了承したくせにおっぱいはやけに長考しやがる。
おっぱいくらい、いいじゃないか! 減るもんでなし。
そんなことを言うとご主人様の威厳がなくなるから言わないけれど、焦れる。
昴は唐突に「あっ、そうだ」と言いながら自分の鞄をゴソゴソ探り始めた。
「あのね、私、きみがくれたチケット持ってるんだよね」
「えっ」
昴が取り出したプラスチックのケースにはメモ帳が入っていた。
とても汚い字で「なんでもお願いきくチケット」と書いてあるそれには見覚えがある。俺と昴が小学五年生のころ誕生日に送りあったものだ。
恐ろしいことに「木嶋櫂」の署名と「未来永ごう有効」とかまで書いてある。
「なんでそんなもん持ち歩いてんだよ……」
「え、私の宝物で……大事なお守りだもん。このチケットを一枚つかって、今の……おっぱいの要求の取り消しを要求するね」
「ぐっ……」
「いいかな?」
「そ、そんなことに、大事な一枚を? 本当にいいのか?」
「私は未使用だったからこれ使ってもまだ四十九枚あるし、使います。だめ?」
四十九枚もあるの……?
俺はもう一枚も持ってないのに……?
しかし、俺は数年前、数々のお願いを……変な踊りをしろとか、下敷きで五分間顔を煽げとか、そんなものをこのチケットで全部聞いてもらった覚えがある。ここでこれを聞かないのはさすがに男じゃない。
人間、諦めも時には必要。さよならおっぱい。
「じゃあいい……諦めす……」
思ったより落胆が大きく、悲しいまでに語尾が消えそうにかすれてしまった。
「あぁ、櫂くん……すごいしょんぼりしちゃった……」
「してない! 人間はおっぱいくらいで落ち込まない!」
「そんな主語まで大きくして……期待に応えられなくてごめんね……ほかでがんばるから!」
「俺もう帰る……」
ガックリして肩を落として言うとなぜだか昴が頷いた。
「うん、帰ろう」
と言ってニコニコ笑いながら腕まで絡めてくる。
「なんでついてくんだよ……」
「私、櫂くんの奴隷だもん。一緒に帰るのは当然だと思うな」
「命令却下しておいてよく言うわ……もうお前クビな」
「やだやだ! 奴隷やる!」
「俺の知ってる奴隷とノリが違うんだよ……!」
「奴隷にノリとかあるの? 櫂くん、そんなこと知ってるの? ……まさか、ほかにもいたの?」
「そんなもんいるか!」
「よかった……」
なにがいいのかまったくわからない。
「ねーねー櫂くん、確認だけど……」
「なんだよ」
「櫂くんの奴隷はこれからも私だけ……だよね?」
「ゲフ」
「私だけだよね?」
昴が妙に真剣な顔で睨んでくる。この人本当に変態だったのか。
「……俺はそういう悪趣味なコレクションは持ってねえ」
ひとりいる時点で立派に悪趣味だが、そこは棚上げした。
「ならいいけど……ほかに作らないで欲しいな……」
どうやったらそんなもんがほかに作れるというのか……。彼女すら作れてないのに……。
「明日河さん、今帰りかい?」
下駄箱の手前あたりでスッキリした顔のイケメンが昴に声をかけてきた。見るからにキザな、白タイツで口に薔薇とか咥えてそうな男だ。この小綺麗さは一部の女子にはモテそうだが、個人的にはいけすかないので嫌いなタイプだ。
薔薇白タイツは俺の存在を華麗に無視して、昴に向かって小さく手を振って、にこっと笑った。ムカついたので、ものすごい笑顔で手をブンブン振り返してやったが、それもスルーされた。
「明日河さん、ちょっといいかな」
「あ、はい……」
薔薇タイツは髪をさっとかきあげて、昴の目の前に立った。もしかして俺のこと、見えていないのかな。変な顔をして目の前に顔をぴょこぴょこカットインさせたけれど、相手のスルー力もなかなか強かった。
靴のラインの色で上級生なのはわかったので、やりすぎるのもなんだ。途中で自己主張を諦めて廊下の端に寄って苦々しい顔で観察していた。
「今週末はどうかな? オペラのコンサートチケットがあるんだ」
「ごめんなさい」
「あ、都合悪かった?」
「いいえ、先輩。私、あの人の奴隷なんです」
昴が俺を指差して、さらりと言い放つ。
薔薇タイツ先輩がドン引きして笑顔のまま固まった。俺も一緒になってドン引いた。
「だからごめんなさい!」
すごくいい姿勢でぱっと頭を下げた昴が俺のところに小走りで戻ってくる。
うわー! 変態が来た! 走ってきた!
素直すぎる感想が頭を駆け巡り、思わず後ずさった。
「櫂くん行こう!」
昴はそう言ってなぜかまた俺の腕に自分の腕をギュッと絡めてくる。なにか言おうとしたけれど、胸がちょっとあたったのでその感触を全身全霊で味わうために黙った。
だってそれ以外は、人生において些末なことだから。