19.あと五センチ
またくだらないからかいをされて、腹立ち紛れに承諾したそれをうながすよう、俺は正面から昴を睨みつけた。
「えーと、いつするの?」
「もちろん今」
昴はあたりをきょろきょろ見まわした。歩道橋の上。地上の遠くのほうには人は歩いているがここはほかに誰もいなかった。
昴は俺の顔を見て、大きな息をひとつ吐いた。
「えーと、櫂くん、目、閉じない?」
「……閉じない方針で」
「うーん、しょうがないなぁ」
少し屈んだ俺と、少し背伸びをした昴のおでこが、先にこつんと触れた。
視線が至近距離で合う。
そして、ほんの少しずつ、さらに近づく。
近づいて、あと五センチくらいの場所で、止まった。そのまま動かない。
「あれ?」
昴がすっとんきょうな声をあげて、顔を離した。
両手でぱしぱしと自分の頬を軽く叩き出す。
「なんだよ」
「あの……うーん」
「うん」
「やっぱり、できない……かも」
「……なんで?」
「なんでだろ。なんか……できると思ってたんだけど……心臓が……うう、櫂くん、してくれない?」
「やだ。してもらう」
「わ、わかったよう」
昴が頷いて、また唇が近づいた。
あと、五センチくらいの場所で止まる。近づくと妙な緊張感が生まれる。しようとしていたはずなのに、触れないように気をつけているような。
そこより近づくでもなく、遠ざかるでもなく、吐く息がかからないように息を潜めるような時間が流れた。
何台かの車が走る、流れていく音が塊となったゴオゴオとした雑音が鼓膜を揺らす。それ以外は時間が止まったかのようだった。
耐えられなくなったらしい昴が顔を離した。
「なんだ。やっぱお前できないな」
なんだかんだ言って、こいつはできない気がしていた。少し残念で、少しホッとした。
「えっ、やっぱりって、なに?」
「うーん、なんかこう、お前は本当は俺のこと好きってわけでもないんだろ」
「……へ? 好きだよ。絶対好き」
「そうかもしれないけど、それって恋愛ではなく、家族愛みたいなもんの延長で……ストレスのなかった子ども時代に戻りたかっただけなんじゃないのか?」
恋愛気分を楽しみたいような、恋に恋をしているような部分も中にはあったかもしれない。
でも、本当に好きな相手だったら、最初に振られたときにもう少し傷つく気もする。はしゃぎながらあっけらかんと喰らいつけるのは、恋愛の好きとは少し違うからじゃないだろうか。
以前昴にした質問。「なんで奴隷なんてしてんの」その質問に彼女は「櫂くんといると楽しいから」と答えた。「好きだから」ではなく「楽しいから」ぽろっと出たそれは正直な正解に感じられた。
相手が本当に自分を好きなのか。
そういうのって、なんとなくわかるような気がする。もしかしたら昴本人も俺のことが好きだと思い込んでいたかもしれない。でも、本当のところは違うんじゃないか、俺はずっとそう思っていた。いや、違うまではいかないかもしれない。けれど小さな違和感があった。
「……そうなのかなー。あぁ、うん……でも、そういう部分は……否定できないかも」
俺の言葉はまったくの的外れでもなかったようで、昴はブツブツつぶやくように言って考える。
「あぁ……でも、そうかも、しれない。私……櫂くんとまた昔みたいに一緒にいたいなあと思ったんだけど……性別が違うから高校生になったらなかなか厳しいかなあとも思ってたんだよね……」
「……」
「でもあるとき気づいたんだよ! 彼女になれば、ずっと一緒にいられるって……そのとき、それがすごい思いつきに感じられて……でも一緒に遊べるなら奴隷でもいいやとも思っちゃったから……」
「……」
「本当は櫂くんといる子ども時代に戻りたかったのかも……」
「その……いろいろ……結構……ストレスだったんじゃねえの」
「そんな、私は……お姉ちゃんとお母さんに比べたら……そんなに関係ないっていうか、ストレス感じずにすむ場所にいるはずだし……」
「いや、俺だって離婚した親たちのほうがストレスの中央値にいたけど、十分ストレス感じて大暴れしてたぞ。それで余計に親にストレス与えてたけど……俺だってストレス感じる資格はある。お前だってストレス感じちゃいけないなんてことないだろ」
昴がなにを言うか、しばらく待っていたが、うつむいてしまって、なかなか口を開こうとしなかった。
顔が見えないその姿が泣きそうにも見えて、じっと見つめることに妙な罪悪感がわいて、目を逸らす。地面では蝉がひっくり返っていた。
何分間くらいそうしていたのか、昴の声が聞こえて、顔を上げる。
「櫂くん……家出、無理につきあわせてゴメンね」
「いや、俺も…………わりと……楽しかった」
そう言うと、昴がびっくりした顔で、俺に視線をロックさせて固まった。
「あ、ありがとう……櫂くん」
顔を近づけて、じいっと覗き込んでくる。
なんとなく、こちらも正面から彼女の目を見た。
「やっぱりしてみるね!」
「えっ?」
なにを、と思考が言葉を追いかける。そして追いつくより先に、唐突に、唇が重なった。
時間にして三秒間くらい。
混乱の中、感触すらも判然としないまま、勢いよく顔が離された。
「あれ?」
昴は胸のあたりに握り締めた手を当て、再び疑問符を吐き出した。彼女の顔が、急激に赤くなっていく。汗まで噴き出しそうな赤さと、目元まで潤んでいる。
「おかしいな……あれ……? うわ……」
「なんだよ。いったいなんなんだよ……」
「櫂くん……私……」
「うん」
「櫂くんて、こんな顔だっけ……」
「……」
「思ってたより……大人っていうか……男っていうか……なんだろ……あれぇ?」
昴は赤くなったまま、ぶつぶつと呟いている。
「櫂くん……私……」
昴はうつむいて、絞り出すような声をあげた。
「好きになっちゃったかも……」
「だ、誰を」
「櫂くん」
「はい?」
「今……もっと、なっちゃったかも……」
「な、なんだそれ」
「だってなんか、変なの…………すごいドキドキして……苦しくて……」
昴は見たことのない顔で狼狽していた。
こんなに慌てているのを見るのは初めてかもしれない。
「あのっ、私、もう今日帰るね!」
「えっ」
「本当にありがとう! またね!」
歩道橋の上にひとり残された。
頭上にはやたらと広い空が広がっている。
自分の顔面がじわじわと熱くなった。
昴の「好き」はずっと、過激でありながらどこか冗談めいていて、関係はどことなく子どものころの延長でしかなくて、好意に対してはうれしさより呆れが勝るものだった。
今のあれは……もしかしたら初めて、本当に好かれてるような感じがした。
そういうのって、なんとなくわかるような気がする。いや、わからんけど。